2020/08/21

さよならみどりちゃん

映画……というか映画にのみならず映像および映像を視聴するという行為がテクノロジーの発展に伴って急速に獲得したものは「距離(の解消)」である。それは物理的な距離のみならず時間的な隔たりのこともそうだ。

2020年8月20日21時に"女子のあこがれ"の一時代を築き上げた白石麻衣やんがYoutubeアカウントを開設しライブ配信した。ファンにとってあこがれ、言い換えれば到達できない存在でしかなかった白石麻衣が/それまでは画面の向こうのスタジオや、ステージや、握手会の行われる会場という隔たれた場所にしかいなかった白石麻衣が、YouTubeライブ配信というそこらへんの女子高生でも日常的に行なっていることをしていたのだ。

ライブ配信は、そのコンテンツにおける卑近さによる物理(感覚)的な距離の接近のみならず、時間的な距離においても"ライブ"の文字通りに視聴者に接近する。

ライブ配信を例にとったが、冒頭で述べたテクノロジーの発展に伴う物理的/時間的な距離の接近は映画にもその影響を及ぼしているだろう。何故ならばかつて映画のみを指していた"映像"というものは、テレビやらインターネット動画やらへと枝分かれし、そこでそれぞれの媒体に併せた印象や意味合いを持ち、そしてそれら印象や意味合いが全ての形態に還元するからだ。
これは現代を生きる市井の若者を描いた(それはつまり"今を描いた")映画を観ればなんとなく分かることだろう。ムードとして。
とにかく現代の映像は、"今ここ"であることこそが重要とみなされてるのだ。

しかし皮肉なことだが技術によって"今"を描くことは、現世の複製でしかない映画(映像)の本質から遠のくこととなっている。
映画を俺たちが観ているとき、画面に映っている人も、風景も、出来事も、すべては「かつてあった」ものであり裏を返せば「今ここにはない」ものである。もっと言えば、映画は虚像だ。実際に撮影されたものであれど、たとえば星野真里はヨウコではない。星野真里だ。画面の外にこそ、そこに映されているものの本当の姿があって、俺たちは画面に没入するふりをして、本当は画面の外を認識し続けている。それが映画を観る俺たちの姿だ。
「さよならみどりちゃん」で全てのシーンにおいて画面に映っているモノは、映っていないモノを示唆している。それは場所とも時間とも、そして人とも言える。キャラクーたちはその場にいながらして常に、「ここではない場所」のことや「今ではない時間」のことや「今ここ にいない者」を夢想する。ここではない場所も今ではない時間も今ここにいない者も、世界にはたしかに存在するはずなのに、同時にそこには絶対的な"到達の不可能"がある。ヨウコが"みどりちゃんとユタカ"(場であって時間であって人)についに遭遇し全速力で追いかけてるもたどり着けないというシーンにそれは象徴される。

その次のシーンで到達の不可能を身をもって知ったヨウコがアテもなく(アテは闇に消えたのだから)彷徨い歩き続けた果てにゆたかに出会う。みどりちゃんの影は残像として俺たちの中にだけはあるが、ヨウコとゆたかは、ここで遂に対峙をする。
そこで行われるセックスを、"今・ここ・今ここにいる相手"と描くために、まんをじしての長回し撮影が採用されているというのは本当に見事で的確なこったろう。
そしてこのシーンを以て、映画はそこに映されていないことを描くことに決着し、準じてキャラクターも今・ここ・今ここにいる相手を見つめることになる。しかし映画は終わらない。今度はマゾヒステリックかつサディスティックな問いを投げかける。
今・ここ・今ここにいる相手、ならば、手を伸ばせば手が届くのか?と。

ヨウコが恋の結末、つまり彼女がゆたかのヘラヘラに合わせてヘラヘラと避けていた今・ここ・今ここにいる相手に向き合うその一方で、未だ"到達の不可能"ゾーンに囚われている者がいる。
それは誰であろう、俺たち観客である。
同時性を拒絶するこの映画が築き上げたシステムに、映画およびキャラクターは決着するも、観客は依然として過去かつ虚像を観続けているのだ。
俺たちは思う。
映画とは結局そういうものか。俺たちだけは手を伸ばすことができない。いやそれでいいんだけどさ。
俺たち無力な観客はそんなよるべなき諦めを、こちらに背を向けたままのゆたかに向けたヨウコの視線に重ねる。だけどヨウコは"今"を生きてるじゃん!とも思いつつ。
どうすりゃいいんだよ!
映画を観続ければいいのだ。
果たして哀れな俺たちが目にするこの映画のラストシーンは恋の顛末ではない。
ヨウコが避け続けていたもう一つのことで終わる。そしてこれも、長回しで。

映画が終わる。
エンドロールで流れるのはユーミンの「14番目の月」である。この歌の歌詞は、歌がヨウコに向けられているようでいて、映画が観客に向けて歌っていることでもある。
「14番目の月」は"予感"についての歌だ。
予感とは常に未来に向いている。
映画の本質である過去性に絶望して、テクノロジーで同時性を希求する必要はないのだ。
映画は時として俺たちが伸ばすことを諦めた手をあちらから伸ばしている。
そして俺たちが映画を観終えたあとに目にする画面の外側とは映画鑑賞という時間を踏まえた未来だ。「映画とは結局」とはここで口にするべきだった。

映画とは結局そういうものか。
いいもんですねぇ!とおれは思った。


2020/08/15

武士道シックスティーン

そもそも論だが、竹の棒で他人を思いっきりぶっ叩くなんてことは倫理的におかしい行為なんじゃないか?もっと言えば剣道における「ぶっ叩く」というのは表層であって、根にあるのは「斬る」行為つまり殺人の手段だ。他人を斬っていいわけなくない?

ちょんまげと共に消滅した殺人術が斬る行為から叩く行為にダウングレードして残存したのが剣道であり、そこについて①なぜ生き残っているのか?②どうやって生き残っているのか?ということを「知らんけど」という語を準備してから考えると、①は形がなくなっても動物として消えない本能としての暴力欲求(現代的には狂気だろう)に因るのであり、②は武道の"道"の部分、要は行為を通して自己を研鑽する為に様式に重点を置いたことに因るんじゃないか。知らんけど。

 
2人の主人公の設定・環境は物語におけるキャラクター作りの手本のように鏡合わせになっているが、2人に共通しているのは「なぜか剣道がめちゃくちゃ好き」ということである。

"なぜか"なもんだから、当たり前のように2人ともその言葉にぶち当たって悩むことになるけど、それぞれの理由はともあれ、2人の剣道への姿勢・というか態度は、それぞれ先程述べた剣道が現代で残存している①と②をそれぞれ担っている。西荻が①で礒山が②だ。①と②は共存してはじめて成立するので、ひとつずつしか持たない2人は、同じものを好きでありながらお互いの態度に畏怖を覚える。

それでもお互いがお互いの態度に敬意や羨望を抱いて視線を外さないことこそ、剣道が現代まで生き残っている証明のように思う。

制服のまま対峙する終盤のシーン、あれは完全に死合であり("防具"をつけないわけだし)、それでいて単なる喧嘩・叩き合いにならないのは剣道の様式に則っているからだ。この作品のタイトルに冠されているのが剣道ではなく武士道なのは、こういった相反するような"在り方"が剣道にのみならず武士道に通じているからなんだろう。

 
剣道を通じて武士道を見つめる二人の姿を、画面を通じて見つめる観客。

この映画が教科書のように視線を強調し(セリフまでも)ているのは、映画の内であろうが外であろうが、見つめるという行為はおんなじことなんですよと、そういう風に作られているからなのかもしれませんね。

武士道シックスティーン - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ・動画配信 | Filmarks映画

劇場

・物語的な感想をまず言うと共依存ではなく呪縛が延々に描かれていてそれは
①「朝日って怖くない?」「わかる」

②「ずっと昼なのに俺らの体は夜になるのと、夜になっても俺らの体は昼のまんまなのとどっちがいい?」という2シーンのセリフでおそらく示唆してるんでしょう。
そういう類の呪いについての物語であってその呪いをかけたのは沙希ちゃんだ。
マジでなんなんだあの女。あんな女の子いたらそりゃ才能あっても枯れますわいな、こわ。つーかおまえも頑張れよ!いや呪いに自分もかかってるからしょうがないか!
だとしてもラストシーンのあの女のセリフはめちゃくちゃむかついたけどな、おれは。
物語への感想おわり。

・おもしろいのかおもしろくないのか最後までよくわからなかった。
おもしろいのかおもしろくないのかよくわからないというのは、良くもあり悪くもある。

これを観た人が「あるあるって感じだよ」と言っていたけど全然あるあるじゃないじゃん!むしろ「あるある」を排除していった映画のように感じた。まずあんな出会いありえねぇだろ!

というか、"あるあるが"排除されているというのはそれが意図的であれ副次的なものであるように思う。
この映画から徹底的に排除されているのは共感である。具体的には「何かが起きている時間」であり、「本来描くべき時間」を省略することで共感を排除している。
映画において省略という作業を施す場合、基本的にA→B→CというシーンがあればBを省略しA→Cを繋げば穴埋め式にBは観客に了解されるのでそのようにすると思うんだけど、この映画はなんというかBが連続するというか、かなり些末だろという断片が連続して虫食い状態が延々と続く。
でもこれはおそらくわざだと思っていて、つまりはそのように本来省略されても構わないようなシーンばっかり映すことで、共感をさせないようにしているのではないか?
(あるあるというのはつまり共感なので、共感を許さないようにつなげていけばあるあるも結果的に排除されるというのが冒頭に書いたことです)

永田の行動や性格を好意的に捉える人はいないだろうし(いないというか、意図として完全に永田は客に嫌悪感を持たせるようなキャラクターにされている)、その永田をず〜〜〜〜っと好きな沙希の心理も、だから客は理解できない。沙希が永田を好きになるきっかけも描かれなければ惚れ直すようないいところも一度も垣間見えない。

ではなぜ観客に共感を許さないのか?
その方が美しいからだ!!!!!!!!!
銀杏BOYZの「僕たちは世界を変えることができない⁇?」という曲?というか、曲?トラック?があって、そこでは峯田が当時のバンドメンバー3人に、自分が長澤まさみといかに偶然・それゆえ運命的に出会うかの妄想を延々語るのだが、飯田橋だかどっかの駅で俺と長澤まさみさんが偶然出会ってその時俺もドキドキするけど長澤まさみさんもなんか感じると思うんだよみたいなことを言った時に3人のメンバーが「???」という反応をする。その時峯田は「わかる?わかんねぇかお前らには。でもいいんだよ、お前らがわかんねぇ分だけ、俺と長澤まさみさんは地球上で2人きりになれるんだから。」と言うのである。

「劇場」で施された共感の排除の意図とはつまりそういうことだと俺は思うし、それは"愛"というものを描く際に正当な態度であるとも思う。永田にもおそらく良いところはあり、彼らにもおそらく傍目から見て幸福な時間があったのだろう。しかしそれは、彼らだけのものだと、多分そのように扱われている。

しかしながら、だからといってそれは「おもしろい」ということにはならない。
「正当な態度」であれ別に興味の持続にはつながらないしむしろ興味を持続させるような「描くべきシーン」を意図的に排除したことでずっとこいつらに全然興味が湧かない。これはもうそういう監督なのか単純にウマが合わないのかは謎ですが映画的な興奮もない。
個人的には「映画」というより「小説の映像化」でしかないと思ったし、これだけモノローグで物語を進めているのは原作への敗北でしかない。だったら小説で読めばいいじゃんこれはそもそも小説として成立しているものなんだから。映画としてだるい。

とはいえ。
一箇所だけ、完全に虚をつかれ心臓を思いっきり蹴られたところがあった。
チャリの長回しでも部屋が劇場に変貌する箇所でもない。それらは、いいけど、「なるほどね」としか思わなかった。
そうじゃなくて、なんかマジ意味わかんない、いや意味はわからなくもないんだけど明らかに雰囲気が歪む、堀禎一の映画みたいなめちゃめちゃイビツな1、2秒があった。むしろその1、2秒によって2時間観続けてしまったと言ってもいいかもそれない。別に共感して欲しいわけではないので割愛する。

 

https://filmarks.com/movies/85255/reviews/95351705

2020/08/03

牧野真莉愛 イラスト執筆現場に密着!!2

モーニング娘。'20の牧野真莉愛さんがただただメジャーの表紙を模写する映像がモーニング娘。公式ユーチューブチャンネルで発表されたのだが、前回6時間かけてルフィを描いた企画にどうして続編があるんだよおそらく映像としてははおんなじだろ!と思いながら観たが結局「凄すぎる…」と思わされてしまった。鋼の錬金術師のテーマである「全は一、一は全」というそれってつまり世界の理なのだが、理解に至った。今なら掌を合わせるだけで錬成ができるかもしれない。

"前回と画が変わらない、そして画が変わらない(その変わらなさこそ苛烈である)こと"が、視聴者に17分間という時間的な苦痛を与えつつ、牧野真莉愛自身は時間で言えばその約36倍の のべ12時間という圧倒的な長さの時間の中で行為を変えず、表情を変えず、ただ絵を描きつづける。

クソやばいのはオリジナルの絵を描くのでもなくかといってトレースするのでもなく”模写”であるという点で、つまり芸術ではなくどちらかといえば製品に近い。その意味で牧野真莉愛は芸術家ではなく職人なのだろうが(こだわりもいかにオリジナルに近づけるかという点にしかない)、イラストが模写ということは裏を返せば"模写でしかない"ということでもある。つまり完成された絵の"作品として"の価値はオリジナルを超えないし無ですらある。牧野真莉愛自身、そしてこの動画の本質とは結果としての完成イラストではなくそこに至る道程であり、だからこの映像の全ては適切であり芯をくっている。