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2026/02/20

うみのて『HOW TO DISMANTLE ALL ATOMIC BOMBS』

 うみのて ニューアルバム『HOW TO DISMANTLE ALL ATOMIC BOMBS』へ、澁谷桂一がコメントを寄稿しました。


💿うみのて 4th album

『How To Dismantle All Atomic Bombs』

¥2,025-


ご購入はこちら↓から

yanagawa.thebase.in/items/128796006


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「出会った頃、それがいつのことだったか、忘れちゃいないけれどもうずっと昔だ。

はじめて見た笹口さんの姿は、ライブハウスのある通りのガードレールに腰掛けていて、殺気を放っていた。ように見えた。

空はどんより色の曇り空で、笹口さんは大切なものを守るみたいに背を丸めて、だけど目線の先にあるのは空より濃い色のアスファルトだった。


あれから指折るにも一苦労の年月が経ったけど、曇り空の色は同じで、そらそうだろうけどざけんなよと思う事がある。昔より少し濃くなったような気さえする。ざけんなよ。笹口さんが見つめ殺気を放っていた色がいよいよ空にまで拡がったのだ。


『HOW TO DISMANTLE ALL ATOMIC BOMBS』で血を吐くようにしてうたわれる具体的な社会への──もっといえば世界への態度は、挑発ではない。毛を逆立て身を挺して我が子を守る猫の姿だ。

唸りはメロディに乗って現在へ反響する。祈りは歌詞にくるまれて未来へ宛てられる。

背を丸め毛を逆立てて守られた大切なものが、いつか親猫越しに見る空の色はあたたかいだろう。かつてうたわれた祈りのようにあたたかいだろう。」 

澁谷桂一(映画監督)

2025/05/06

同人誌「三月倶楽部」創刊号

文学フリマ40で販売される同人誌「三月倶楽部」創刊号へ、山河図も小説寄稿にて参加しています。

【山河図の小説】
・澁谷桂一『ラルクアンシエル』 
・澁谷桂二『山河図』
・澁谷桂三『パンダさんパワーMAX!』
・澁谷桂四『Ⅲ月記~おちゃのじかんにきた李徴~』

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「三月倶楽部」創刊号

参加者:
大内彩加|金内健樹|菊地穂波|木村美月|金田一央紀|倉里晴|黒澤多生|椎名慧都|しにょ|澁谷桂一〜四|須貝英|内藤ゆき|中村亮太|藤井千咲子|星乃千鶴|山崎元晴|山中志歩|和田健


文学フリマ東京40にて販売

日時:2025年5月11日
会場:東京ビッグサイト南3-4ホール
ブース:い-09  三月倶楽部

2025/03/03

『金曜日から』の思い出

『金曜日から』初演の稽古期間おそらく終盤頃だったかにタクシーで菊地穂波さんと相席して家路についた日がある。徒歩に強い価値を見いだし、のちに〈夜風派〉と名乗りすら挙げる我々であるから、帰途にあたりタクシー乗車を選んだことから顧みれば私どもの他にも何人かがいたんじゃないかと推測するが思い出せない。

 暗い車内で私たちがどんな話をしたのかというのも記憶に鮮明ではない。私は初演において〈夫〉という役を任されたのだが、二場の終わりに見せ場を持つ夫とその妻である〈田辺さん〉の家庭内での関係性について、というのを、当の二場終わりの台詞のいちいちをあらためながら意見した。具体的にどんなことを意見したのかについては思い出せない。あの頃はまだ新型コロナウイルスへの警戒濃く残る時世であったから、ただでさえ暗い車内のなかでともにマスクをした私たちの表情は稽古疲れの残滓もあいまってその心情を読み取るに難く、私が、もしくは穂波さんが、どんなことを考えていたのかは分からない。


『金曜日から』初演は当初の二〇二一年五月の公演予定がたしか新型コロナウイルスの影響で延期の憂き目に遭い、夏の『午睡荘園』を挟んで同年一二月にようやく上演された。主に台詞なんて覚えられるわけないだろという理由から普段俳優なんてしない私が穂波さんから「自分の企画公演に出演してほしい」と言われた際に「台詞覚えられないんだからできるわけないだろ」とグスり続けたにも関わらず懐柔されてしまった経緯を私は思い出せない。たしか出演にあたり、幾つか条件を出したと思う。それはたとえば〈自分以外に演劇未経験者を複数出す〉とか〈二〇二一年三月までに初稿を書き上げる〉とかだった気がするのだけど、顧みればそのどれも果たされていないのでじゃあどうして出演することになったのかというのがやっぱり思い出せない。ただ、〈組織集団と個人〉というテーマに発して姉妹作品のような『午睡荘園』と『金曜日から』を書くにあたり、穂波さんは私のグズリを突破するだけの熱量を持っていたということか。


 夏の『午睡荘園』本番前日、私と穂波さんはバスで家路についたのだが、ゲネプロおよびその撮影の疲れを市営の鉄製揺籠で癒やすようにして、ともども眠ってしまった。目が覚めると終点で、揺籠は私たちが降りるべき駅を通過していた。仮眠でいくぶんか元気になったのと、スマホの地図で現在地をあらためれば家までの道程はほぼ直進で済むということがわかったのもあり、夏夜の一時間弱を私たちは歩いた。どんなことを話したのかは思い出せない。


 あれから四年の経つあいだ、呑んだ帰りに夜道を連れだって歩く時々に穂波さんがあの頃の話を出すことがある。そんなときの穂波さんは大人が子どもの頃を懐かしむというよりもむしろ小さい子ども自身がてのひらにつつんだ宝物をひらいて見せてくれるときのような印象を私に与える。

 このたびの年の暮れだったか明けだったかにもこの話があった。ついで穂波さんは『金曜日から』再演にあたり、初演を再上演するというのでは意味がない、かつての公演とこんどの公演のどちらにも失礼のないかたちにしたいということ、そのために且つそれゆえに難儀しているというようなことを言った。

「再演だからって楽できるわけじゃなかったですねえ」


〈懐かしむ〉というのはなんて甘美な誘いか。かつて起きた出来事のいちいちをたしかめ、愛で、まるで現在のなかで過去を生きるということは。

 だけど私はいま「思い出」という言葉をこの文章の題に冠しながら、かつての出来事が思い出せないということばかりを思い出している。そして不思議なことに、この形骸化された思い出バナシを私はなぜだか悪しからず感じる。私たちの〈かつての出来事〉は、内容こそ忘れてしまったけど私にとっても宝物だ。それは私のてのひらにつつまれながら指のすき間から夜道を照らしている。

 おそらくは懐かしさのともなわないかたちで上演されるこのたびの『金曜日から』が一体どんな作品なのか、思い出すどころかまだ知らない私は、それでもとってもとっても楽しみ。また酒呑んで歩こう。





排気口公演『金曜日から』


出演|佐藤暉 中村ボリ 坂本ヤマト 桂弘 神愛莉 大久保佑南 宮地あゆみ 関谷芙雪 丑三宙 安藤るい 成瀬清春


作・演出|菊地穂波


日時| 2025年3月

5日19:30/6日15:00 19:30/7日15:00 19:30/8日15:00 19:30/9日13:00 17:30


料金|予約3500円/当日4000円 


会場|千本桜ホール


予約ページ

2024/12/22

『狂骨』〜監督より恋人たちへ〜

 山河図の新作『狂骨』がようやくなんとか完成し、俳優部に観ていただいたところ、「一人で観ない方がいいんじゃないですか」とのお声をいただいた。

私もそう思う!というのも、『狂骨』は恋人たちに観てほしい映画だからだ!


『狂骨』はクリスマスイブに公開ということで、私としては是非とも恋人のみなさんに手を取り合いながら観てほしいものだなぁと思っておるわけです。わざわざクリスマスイブ17時に公開するのはそういう意味です。

前作『蠱毒』は〈恋するすべての人たちへ〉と、たしか書いたけど、『狂骨』はさらに、互いを大切に想い合う恋人たちへあてている。


 なんかさぁー、学生カップルとかがさぁー、クリスマスイブ、もちろんデートしようってなるんだけど、どこも満席だし、イルミネーションは人混みだし、お金もないし、「どうしよっか……」ってなる。

そんな時、どちらが言い出すのでもいいけれど、「あっ、そういえば今日、YouTubeでなんか映画が公開されるんだって」と、どこから聞きつけたのか分からないけど『狂骨』を観る。


もしくは。

なんとなくだらだらYouTubeを観ていたらおすすめ動画とかに『狂骨』があって、なんとなく二人で観ることになる。


もしくは。

『蠱毒』の時に山河図をチャンネル登録してて、公開の通知がきて、なんとなく二人で観ることになる。



──いやぁ、良いじゃないですか。ねぇ?なんて美しいんでしょうね。もちろん片耳イヤホンでね。いやぁ!!良いねぇ!!ヒューヒューだねぇ。


「なんかさ、ホラー映画って書いてあったけどさ……恋の映画だと思ったな……」

「うん、思った……」

「こんな恋もあるんだね」

「だね……」

 こないだ同じ店で買った別々の手袋が、いつのまにか繋がれているんだ。なんとなく、視線を合わせづらい。映画はまだ終わってない。

エンドクレジットが終わってイヤホンを外すと、街では安いクリスマスソングが流れている。俺には聞こえるけどね。だけど2人の耳には聞こえてない。昨日も明日とおんなじはずの街のチカチカした光が、今日は特別に綺麗に見える。俺には昨日も明日もおんなじに見えるけどね。だけど2人にとっては、まるで今夜2人のためだけに演出されたように感ぜられる。


 この映画のキャッチコピーは、「あなたにここにいてほしい」とした。映画を観れば意味はわかるけど、2人もそのことをふっと思い出すのかな。思い出す必要ないか。いるもんね。いま、ここに。


 ふふ……いいね。そうなったらいいな。一応ホラーだけど、まぁなんというか、かなりラブリーな映画にしておいたよ。今回は策謀とかもないし、誰かをハメるようなキャラも出してないよ。全員素直で、全員ピュアさ。それも全部、貴方たちのためさ。ふふ……良いデートのお手伝いは出来たかな。楽しんでくれたら嬉しいな。メリークリスマス!

2024/09/30

ラジオドラマ『未来へ投げキッス』

山河図が構成・編集にて参加している劇団・排気口のスタンドエフエムラジオ「排気口の放課後投げキッス宣言」特別回として、排気口の菊地穂波さんとラジオドラマをつくりました。



十月にももう一本、二人でラジオドラマを作る予定です。演劇でも映画でもない形態なので、排気口の新作演劇と山河図の新作映画をお待たせする間の余興として楽しんでいただければ我々も嬉しく思います。



排気口の放課後投げキッス宣言 第19回ラジオドラマ特別回『未来へ投げキッス』

出演|菊地穂波 澁谷桂一 亀田梨紗 今村美歩 たこ丸 賜末るいか

作|菊地穂波 脚本|澁谷桂一
演出|菊地穂波+澁谷桂一

2022/08/28

排気口『呼ぶにはとおく振りむくにはちかい』感想

排気口の新作公演『呼ぶには遠く振りむくにはちかい』を観た。それで、まあなんか色々思って、今回は感想を書いてみようかなと至り、こうして今、時間が経過している。演劇は小説なり映画なりという他の形態と違って物理的に残らない。上演が開始されたと同時に消滅が始まる。同じく観客は開始と共に作品を忘れ続ける。あらがうつもりはない。にんげんは中途半端な死体として生まれてきて、一生かかって完全な死体になるんだとは寺山修司の言葉だけど、わたしは寺山修司の書いたものを丸々一本読んだり観たりしたことがない。だから、今の引用は別にソレっぽいだけで、ほらそんな寄り道をして、こうしている今も、忘れ続けている。以下の文章はそのドキュメントでもあるんだ。


 他人に言うと驚かれるし、自分で思い直してみても意外なことだが、『呼ぶにはとおく振りむくにはちかい』でわたしは初めて排気口の演劇作品を客席で観た。

排気口という劇団および主宰の菊地穂波と出逢ってわたしの中では久しい時間が経ったが、厳密なことは忘れてしまった。それでもその久しい時間の中で、排気口の公演に“観客”という立場で干渉したことはなかった。伴って、出逢って初めて、事前に台本を読むでもなく解説を受けるでもなく観劇した。つまり繰り返しになるが、観客として鑑賞をしたのだ。

 さて、それを踏まえてこれから排気口に対して感想文なるものを書こうとせんとすなのだが、これも考えみれば初めてだ。わたしは感想文というものにおいて身内がしゃしゃるのが好きではないから。台本を事前に読んでいたり稽古に何度も通っていたりゲネを撮影していたらそれはわたしの考える感想文ではない。感想文というのは個人の雑感に所属する。わたしがいかに、まるで解説のようなことや作者の想いの代弁めいたことを書いたとしても、それらは演劇に対してわたしが眼球を媒介に脳みそで受像した電気の点滅の域を出ない。ここには正解も不正解もない。また、上下左右もない。だから、これから書くことがあなたの抱いた感想と異なるとしてもそれは自然なのであって、また「お前は菊地穂波や排気口と親密なんだろう、だからそういう見方をするんだ」という固定概念をこの時点で抱いている人は今すぐ読むのをやめてくれよな。あなた、いや“お前“、お前に届く言葉はおそらくこれから一行もない。


ところで現在、鑑賞から何十時間という時間の経過がある。その中でわたしはYouTubeで「【けやかけ・そこさく】あかねんありがとう!守屋茜のけやかけ・そこさく名場面まとめ【守屋茜】」という2時間58分の動画をフルで観てしまったので、書く前から感想文にあたっては自分に大いなる負荷をかけてしまっている。だけど、わたしはマジで守屋茜を応援しているから。


 近年の排気口作品というのは概ね大絶賛を受けていたが、今作は満足度の意味で賛否が分かれるのもまた自然だと思った。というのは、わたしの知る限りの排気口の演劇作品において、今作は最高難易度に当たるだろうと思ったからだ。ここでいう難易度というのは、難解という意味ではない。むしろみもふたもないほどに読解のための情報は提示されている。わたしがここで思う“難易度“というのは、作品鑑賞に対しての姿勢が前提とされているという意味である。つまり、「この演劇が何を言わんとしているのか」ということはセリフやエピソードよりもむしろ演劇全体の形態によって示されているので、出来事のうつろいを台詞を頼りに把握するというのでは、ピンとこないことが多いのではないか?ということだ。そしてそれはオーソドックスな鑑賞姿勢だともまた思う。

 あっているかはわからないけれど、有名なフォーマットでたとえてみよう。


『呼ぶにはとおく〜』という題の手紙があなたの手元に届いたとする。あなたは広げてみる。するとそこには意味不明の文字列が並んでいる。こんなだ。

「たたもたたりたやあたかたねたたたがたんたたたたばたたたれ〜た!」 そして手紙の文末には狸のイラストがある。

たとえば狸のイラストが添えられていない作品をわたしは「難解」とする。フォーマットをそもそも知らなければ解読ができない。それはフェアじゃないと思うからだ。

そして、「た」を抜かずにそのまま読んで首を傾げる人のことをわたしは糾弾しない。しかし、この文章を読み解こうとせんとすことを「そんなのは穿った見方だ誰もできないだろ!」と非難されることは、狸のイラストを指差すその動作のみで抵抗する。


 前述した「近年の排気口」というのを一旦“2021年の長編作品“とまとめる。『午睡荘園』、『金曜日から』である。2021年の排気口のテーマは「集団と個人」であると菊地穂波が宣言していたが、それでは『午睡荘園』と『金曜日から』はそれぞれどのようなアプローチで「集団と個人」を描いていたか。

 『午睡荘園』は悪の組織であるショッカーの杉並支部における内部分裂を描いていた。そこには、集団が個人を抑圧し破局・決裂していく様が描かれていた。

 『金曜日から』は企業の超能力研究部署において、未来を展望する予定とそれへの予約が否応のない現在に阻まれ解散することで、個人の夢が集団の興亡から逃れられない様を描いていた。

 これら2つの作品は、一幕でありながら暗転と休憩によって分断された複数の場面(=時間)に時系列が逆配置されることで、観客が「大きな悲しみや離苦」の後に「そうなる前の時間」を鑑賞する。この構造は観客に強制的な(登場人物たちはまだ知らないけれど私たちは知っている)運命づけられた未来への不安と、「あんな悲しいことが起きたけど、それよりずっと前にはこんなに楽しい時間もあったんだ」という郷愁を与え、文字通り“エモ”の効果を生み出している。歪な形であるが観劇を通して観客は作品内に流れる時間を“思い出す“のである。記憶喪失者が記憶を取り戻すのと(違うんだけどそれでも)似ているかもしれない。知らなかったことを思い出す。そこには感動がある。

 また、上記の作劇に伴って菊地穂波テキストに顕著な技である「意味の変容」というのも、観客の感動を生む機能がある。作品の序盤で出てきたあまりにもくだらない台詞や事物が、クライマックスにおいて異なる意味をもって登場する。そしてこれらの作品は、先ほどの手紙のたとえで言うならば、「守屋茜がんばれ〜!」と書いてあったのだ。ドラマという名前のインクで以って。


 さて、「2022年の排気口作品」はどうか。2022年作品のテーマは「戦争」であるらしい。2022年作品の色の予兆は2021年晩秋の短篇『これは走り出さないほうの両足』からあった。『走り出さない〜』は自殺サイトで出会った男女が、訪れた樹海でムーミンとミィに遭遇する二〇分間の演劇。この作品をわたしが観たときにまず感じたそれまでの作品との差異は、こんなシーンである。

 未解決事件サイト閲覧を趣味にもつ自殺志願者の女が、ムーミンとミィの関係性について、二〇年前の女児誘拐事件の被害者と誘拐犯じゃないかと詰め寄る。一度ミィがムーミンを“お父さん”と呼んだことを指摘して、誘拐した女の子にお父さんと呼ばせるムーミンを非難し、ムーミンは「すみませんでした」と土下座をする。

 しかしその直後、実はその事件は解決済みの全く関係のないものであると判明するのだ。


 この短いやり取りは、それまでの排気口のパターンの逆をいく展開であるし、またオーソドックスな作劇と照らし合わせても「そうはしないだろ!」というものじゃないかしら。また、この演劇は結局、自殺志願者たちとムーミン、ミィの心は交流せず、自殺志願者たちの自殺意思も変わらないまま終わる。

 続く2022年『後ろに近づく淋しさ以外は』においても「意味変容」と「想起」の演出はなかった。そしてドラマのインクもほとんど使われていない。では、そういった武器または道具を手放すことで菊地穂波は何をしようとしていたのだろうか。ここからはいよいよすべての文頭に省略された「知らんけども」があると思って欲しい。


ここまで書いた時点でわたしはパソコンを閉じている。休憩時間に「【けやかけ・そこさく】たまに怖い&ドSな理佐まとめ【渡邉理佐】」と「【そこさく】真骨頂な松田里奈」と「【そこさく】最高の友達松田里奈」と「【そこさく】松田里奈 やってるシーン集Part3」と「【けやかけ・そこさく】大沼の最恐にぶっ飛んでる名場面まとめ【大沼晶保】」を観た。閑話休題。


 『走り出さない〜』は笑いに溢れた小作品で、笑いどころの一つとしてムーミンが繰り返す「勸玄くんみたいな土下座」というのがある。菊地穂波が仕掛けたテーマというのはこの「土下座」にある。ムーミンとミィは人間たちに排斥された被差別者であり、その恨みから地球滅亡を目論んでいるのだが、この被差別者の悲しみが繰り返される土下座に表象されている。ムーミンにとって、土下座することだけが異物たる自分達の処世の術なのだ。そして過去から現在まで続くトラウマは、たとえば自殺志願者の男女にもそれぞれ違う形ながらにして同じように抱える傷として存在し、また、癒えない。二〇分間、すべてのキャラクターが他者と分かり合えないままだ。

 『後ろに近づく〜』はコンビニのバックヤードで従業員たちがメリーさんの怪談に怯えるという作品だが、この作品のキャラクターたちもまた過去から現在まで受けた傷というものと、その対象を忘れないし許さない。『走り出さない〜』と異なるのは、その傷と事実は解消されないけれども、それでも楽しい未来のことを考えようという点だった。ここには短編と長編の作品尺の差が関係するのだろうが、今書いていて「お〜」などと思うのは、『呼ぶにはとおく振りむくにはちかい』は、『走り出さない〜』と『後ろに近づく〜』を合わせたような、いや、踏まえたような作品だなということだ。

 2022年の排気口は「戦争」をテーマとすると書いたが、『後ろに近づく〜』ではストーカーの正体がタイムスリップしてやってきた青年兵という設定でそれを匂わせていた。そしてタイムスリップおよび出自をめぐる問題でもって描かれていたのは広義での「歴史性」つまり蓄積されている過去、のようなものだった、気がする。気がするというのは正直何ヶ月も経っちゃってあんまり覚えてないからなのだが、確かそのようなことを感じ取った気がする。現在まで消えない過去性(それはたとえば歴史的な事件を背景とする国同士の対立とも相似でしょう)と、安易な解決ではなく無関係な「未来」を。そんな……。いやちょっとあんまり滅多なことはかけないね。排気口に問い合わせてほしい。


排気口の劇のことを思い出そうとすると欅坂46の顔が浮かぶようになっている。彼女たちは可愛くて面白くて、わたしは誰にも見せられないような歪な笑顔をしている。そしてその顔が、真っ暗な部屋の中でピンスポットの如きスマホの画面によって照らされている。


 枕が長くなってしまったが『呼ぶにはとおく〜』の話に入る。

 修学旅行初日の夜、職員たちが明日に控える平和学習のための戦争演劇の打ち合わせをする。というのが一言で済ませればあらすじとなる。

戦争をテーマとしながら菊地穂波が描いたのは「戦争の悲惨さ」ではない。「戦争のメカニズム」である。戦争はこのようにして起きるということを提示し、そこに「だからやめよう」とか「恐ろしいよね」などとは言っていない。

戦争はなぜ起きるか? それは、他者に非寛容だからだ。他人の事情より自分の事情を優先させるからだ。政治的、宗教的、経済的という内実ではない。共通する構造の話だ。

 劇中において教師をはじめ、劇団「平和」の両親も、つまりはすべての大人たちが全員事情を抱えていて、その事情に基づく「こういうふうにしたい」という現在の欲望を他の全員に押し付けていく。そこには当たり前だが対立が生まれるだろう。しかし、全員が全員、相手の話に聞く耳を持たない。口をひらけば非難と愚痴である。

LGBTやいじめや就職難民といったテーマ性が雑多に挿入されているため主題が分かりづらいという感想をSNSで見かけたが、わたしはそれをテーマとは思わないしまた雑多とも思わない。LGBT問題やいじめ問題や就業問題を悪戯に扱っているわけではなくあくまで“非寛容の具体例“としてキャラクターに設定しているに過ぎない。具体例とは何か。テーマの換言でありそれは分かりやすさのための装置だ。

だからか、排気口の演劇において珍しく思ったのだが、それぞれのキャラクターが自身の暗い心情を吐露する台詞にわたしは表面的な説明以上のものを感じず、つまり各々の個人に対して心が動かなかった。彼らはそれぞれが悲痛な訴えをしていても、次の瞬間には同じく生きづらさを抱える別の存在に対して無礼で非情な言葉を浴びせるのだから。『シャーマンキング』でいうところの「やったらやり返される」ではなく「やられたらやり返す」でしかない。いや、それすらもないのか。

 誰も相手の話を聞いてない。劇序盤の信じられないボリュームでのナンセンスな台詞の応酬は、当人にとっては切実でも他者(それは観客のことでもある)には無意味であるし、チョビタ先生のいうように「静かにして!」「うるさい!」なのである。

 序盤の台詞のボリュームとスピードと量に関してもう一つわたしの見解を述べると、あれは「空襲」の比喩だろう。単に俳優もしくは演出家の失敗とは思えない。その根拠の一つに劇団「平和」の母親が戦争演劇のナレーションをするにあたり語られる被害がすべて空襲についてだったからというのがある。戦禍は空襲だけではないはずなのに。飛び交う怒号と激しい出ハケはさながら爆破である。観客は擬似的な絨毯爆撃に対しストレスを感じて然るべきであって、戦争を描く作品においてそれは一概に「よくない」とは、わたしの意見としては言い難い。(ちなみにわたしは覚悟していたほどストレスではなかったが、まあそれはわたしの感じ方だ)


 こうして書いている間にも少しずつ作品のことを忘れ続けている自分がいる。果たしてあとどのくらい言い及べられるだろうか。


 さて、非寛容を象徴する大人たちの対極には子供たちがあるわけだが、その他にも大人/子供には明確に表される比喩がある。それは過去性と未来性である。「人生」という有限の時間を生きる人間を二分したときに「過去」の蓄積が大きいものを「大人」、「未来」の余白の大きいものが「子供」である。大人たちはその蓄積によって苦しめられ、子供は不確定な未来に不安を感じるのである。ちょうど中間に置かれているのが教育実習生のユカちゃんであり、また猿田でもある。ユカちゃんは「これから始まる恋」を思いながらも、「恋に絶望する」ドロミ先生を非難する。あれは激励のようでいて激励ではない。ドロミ先生の抱える悩みを考慮していないからだ。だから「恋を諦めんな!」的なセリフはすべて、非寛容の属性に入る言動だ。一方の猿田は子供でありながら幽霊つまりは未来を剥奪されている存在である。

 この作品は大人がたくさん出てくるが、主人公──というか作者によって祈りを託されているのはおそらく「子供」で、唯一救済のようなものがあるとすればセレセちゃんの人生にしかない。いじめられているから学校に行きたくない、というのは厳密には母親のトラウマであり、作者がセレセちゃんに施す救済は「このままずっと八歳のままでいい」という彼女の台詞の解呪にある。つまり、未来を志向させるという点だ。

 上記、過去/未来 と人生の時間を二分したが大人も子供も、生きているのは「現在」という一点である。大人たちは現在に居ながらにして過去を振りむき続ける。

セレセちゃんは、この一点のまま繰り返され続ける時間つまりは「戦争演劇の時間」に留まろうとする。修学旅行の初日という“現在“にしか留まれない猿田がそれを解呪するわけだが、ではいかにして?

 

 魔法使いを希望するワンコ先生が魔法の杖を持っている。小さな頃、夜に欲しいものを書いたら朝に現実になっていたというエピソードが語られ、たとえばそこに「魔法」という力を置くと、「欲しいものが手に入る」→「ゆえに自分は魔法使い」→「ゆえに持つ杖は魔法の杖」というように、作者は魔法能力の所在をさりげなくスライドさせている。そこには二つの狙いがあって、一つは大人になったワンコ先生から彼女の自認識で持って特権性を奪うこと。もう一つが、魔法の杖に能力を持たせるということである。

ワンコ先生の語るエピソードと、他の大人たちのセリフにもある「夜だけ見られる夢は朝になったら忘れるんだ」(でしたっけ、まあなんかそのような)という“夜/朝”のモチーフは、夜に夢を、朝に現実を喩えているのだろうが、魔法の杖その能力だけが、現実を超越できるのだ。(たとえ誰かの恣意だとしても)

(作者が)猿田にワンコ先生から魔法の杖を奪わせたのには、猿田を魔法使いにする狙いがある。魔法使いは自分のためではなく、他者のために魔法をかける。チチンプイプイなど唱えなくても、杖を持っているものが魔法使いであり、魔法使いの言葉は“祈り“という形で魔法をかける。

 しかしながら猿田はその祈りを「ウソ」と言う。祈りは魔法、魔法はウソであると。でも、それでも、現実にならないようなことでも、あとから振りむけばウソに終わるかもしれなくても、過去と違って未確定の未来には「絶対」は無いから。このねじれがお分かりになるか。ウソと言わなくていいことをウソとわざわざ規定し、それでいながら遠い未来を呼べという。もしもそれだけで終わっていたなら、わたしはこのクライマックスを詐術的に感じていただろう。魔法って言い切ってくれればいいのになんでわざわざウソと見なすんだろうと。しかしなのだ。ここからがこの作品で最も重要で、おそらく菊地穂波が最も伝えたいメッセージが込められたシーンが到来する。

大事なことなので改行しちゃう。さらに行あけてみるか。それ!


四十度の熱を出しトイレのサンポールを飲み干し四肢を骨折し一家が破産した生徒であるクニエダが、突然全回復するのである。

これなのだ!!!!!!!大真面目にこれがこの演劇の上演時間である九五分において最も感動的なシーンなのであり、菊地穂波のメッセージなのだ。


 上演時、実際には姿を現さないクニエダの全回復が伝えられるセリフで客席には笑いが起きていた。それはいわゆるコメディに笑うのと同じ音をしていた。しかしマジで絶対これが重要なのである。なぜか? “ありえないことだって実際に起きる”という具体例が示されるからだ。いくらでも出まかせを並べられる“言葉“によってではなく、ゆるぎなき現象としての奇跡/魔法なのだ。ありえないなんてことはありえない。あらゆる理を転覆させて、文脈もリアリティも脈絡なく破壊する、そんな「もしそうなったらいいな」は“実際に”起きるのだということを菊地穂波は示している。それが素晴らしいじゃないですかとわたしは思う。「そんなわけない」「現実には起きない」というのはおかしい。なぜならそもそも“実際に奇跡が起きている”のは「フィクションの中において」なのだから。菊地穂波はたとえば「戦争は起きなかったことにしよう」などとは言っていない。戦争演劇の中で戦争が終わっちゃったことにしようぜという提案が結局実現しなかったことでそれは強調される。戦争とは現実世界で過去実際に起きた大いなる悲しみであって、その転覆をフィクションが図ることはおそらく菊地穂波の誠実さに背くのだろう。では悲しみにどう立ち向かうか?この世界において、現実や過去の揺るがなさに対抗できるのは、フィクションのフィクション性と、そして未確定の未来に夢をみることなのだ。どちらも、起きながらにして。


 さて、ちょっと前に「戦争のメカニズム=他者への非寛容」と書いたが、この演劇において菊地穂波は「だから寛容であれ」とはしない。なぜなら言うまでもなく私たちは他人だからである。これは他の排気口作品にも共通する姿勢なのだが「手を繋ぐのではなく手を離すことを祈る」というのが他者関係性の健全に対する菊地穂波のスタンスである。

 育ってきた環境が違うから好き嫌いを否めないはずなのに、分かり合えるはずだと盲信して他者に接することよりも、どんなにそばにいる人でも他人とは分かり合えないことだけが絶対で、だから、辛いかもだけどさ、この手を離してみよう。 こう言うのだ。この書き方でわからない人は増村保造『青空娘』なり古沢良太『リーガルハイ』子役の回なりをご覧いただければお分かりかと思う。あれらとおんなじである。多分ね。

だからこそ、全員が当初「一緒に演劇をやろう!」としていたのに、一緒に演劇をしないという結論に達するのだ。それは全員が同じように志向できるはずだという盲信からの解放だ。連帯の手を離すという連帯をする。サンは森で、わたしはたたら場で暮らそう。修学旅行は先生たちのためのものではないのだから。誰のためか?未来を表象する、子供たちのためのものだ。



──はぁ。もうそろそろ書くことが浮かばなくなった。そもそもこの文束はしょせんそこにパブリックな責任を伴わない感想文なのだ。終わりのところで終わりでいいのだ。だからわたしは現在、以下のことを考えている。


「まつりちゃん(松田里奈さん)と自分の関係性において、最適なものはどんなであろうか?」

思いめぐらしたどり着いたのは“まつりちゃんが妹”だった。

あんな妹いたらめっちゃいいよなあ。小学生の時は一緒に夏祭りとか行くよね。だけどさ、中学に上がって、やっぱ「今年からは友達と行くから」とか言われちゃうんだろうな。「そっちも友達と行けばいいじゃん、恥ずかしいよもう」とか言われて、うっさいわとか返すわけだけど、意外にも「(無言)」みたいな気持ちで、それでしらこい顔してリビングでテレビとか観てるんだけど、ママが「あんたも夏祭り行かないの?」とか話しかけてきて、「カネねーし」とか呟くんだけど、「小遣いあげるから、行ってきなさいよ、里奈の様子もみてきてよ心配だし」つって千円札を握らされるわけ。

それで、しょうがないなあみたいな態度決めてから、サンダルで、ぶらぶら神社までの道を歩くんだ。夏祭りは神社で行われているからね。喧騒ともんわりした熱気が遠く聞こえてきて、湿気に希釈されたオレンジ色の光がグラデーションみたいに一歩一歩濃くなってくる。

着いたはいいもののやることなくて、焼きそばと、りんご飴買って、里奈はりんご飴好きだったからね、もし会ったらカッコつけちゃおうかなみたいな。恥ずいか。でもまあいいやって思って一応買って、振り返ったら人ごみの中に浴衣姿の里奈が見えるわけ。声かけようと手を伸ばした瞬間、りなの傍らに半袖シャツ姿の男の子がいるんだ。

二人の手にはさ、りんご飴が揃いであって、笑い合うっていうよりはこの時間を大切にしているみたいにお互い歩調に気を遣いあってる。お前「部活の友達」って言ってたじゃん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。

 気づくと神社から出ていて、焼きそばは手元になくなってて、でもりんご飴はあるから、りんご飴が「見間違いなんかじゃないんだぜ」って言ってるみたいで、「先ほどの時間は実際に起きてしまったのだぜ」と囁いてるみたいで。捨てちまおうとするんだけど、捨てたらなんか、全部ダメな感じがして、どうしようと立ち尽くしてしまう。

「何してんの?」そんな声に顔を上げるとそこには同じクラスの守屋さん。全然浴衣じゃなくて、普通に部活帰りみたいな夏用ジャージ着ていて、普通に部活帰りみたいにテニスラケットの入ってるバッグを肩に提げている。

「お祭り?一人で?哀れすぎない?」守屋さんは容赦がない。そもそもあんまり話したことないのに。

「りんご飴じゃん!いいな」

「え、要る?」

「え、いいの?」

「いいんだ」

「ありがと」守屋さんはすぐに齧り付いて「硬って」と笑った。

なんだか笑ってしまって「守屋さんは部活帰り?」と訊いてみたら「そうだよ。わたしもこれからお祭り行くの。みんなを待ってんだ」だってさ。

「もうすぐ花火始まっちゃうよ」と困り顔の守屋さんの横顔は美しくもやはり畏れ多さを感じさせて、でもその横顔が綻んだ。

「あっ!」

視線の先には学年の女子たち。

「一緒にいく?」って守屋さんが言ってくれるんだけど、「いやあ、帰ります」と首を振って、そんじゃあーとポケットに手をつっこんだ。

下を向いて歩いていると、離れたところで「おーい!」と声がした。

振り返ると守屋さんが手を振っている。合流した女子たちは「え?誰?」とか「どうしたの?」というようなことを言って、笑いながらもちょっと訝しげだ。

「りんご飴ありがとね!!また学校でね!!」

その時、夜なのに一瞬昼間みたいに明るくなった。遅れて大きな音。花火。

そっちを見ていたら、「ねえ」と至近距離で声がして、驚いて振りむくと守屋さんがいた。

「聞こえた? りんご飴、ありがとね」

「え、うん、聞こえたよ笑」

「あのさ、絶対誰にも言わないで欲しいんだけど」

「え?」

「教えてあげる」

「な、何?」

「わたし、アイドルんなるんだ。秋になったら」

「えっ、まじ?ウソ、すご」

「受かったんだ。でも誰にも言わないでよ」

「まじ…やばっ。え、ファンレターとか書くよ!地元のやつってバレないようにするわ笑」

「なんでよ笑」

わたしは興奮していたんだろう。

「まじ、まじ書く。楽しみにしててよ。まじ暗号使うから。まじ絶対バレないやつ笑」

「まじ笑 楽しみにしてるわ」

「え、てか、なんで教えてくれたの」

「りんご飴くれたから、お礼。それに、やっぱりちょっと、誰かに自慢したいって思っちゃったんだ。かっこ悪いかもだけど、やっぱ聞いてほしいって」

そこで一度守屋さんは言葉を切って。

「すっごくうれしいんだ。夢が叶ったって感じなんだ」

2022/05/17

femme fatale「Role of a Life」MVメイキング



監督したfemme fatale「Role of a Life」MVのメイキング映像がYouTubeにて公開になっております。
MV本編と併せてご覧いただけたら嬉しいです。

2022/05/06

femme fatale「Role of a Life」MV

femme fatale「Role of a Life」 MVを澁谷が監督しました。西村理佐とのW監督です。




サブスクも解禁されております。ぜひぜひ!

2022/01/21

牧野真莉愛ちゃんのインスタグラム投稿への雑感

 牧野真莉愛さんは、仮面ライダー龍騎的に言えば「闘わなければ生き残れない」であろう世界において、その"闘う"相手を他の誰でもなく自分自身のみに設定し(本人の言葉を借りれば何度となく繰り返される"克己"の体現)、本気で戦い続けることはこれはベタなようでいて一番難しいことをキッズだった頃からひたすら続けている(のであろうと見ていて思う)。誰かを蹴落とすことなくそれは裏返せば自己認識として光の道から踏み外さずに歩きつづけることを可能にする唯一の方法に感じるし、とはいえそんな事は可能なのか?という悲観論者どもに文字通り身体を伴った偶像として光を与え続ける所業であるが、それはともかくとしてハミングによって歌詞が遅延され続けた末に「ウィーダー」と言っていませんか?

2021/11/30

生き方の問題

告解のようであくまでも独善でしかないという強烈な自覚を持ちながら(それはおためごかしとはちょっと違う)、それでいてこの小説が「手紙」というテイをとりながらもあくまで「小説」であるという前提によって結局は「生き方の問題」についての告解として成立している。
「手紙というテイ」という設定を以てメタ視線を挿入する→一度書いたことを取り返しがつかないとする/一度書いたけど4万字消したと書くことは"作家"である自分もしくは"作品"であることから逃げようとしているのか?面白がっているだけか?
いつも思うけどどうしてここまで自分というもの、というか作家であるという自分の特権を引き摺り下ろそうとするんだろうと思う。それは反転してやはり強烈な創作欲望への自覚があるように思うし、なんだか苛烈ですらある。

グラビアイメージDVDが文学に登場するのを見たのも初めてだし、グラビアイメージDVDの映像をプロの小説家が本気を出して描写するとこうなるんだとワロタ。その筆致はほとんどテクノロジーに近い。

2021/11/17

排気口「金曜日から」ティザー映像

排気口「金曜日から」のティザー映像"籠中から"が公開されました。以下リンク(排気口ツイッター)から視聴できます。





「金曜日から」予約受付中です。


排気口 菊地穂波企画公演「金曜日から」



日時|2021年12月17日〜19日
料金|3,000円
会場|阿佐ヶ谷アートスペースプロット

出演|井上文華 倉里晴 ケンタウロス骨 刺腹由紀 佐竹謙伸 菅野姉妹 土橋銘菓 はぎわら水雨子 波世側まる 平岡唯君 広野健至

作・演出|菊地穂波
製作|排気口


「金曜日から」ティザー映像"籠中から"


出演|
真鶸/大畑優衣
スズメ/中薗菜々子
白石蓮生/沖野薫
白烏/村上奈々子
湖底/佐藤桃子
ツグミ/悠里

製作|山河図

2021/06/17

惡の華

変態なんかじゃない━━"変態じゃなくなる"ではなく"変態じゃなかった"ということ、それは観客が最初からずっと分かっていたことだと思うけど、春日くん自身が(なにかを手放す感覚を持ちながら)実感する映画ということだろう。「自身が実感する」ことこそが"成長する"ということであるし、思春期を描くというのはそれを撮るということだ。と思う。

2021/06/13

劇団きのこ牛乳「はらたけ科」Bプログラム『珍しくよく喋ったり哀しいことも起こってないよ』

私はたしか2018年、2017年か?2018年のような気がする、2018年ということにしよう。2018年だ。2018年にきのこ牛乳のオムニバス公演を観て、とても面白く思った。たしか2回行った。それはたしか2回観なよと言われたというのもある。ともかく2回観ている。
それ以来観に行ってなかったが、今回は菊地穂波さんが新作の脚本を提供した作品があるというので、私は彼のファンであるので、面白かったよなきのこ牛乳とか思いながらひさしぶりに観劇した。
ここまで書いていて、この文章を書くことが全然気乗りしないしなんかもうめんどくさいという気持ちが濃くなってきた。まだこんなに序盤なのに。
Bプログラムに行ったので二本立てのそのどちらもについて書こうかなと思っていたが、ダメだ。全然書いていて楽しくない。とりあえず穂波さんが書いた「珍しく〜」の方だけにとどめる。
私は穂波さんとはダチンコだが、ダチンコであることは全く関係なく菊地穂波のファンでもある。ときどき書いたり言ったりするが、菊地穂波の作品を目にする度に「演劇をやっていたら心が折れて辞めてしまうだろう」と思う。面白くて。それに、「珍しく〜」を書いた頃の穂波さんとは多分まだ出会ってなくて、だから“ダチンコである穂波さん”ではなく純然たる“菊地穂波”であるとも言える。
前置きは終わりにして感想に入るが端的に言って最悪だった。もう2度とこんな体験をしたくないしもしも私が菊地穂波の立場で、つまりあんなふうに自分の書いた脚本を扱われたのならたちまち大猿になって暴れてしまうだろう。脚本は面白かった。脚本は面白いのに(脚本を読解しそれを俳優の身体を通して伝えることを一旦“演出”とすると)演出が最悪だった。もしかすると面白く観劇した方もいるのかもしれないのでそういう方の感想を否定したくはないという理由から具体的な箇所を言及するのはやめといてやるが、絶対にこういうト書きや指示は菊地穂波は書かないであろう箇所が今パッと思い出すだけでも二箇所ある。わかるだろ。観た人なら。作った人なら。なんであんなことをするんだ。どうしてあんなに、作家というものに、もっと言えば“テキスト”というものに、一切の敬意を払わずに“演出”なんて行為を行えるんだ。アレンジをすることや改変をすることそれ自体を否定しているわけではない。そういうものはテキストに対する 抽象的に言えば敬意/具体的に言えば読解 を前提にしていると言っている。それが致命的に欠如していると言っているんだ。「敬意も払ってるし読解もしている」と言うなら重傷で、やったつもりでも結果として出来てないからもう2度と他人を巻き込んで悲しみの絨毯爆撃みたいなことはしない方がいいっていうかするな。
菊地穂波さん自身が観劇した上で、私が論うような怒りと悲しみの混合液みたいな感情を微塵も感じていなくて、「面白かった!」「私のテキストを輝かせてくれてありがとう」と心から思えるなら私は菊地穂波への信頼を、失うとまでは言わずともその多くを欠かしてしまうかもしれない。言い換えれば、そんなこと絶対にあり得ないくらい最悪だったといってるんだ。
実際にキレるかどうかはわからないけど多分キレないだろう。原稿料を貰ってシナリオを書くというのは、仕事というのは、きっとそういうものだから。脚本に対する対価を貰っている以上、仕方ない。権利がないかもしれない。チケット代をきっちり払ってよかった。チケット代を払うということは私が「客である」つまりこういう事を書く権利があるということだ。ちなみに野暮な事を申し上げると、「金を返せ」とか「菊地氏に謝れ!」とかは思わない。当たり前だがそういうことではない。面白い脚本を稚拙な演出をして最悪になった演劇を観て最悪な気持ちになった。それだけだ。ネガキャンではない。感想文である。ご了承頂けることを願う。




追記:
当エントリーはめのんが「ゴテンバサノバザール」という企画をしている(そして現在♯2を現状開催している)という事に多いに起因している。"自分のテキストを他人に託す"という企画であるが、"他人のテキストに取り組む"という企画に参加者の全員が応答をしてくれたという強い実感と感動があった。そういう実感と感動を受けた身として、そこに反する(と感じてしまった)作品を観た自分が無言ないし看過することは矜持として出来なかった。これはゴテンバサノバザール参加者・そして視聴してくださっている皆さんへの私信である。

2021/05/07

回転

 私が昨年「透明人間」を観たときに、「なぁんだ、そっちなのかぁ」と思ってしまった不満というか嗜好を鮮やかに掬ってくれた。私はこういうものが観たかったしこういうものが好きなんだ。61年に作られていたのだ。良かった。


 冒頭の「想像力はあるか?」という台詞がこの映画の醍醐味を象徴しているわけだが、「想像力はあるか?」というのはすべての創作を鑑賞するにあたって鑑賞者に向けられている言葉でもある。

 いったんホラー映画というものを具体例として申し上げれば、(少なくとも私は)一度も目にしたことがない幽霊というモノを映画の中で目撃する。その時、「えぇ?なにそれ?幽霊なんていないのに?」と斜に構えた、というかリアリティラインを自分の人生経験のみに依拠する態度をとっていては、なにも楽しめない。楽しむ資格がない。

 もちろん前述したようにこれは具体的であってすべてのフィクションに言える。

キムタクがクリュウと名乗り検事をやっている姿を見て「俳優の木村なのに?!」と思ってしまうなら木や草と話をして大人になる前にどこかへ連れていかれてしまうだろう。

創作を楽しむために必要とされる前提は想像力なのだ。


 翻って、作品の内部のことで言えばこれが素晴らしいなと私が感じるのは、主人公が子供たちに対して彼らの「想像力」を否定すること。しかも主人公自身の想像力で以って。想像力が想像力を否定し破壊する。

それは許されることではない。だから罰が下るのだ。これは逆説だ。


 ひとつの作品について解釈が何通りもできるということは素敵なことだ。きっとそういう作品については、作者の意図を外れた考察もあるだろう。そのとき、作品はたんなる誰かの創造を超えて人にとっての世界(自然)に一致する。それこそが本当に素敵なことで意義深いことだ。

 上記の私の解釈は文字通り私の解釈でしかない。誰かに正論として提出するものではない。他人の想像力を否定するようなことはしたくない。罰を下されたくない。


https://filmarks.com/movies/16127

2021/04/19

夏の娘たち〜ひめごと〜

 空間というより時間、が文字通り切り取られてそれによって空間の方が歪む、しかしながら映画体験はあくまで「時間」の中にしかないという整理してみると誰でも分かるけど気にしてないことに監督が意識的であるが故にうまれる効果が、気持ち悪さ、「えっ?」という動揺(それでも「なんで?」とは思わない)によって観客の意識を釘付けにして、映画は非常に繊細で微妙な波打ち際を足を濡らさず全力で推進する。


 この映画の特徴である歪なズームアップも、小学生にカメラ持たせても同じことをやりそうなものだが、ちょっと調べたところその技にまばたきという名前までつけてやっていたようだし、川の整音も「真似しちゃダメですよ」とインタビューで言いながらもすべてわざとやっていたらしい。


 つまり、テキトーにやってもそうなることすらその方が面白いっしょ意識つまり"あえて"ではなく(この"あえてではない"ということが本当に大切なのだけど)、「そうするべき」という強い順当性のもと丁寧にやる点こそ堀禎一が私にとって唯一無二の大切な監督である一番の理由と、観る前から思っていたことをさらに思わされた。


──と書いてみたものの監督への個人的な想いを作品レビューに書くのは忍ばれる。それは監督の仕事に対して観客が過度な感傷を持つということで、別に他の監督にならともかく俺は、堀禎一だけにはそういうことをしたくないから。

 すべての作品は観客と作家の丁度まんなかの位置に置いてあって、観客はそれをはじめて体験するみじかい時間、作品を通して一度だけ作家と話すことができる。


 「映画は歳を取らない」という言葉が上映後のトークショーであったが、申し訳ないけど私はそれを希望の言葉とは思えない。

私が未熟である証拠だ。

いつかこの映画に対して、その言葉を希望的に思える日が来るといい。

それは絶対叶わないことじゃない。

手段がまだあることを私は知っている。

あなたにいつかまた会えたなら、それはどんなに嬉しいことだろう。


https://filmarks.com/movies/74393

2021/04/18

ターン

 事情あってタイムリープモノを観ることにし、タイムリープモノといえば「ターン」かなと思って観た。「ターン」しか思いつかなかった。


 前半のピークとなるレストランデートシーンで、ベタではあろうに不覚にもグッ…!ときてしまった。それは単純にベタな感動ではあるけどそれだけではない。

 しらける危険大の説明台詞をキャラクターにさせて客に情報を共有させる手として、なるほどその手があったかというか、まぁアレが端的なのかはわからんけど、あぁいいですね…と思ったのも確か。


 俺なんかどうしようもないので俺だったらレストランデートをクライマックスに持ってきてしまいそうだけど、確かにそれだと何も解決しない。

 そこからカキザキによって物語が展開するわけだけどなるほどカキザキていうアイデアは見事、お上手という感じだしカキザキが出てくるシーンが全部良い。良いというのは上手いという意味。展開としては設定に対してベタなのかもしれないが。わからんが。俺だったらしてやったりの顔をしてしまいそう。職人が作った映画なのだ。たぶん。


 なんにせよアイデアや設定に終始せずそこから展開をさせるというのは大切なことだよねという中学生みたいなことを思った。いわゆる文芸邦画エモエンタメ映画のかなりオーソドックスな型なのであろう。職人が作った映画なのだ。たぶん。


 ラストの展開はやや強引な気もする。ちょっとひっかかってる自分がいないわけでもない。でもまぁ、いいかとも思う。なんかエモいし。そんなことするなよってのもない。とくにラストだけど編集も普通に良い。べつに過剰にしてなくてそこも良い。職人が作った映画なのだ。たぶん。


https://filmarks.com/movies/33058

2021/03/18

トキワ荘の青春

 私が今暮らしている部屋を借りたとき、「トキワ荘の青春」を思い出していた。


 すべての若者がそうであるように私もまた「まんが道」をはじめとするトキワ荘にまつわる作品を読んで胸打たれた一人であり、そしてまたすべてのそういう人たちが其々のトキワ荘を借家の候補に探すようにして私は不動産屋さんに「トキワ荘の青春」って観たことありますか?ああいう部屋に暮らしたいんですが、と訊いた。

 不動産屋のお兄さんは「見たことありませんね」と言った。「だけど探してみます。」


 私は結局、トキワ荘に比べれば交通の便が良く、駅近で、少し広い部屋を借りることになった。それでもそのアパートは木造で、畳の部屋で、風呂がなかった。

 はじめての夜、家具がほとんど何もない部屋で、DVDの「トキワ荘の青春」をひとり観た。作品の中で入居してくる若者のようなきらきらした気持ちには何故かならなかった。やってやるぞという気持ちにはならなかった。トキワ荘の青春その時代より地球は温暖していて夏が暑く、そしてエアコンがあった。

 私は結局、トキワ荘に比べれば交通の便が良く、駅近で、少し広い部屋を借りたのだと思った。映画の中のことは映画の外には無く、そもそも私は漫画家を目指していなかった。

 そんな夜からしばらくの時間が経って、私にも少しだけども友達ができたりして、家でちゃぶ台を囲んで酒を飲む夜があったりもした。その頃に比べれば集まる頻度が少なくなった友達と映画館で「トキワ荘の青春」を観た。やっぱり、別に、自分たちと作中の彼らを重ねたりはしなかった。それでももちろん素晴らしい映画だと思ったけど。また別のことなのだ。悲しいことではない。

 劇場が明るくなると友達のひとりがむせぶほど泣いていた。

 私たちはとんかつ屋で定食を食べて、昼からビールをわけわけして飲んだ。帰り道の電車の中で、私は部屋でひとりDVDを観た日のことを思い出した。


https://filmarks.com/movies/33058

2021/03/01

ライアー×ライアー

 老害の告解として申し上げるが私は森七菜も松村北斗もタイプの顔ではない。ルックスに惹かれない。
 そんな老害である私ですら、しかし透と湊にはきゅんきゅんしっぱなしの2時間で満足でした!!!!!!
 大好きな女の子の後ろ姿に手を振りつづける透、悲しくなってノーモーションで突然ぽろぽろ泣いちゃう透、忘れてたことを思い出す呆けた顔の湊、不意を突かれて呆けた顔の湊、エクアドルの本を持ってる透……ラヴぃ。

 設定を読んだ時から絶対おもしろいだろこんなんと思っていて、予告を何度も観ながら「どうなっちゃうの〜〜!?」と思っていた私は、本編が始まって2時間のあいだ、やはりずっと「どうなっちゃうの〜〜!?」と口に手を当てていた。
 期待しすぎて予測を立てすぎてオチの選択肢を全部用意してしまった私だったけど、それでもある程度はびっくりできて良かった。しかしあのラスト、客観的に見るとけっこうえげつないというか、悪夢みたいだと思っちゃったけどそれは良く言えば重層的になってるということなのか。

 必要以上に何度も反復され強調される"手を繋ぐ"というアクションと「迷子にならないよう手を繋ごう」という、耳慣れた常套句に新しい意味を付与する、これこそが創作においては肝心なことだと老害は思います。
迷子にならないよう手を繋ごう。
そうなのだ。それがテーマなのだ。

2021/02/27

亀田梨紗写真集

 被写体の力、というものは、あって、しかもそれは一定量撮影者の個性に左右されない。
どんな人がどんなカメラで撮ってもどんな演出しても、揺らがないものがあるということだ。
撮影者を否定しているわけではない。撮影者の個性とはその先に枝分かれするものだ。
 
 かめりささんの写真集を買った。
 なんか最近SNSのタイムラインでかめりささんの写真を目にすることが多くて、そのどれもに、写真の良し悪しとはまた別の、一言では言いづらいエネルギーを感じていた。都度、これはなんだろう?と思っていた。それらを撮影した人は一人ではなかったのに、受像したエネルギーはどれも同様だったからだ。
 エネルギーは渦を巻いていた。ちょうど絵の具を水の入ったコップに垂らしたときのようなイメージをしていた。
 そして写真集を買った。知り合いの写真集を購入するなんて初めてだった。照れ屋のおれは本来そういうおれではない。
掲載されていた写真はおれがSNSで見ていたのとはまた違うタッチだったし、SNSで見ていたのとは少し趣が異なっていた。
しかしながら、おれはまた同様の渦を感じた。
 少し調べてみたところ、この写真集は一日や二日でエイヤッと撮影されたものではないっぽかった。
雰囲気の異なる幾つかの、大まかに言えば章があるのはそういうわけかと納得した。
 しかしながら、おれはどれもに同様の渦を感じた。
 これはなんなのだろうと、あまり真剣になりすぎないよう気をつけながら、たとえば木耳とご飯を出汁で炊き込んだやつを食べたり、木耳と卵とキャベツを炒めたやつを食べたり、セブンイレブンの見慣れない飲み物をタバドリにして喫煙したり、シン・ウルトラマンのソフビを買ったり、シン・ウルトラマンのソフビを窓から射し込む夕日に照らしてDP2sで写真に撮ったり、隣町の図書館でアンゲラ・ゾンマー・ボーデンブルグの「ちびっこ吸血鬼」の本を三冊借りたり、それを読みながらドトールで昼寝したり、「くるぐる使い」を読み終えたり、「花束みたいな恋をした」を観たり、穂波さんに駅前でばったり会って彼の家で朝まで酒を呑みながらなぞなぞをしたり、穂波さんに駅前でばったり会っておれの家で朝まで酒を呑みながらトランプをしたり、澁谷ツタヤで「ウルトラセブン」を借りてきて観たり、スパルタローカルズ「セコンドファンファーレ」「悲しい耳鳴り」を聴いたり、スパルタローカルズの解散ライブの映像を観たり、LIGHTERS「Don’t worry」を聴いたり、Jack Stauder「Pop Food」を聴いたり、Workshopを聴いたり、木村カエラ「TREE CLIMBERS」を聴いたり、志ん朝の「茶釜」「高田馬場」「化け物使い」「百年目」「そば清」を聴いたり、The Marias「I Don’t Know You」を聴いたところで、“この感じだ“と思った。そこで捉えた感じがあった。
 英語なので歌詞は読んでみても虫食いのようにしかわからなかった。翻訳をする気にはならなかった。意味が分かってしまうとしらけることもある。その予感が働いた。
 “情報“なんかどうでもいいことがある。正体を説明できない方がいいこともある。マリアズのこともあんまりおれは良く知らない。ボーカルが女の子ということしかわからない。どこの国のバンドなのかも知らない。英語圏なんだろうけど。もろもろをすっ飛ばして、これが俺が写真集から感じたムードでは、あった。
 そして、エネルギーの正体を考えることに終止符を打つために、この文章冒頭のことを書いた。あんなことは元から誰もが知っていて、そしてかめりささんという被写体を撮影したことがある人なら誰でも感じているであろう要素の一つに過ぎない。敗北だ。
 だから書いてみたところでエネルギーの正体のことは依然おれの中で、イメージの域を出ない。出なくていい。なんだかこんな風に書いていること何もかも野暮に思えてきた。敗北だ。だけどそれでいいのかもしれない。
おれもかめりささんの写真撮ってみたいです。俯き白旗を振りながら申し上げます。
 
There’s weight in my bed
Where you laid and you said
I don’t know you
I don’t know you
If we tried to retrace
Would it show on my face
And remind you
I don’t mind you
But babe this isn’t right
But if you’d rather dry your eyes then honestly I’m fine
With keeping my trust in you
And making up if we tried
I’m hardly unsatisfied



2021/02/25

花束みたいな恋をした

中央線の各駅にあるぼろぼろのアパートには必ず鍵がかかっていない部屋があって、なぜかといえば盗まれるようなものがないからだ。
夜になるとそれぞれの部屋の小さな窓辺で峯田和伸と麻生久美子が夜光雪を眺めている。
映画に出てくる中央線のアパートには、ベランダがない。外階段もない。一軒もない。
そしてそんな映画のなかで峯田が言っていたのはこんなセリフではない。
“みんなの中にも、きっと福満しげゆきは住んでる。
その福満はきっと言うだろう。「死なせてくれ!殺してくれ!」“
 
ともあれ「花束みたいな〜」前半を観ながら私は以上のセンテンスを思い出していた。
不思議なのは、そんなセンテンスはないし、私には別に麦くん絹ちゃんのような出会いも思い出も彼らのような青春への憧れもないのに胸が苦しかったということだ。
まるで呪術高専の東堂先輩だけど、カルチャーに恥ずかしい気持ちよりも息苦しさが優先されていた。理由はわからない。
 
物語が進むにつれ胸の苦しさは消えていった。召喚された福満は丸くなって眠った。
後半の方がずっと微笑ましく思った。素敵なカップルだという感想。
なぜか?
彼らが(最初から)最後までずっと両思いだったから。
終始口に出さずとも全く同じタイミングで全く同じことを感じていたから。
相手のことを素敵に思うことも、相手に不満を持つことも、相手に別れを決心することも、すべて全く同じタイミングである。
それは「恋」ではないしかといって「愛」ということではない。
ただお互いの自分の魂の片割れに出逢ったということだ。鏡みたいに。
安らぐにせよにせよ悲しむにせよ“そういう相手を持つ“ことは、奇跡的だし、素晴らしいことだと私は思う。
そう思うことに私はロマンを感じたいと思っている。
「奇跡は(映画の中では)起きる」と教えてくれている。
 
別れた二人が過ごした三ヶ月を、私は何より悲しくそして美しい日々のように思った。
飼い猫をどちらが引き取るかのジャンケン、他のどんな描写より二人が大人になってしまった切なさがある。
彼らのおしまいの三ヶ月こそ“あり得るはずだった/あり得たかもしれない/しかしもうあり得ないであろう“二人の日々だからだ。
 
ラストシーンで、一年位前に読んだ本の文章を思い出した。
それは悲しい運命を辿ることになるひと組の夫婦がまだ幸せだった頃に撮影された、彼らの肖像写真についての文章だ。
「この二人が悲劇的に運命づけられていながらも、なおそれとは違った未来への可能性のなかにおいても同時に捉えられているからこそ、彼はこの写真の二人に感動したに違いないのだ。人生の様々な可能性に向かって開かれたままの状態で結晶化している二人の姿に……。」
「この写真から、未来の出来事との連関によって意味づけられてしまうこと(運命としての悲劇)からも、当事者たちの現状認識によって意味付けられていたこと(婚約という幸福)からもこぼれ落ちてしまうような、あり得たかもしれない別の歴史の可能性(「未来における別の幸福」とでも言うべきか)を感じ取ったと思われる。実は彼の言う「想起としての歴史」とは、そのもう一つの別の未来の可能性、つまり果たされなかった革命の可能性を、過去の出来事の片隅に見出し、それを現在へともたらすことと言えよう。」
(引用:長谷正人「「想起」としての映像文化史」)
あの“画像“を発見した麦くんは笑っていた。
さよならだけがバッドエンドではない。
ふたりの心が人生が通うことはもうないとしても、奇跡は起こる。少なくとも映画の中では。