空間というより時間、が文字通り切り取られてそれによって空間の方が歪む、しかしながら映画体験はあくまで「時間」の中にしかないという整理してみると誰でも分かるけど気にしてないことに監督が意識的であるが故にうまれる効果が、気持ち悪さ、「えっ?」という動揺(それでも「なんで?」とは思わない)によって観客の意識を釘付けにして、映画は非常に繊細で微妙な波打ち際を足を濡らさず全力で推進する。
この映画の特徴である歪なズームアップも、小学生にカメラ持たせても同じことをやりそうなものだが、ちょっと調べたところその技にまばたきという名前までつけてやっていたようだし、川の整音も「真似しちゃダメですよ」とインタビューで言いながらもすべてわざとやっていたらしい。
つまり、テキトーにやってもそうなることすらその方が面白いっしょ意識つまり"あえて"ではなく(この"あえてではない"ということが本当に大切なのだけど)、「そうするべき」という強い順当性のもと丁寧にやる点こそ堀禎一が私にとって唯一無二の大切な監督である一番の理由と、観る前から思っていたことをさらに思わされた。
──と書いてみたものの監督への個人的な想いを作品レビューに書くのは忍ばれる。それは監督の仕事に対して観客が過度な感傷を持つということで、別に他の監督にならともかく俺は、堀禎一だけにはそういうことをしたくないから。
すべての作品は観客と作家の丁度まんなかの位置に置いてあって、観客はそれをはじめて体験するみじかい時間、作品を通して一度だけ作家と話すことができる。
「映画は歳を取らない」という言葉が上映後のトークショーであったが、申し訳ないけど私はそれを希望の言葉とは思えない。
私が未熟である証拠だ。
いつかこの映画に対して、その言葉を希望的に思える日が来るといい。
それは絶対叶わないことじゃない。
手段がまだあることを私は知っている。
あなたにいつかまた会えたなら、それはどんなに嬉しいことだろう。
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