2023/07/20

太宰治「女生徒」(角川文庫版)感想

 角川文庫から出版されたこの短編集に収められているのはどれも独白体形式という共通項がある。そして、これは“小説“という媒体の多くにおける特徴でもあると思うのだけれど、語り手が登場人物の一人である場合、語られるのはすでに過ぎ去った時間についてのものだ。言い換えれば、語り手というのは常に語られる時間からして先の未来にいる。

①日記でもブログでもツイッターでもいいが、自分が体験したことを文章に書き残す行為の根底には、この世界の約束で現れたそばから消えていく出来事を自分の外側で保証せんとする意識があると私は思う。「それを誰かが読む」というのはいわば副次的な結果である。だから、この本の短編のすべてが、(テイとしてではあれ)誰か他人に宛てられた手紙だと前提するのは気が早いように思う。

②収録された短編の多くが、太平洋戦時下の時期についてのものだ。とは言っても、戦争を知らぬ我々が「太平洋戦争戦時下」と耳に目にして思い浮かべる末期佳境の時期ではないように思われる。もしくは、舞台となる土地や登場人物の環境が、戦況に影響薄く居られるか。そういった時期ないし環境を述懐している。

 上記二点を踏まえて、太宰治の というよりは編纂の結果としてこの小説群は「大きな出来事の起きる以前の時間」を、「それ以降に起きる大きな出来事」によって失われ尽くすことがありませんようにとの願いが込められているように私には感じられた。大きな出来事とは戦争に限らない。例えば、自殺。
 そして冒頭に書いた「語り手が現在立っている時間」というのも、「大きな出来事」の終わった後ばかりではないだろう。渦中もあるだろう。現状失われつつある自分の環境や思慕、しかしそれらがかつて確かに存在したことの証明として、過去を語る。語られる相手というのは、もしかすれば第一に自身なのもしれない。
 では、彼らが証明しようとした種々の光景だったりや想いはどのようなものであったか。共通するであろうことは「語られる過去の時間」の彼らというのが、未来の到来を心待ちしているということ。そしてその未来というのは特定の日付を持たない、漠然としているがむしろそれゆえ純粋な意味としての「未来」である。

「明日もまた、同じ日が来るのだろう。幸福は一生、来ないのだ。それは、わかっている。けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。」(「女生徒」)

「私は、ばかだったのでしょうか。でも、ひとりくらいは、この世に、そんな美しい人がいるはずだ、と私は、あのころも、いまもなお信じて居ります」(「きりぎりす」)

「貴下が、他日、貴下の人格を完成なさった暁には、必ずしもお逢いしたいと思いますが、それまでは、文通のみにて、かんにんして下さいませ。」(「恥」)

「いったい、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何もない。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。(中略)それではいったい、私は誰を待っているのだろう。旦那さま。ちがう。恋人。ちがいます。お友達。いやだ。お金。まさか。亡霊。おお、いやだ。 もっとなごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。」(「待つ」)

 「語られる過去の時間」の彼らが想像している未来は各々の状況に応じて異相を呈し、例えば悲観的な人物にとってそれは必ずしも明るいばかりではないのかもしれないが、どれも「大きな出来事」によって、待望は叶わなくなる。
 ここで私が連想したのは、ベンヤミンの「写真小史」における一枚の写真にまつわるエピソードだ。それは悲しい運命を辿ることになる一組の夫婦がまだ幸せだった頃に撮影された、彼らの肖像写真についての話。これについて数年前に読んだ長谷正人「「想起」としての映像文化史」から引く。
 「この二人が悲劇的に運命づけられていながらも、なおそれとは違った未来への可能性のなかにおいても同時に捉えられているからこそ、彼(引用者註:ベンヤミン)はこの写真の二人に感動したに違いないのだ。人生の様々な可能性に向かって開かれたままの状態で結晶化している二人の姿に……。」
 「この写真から、未来の出来事との関連によって意味付けられてしまうこと(運命としての悲劇)からも、当事者たちの現状認識によって意味付けられていたこと(婚約という幸福)からもこぼれ落ちてしまうような、あり得たかもしれない別の歴史の可能性(「未来における別の幸福」とでも言うべきか)を感じとったと思われる。実は彼の言う「想起としての歴史」とは、そのもう一つの別の未来の可能性、つまり果たされなかった運命の可能性を、過去の出来事の片隅に見出し、それを現在へともたらすことと言えよう」

 お分かりの通りこの感想文で使われていた「未来」という言葉は「可能性」と言い換えることができるだろう。戦争、没落、死別──それら「大きな出来事」によって待望された未来はその言い換えたる可能性を断絶される(断絶を示唆される)。ここに絶望というのはあって然るべきなのだがしかし、語られることの主眼には置かれない。ベンヤミンの心を打った「あり得たかもしれない別の歴史の可能性」とは、分かれ道に差し掛かる前の途上の切り抜きであるが、太宰治(というか語り手)もまたあくまで途上の切り抜きおよびその時点で感じていた可能性をこそ記述し、踏みとどまろうとする。なぜか?未来への待望を含む「消え去ってゆく現在の出来事」を自分の外側で“確かにあった“と保証せんとする意識が、書き残すという行為の根底にあるからだ。そして前述のうちでは結果的な副次としたが、これらの小説群は文字通り小説であるから、語り手もしくは書き手たる太宰治本人のさらに先の時間に、読者および読者の“小説を読む時間”が想定されている。“誰かに宛てられた“という感慨は、小説を小説と看做す我々読者の登場で初めて考えに及ぶことができるのだ。そして、語り手たちが保証し証明しようと努力した過去の時間というのは、書くという行為に端を発しながらにして、我々読者が読むことによって、我々の想起の中で完成する。大いなる力というか感慨をかんぜざるを得ないのは、小説とはそもそも単体では媒体の特徴としてしか過去性をその身に宿し得なかったはずということだ。小説というのはやはり、誰かに読まれた時に媒体を超えた時間の連なりとして出現するのか。

2023/07/07

トーベ・ヤンソン「ムーミン谷の夏まつり」感想

 結局のところ、かなしいことばかり考えてしまって、がっかりしてめそめそしてどうしたんだいの権化、ミーサ、もしくはフィリフヨンカが主人公であって、ムーミン一家はほとんど端役でしかない。ミーサの悲観とフィリフヨンカの孤独は似た趣があって、彼女らのかなしみもしくは寂しさが、演劇(=劇場という場所)に、文字通り見立てとしての人生や親類を設定することで視界が晴れる。演劇というものもしくは舞台という場所が、目に見えないもののために見立てられて存在しながらも実態として肉体を伴うというのは、たちかえれば儀式的・祝祭なニュアンスを構造に内包する(この本のタイトルは「ムーミン谷の夏まつり」である)。
 シャーマンの例をとるにおよばず、俳優の身体には自身とは別の人格が降霊され、自身とは別の人生を歩む。しかしそれらは、別の世界線や多層的なレイヤーを重ねることではなくて、あくまで俳優自身の人生の中の一部である。だから何かを上演することは、俳優の人生に影響を及ぼす。それで俳優が救われるというのは、演劇の効用として、正しい。

2023/07/03

川上弘美「光ってみえるもの、あれは」感想

「"ふつう"って何?」みたいな翠くんの中にうずまいている居心地の悪さに我々が向き合うにはとうに歳をとりすぎていて、だからそのことを語ろうとしても口から出るのは自分というものを世界から切り離して俯瞰のつもりで語る空想にすぎなくなるのだから、それを自覚できているだけいくぶんかましだとおしだまるのが吉。
 川上弘美という作家は私を含めた川上弘美ファン全員にとって自分の生活/思考様式の中で大きな位置を占めてしまう、いうなれば病のようなところがある、だろう。あるだろう。私の周りには何人か、好きな作家を尋ねたときに「川上弘美」と答える人たちがおり、そしてその人たちの書く文章というのは川上弘美のレプリカントであることが、本当に多い。川上弘美の書く文章というのは、かくも読者の中に侵入し、居座り、お茶なんか飲みつつ寝転がり、釜の飯を食い、そうやって、気づけば帰らなくなってしまう。影響下の文章というのはむしろ川上弘美の類稀なる独自性を強めるだけの効果しかなく、平易な言葉を(気づかずに)自分たちにも書けるぞと嬉しくなるそのヤバさ。私だって多分そう。
一人だけ川上弘美風の文章を書きながらにしてムカつかないというか、同時にその人自身の個性もあるから天才やんけと思う人がいるが、それは稀有な例であって、だから、川上弘美を熱中して読むのは、あやうい。←この「、」打つ感じが罹患のあらわれである。

 以上のように、川上弘美の作品を最高!と思いながら読むのは、最高!と思えば思うほど感想書くに危険な予感が孕むけれども、最高!と思ってしまっている自分を止められない。抵抗の余地をさがすとすれば、小説が描き出している「青春」だとか「ティーンネイジャーの不安定さ」を避けた、あんまり内容に関係ない、読書時間の中での私の心の躍動を書きつけることにしかないか。翠くんと花田くんのモヤモヤというのは対比されていて〜〜みたいなことを書きたくないのだ。書いてあるのも読みたくない。

 とにかく平山水絵!平山水絵!平山水絵!なのである。平山水絵が出てくるたびに、キターーーと思うのである。
 私はここ最近、「デート」っていう営みそのものについてかなり真剣に考えていて、たとえば友人と酒を呑みながら「デートっていいよね」「してみたいよね」「どこへいけばたのしいかな?」「なにをするのかな?」というようなことをダベっているのが楽しい。なんの予定もなくても、相手がいようといまいと、やはり何かについて真剣に考えてみることは楽しい。それがウキウキしたニュアンスのことであるなら尚更。そんな最近の私、いや俺、俺だから、平山水絵が出てくるたびに心のずっと奥の方が躍動をはじめ、ひらたくいえばキュンキュンし、頭の中のデートに唯一ぽっかり空いた空白である"相手"の欄に、その名を代入して愉快な気分なのだ。
 とはいえ、平山水絵は高校一年であるわけで、私が平山水絵とデートしたらそれは限りなく犯罪で、ていうか私は女子高生とデートしたいとは思わなくて、そういう嗜好にも嫌悪感があって、ていうか平山水絵は架空のキャラクターであるので、むしろだからこそこうやって楽しい気分に後ろめたさもなく、夢想のデートに男としての責任感も伴わずにいられるのだ。
いいな、いいな、私、いや俺、俺も放課後にコンビニで「アイス買ってきたよ、君の苦手なやつ」って言われたい。だけどちゃんと俺の好きなやつ手渡されて「そんな意地悪しないよ」って言われたいよ。
ずっと忘れないだろうな。相手が忘れちゃっても、俺は絶対忘れないよ。ステンドグラスの部屋で泣くとき、隣にいるよ。一人になりたかったら隣の部屋にいるし。たくさん手紙書くよ。たくさん手紙書いてよ。全部捨てないでとっておくに決まってるだろ。喫茶店で、俺はコーヒーでいい、俺に構わずホットサンドを食べてくれよ。好きな短編小説教えてよ。返す時に「すっごくよかったでしょ」なんて言われたら、屋上で、おれ、泣くよ。
好きな詩を朗読してくれたら、周りに誰がいても、一緒に暮らそうってその場で言っちゃうかもしれないよ。どうしたらいいんだ。俺たちも朝に見つけた透明な蜘蛛の巣なんだぜ。

2023/07/02

エマニュエル・ボーヴ「あるかなしかの町」感想

 1920年代のパリ郊外「べコン=レ=ブリュイエール」という町についてが淡々と描写されていく。──と書いてしまえばもうこれ以上この本について説明できることがない。むしろ説明できることが一瞬で済んでしまうというそのこと自体への感慨(のなさ)がこの本を読んでいる時に私の内側にどこからともなくたちあらわれ、輪郭を結ばないままゆれてざわめいた妙な気分に似ている。「あるかなしかの町」というのは邦題だが、まさにズバリのすごい題名だと思う。
 べコン=レ=ブリュイエールは実在するか否かみたいなことをあまり考える気にはならない。調べるのも薦めない。調べたところで、おそらくは実在し、しかしながら実在しないという一見矛盾した、しかし納得のいく(納得のいくというのはなんてつまらないことなんだろうかとこれを書きながら思い、また、この本に"納得のいく"要素なんて全然いらないとも思う) 結果が待っている。

 当たり前だがホラー小説ではない。不思議なことも起きない。だけどなんというか、私の読みながらの妙なざわめきというのは、たとえるならば「幽霊を読んでいる」というのが表現として一番近い。私は幽霊を見たこともないし、ましてや読んだことなんかないのだが、そう思う。
 "場所の記憶"というのがある。「地獄先生ぬ〜べ〜」の文化祭の回で扱われた石の記憶と同じ考え方だ。私は幽霊というもののメカニズムは「場所の記憶」で説明がついてしまうのでは?とつねづね思っているのだが、この本に書かれていることも、文章に直截あらわれているわけではないが、ともあれたちのぼるのは、場所の記録であり、記憶であり、やはり幽霊を読むという感触に至る。

 これを読んでて思い出した、内容に全然関係ないことを最後に書く。これは私の記憶について。
「あるかなしかの町」をなぜ読んでみようと思ったのかは思い出せないが、本屋で購入した年度は思い出せる。10年ほど前である。どこの本屋で購入したかも思い出せる。地元の最寄りから二ツ離れた駅前の本屋である。どうやって購入したかも思い出せる。書店員さんに取り寄せてもらったのである。私はその書店員さんに想いを寄せていたのだ。しかし、前述したが、なぜこの本を取り寄せたのかというのは思い出せない。どこの本屋でという場所は分かるが、その本屋の名前は思い出せないし私が地元を離れてからすぐに潰れてしまったからもう店名も分からない。想いを寄せていた書店員さんの名前も顔も思い出せない。私が思い出せることといえばあとはもう、この本を取り寄せてもらったはいいものの書店員さんとのそこから先の展開などなく、また、買っておいて10年ほど経つのにこの本を読んでなかったということで、だから、私の記憶というのはあってもなくても意味がない。あろうがなかろうが本棚に「あるかなしかの町」があって、読んだ。もうこれ以上この本について説明できることがない。

2023/07/01

ロバート・A.ハインライン「夏への扉」感想

 あらかじめ申し上げておかなければならないのだが、私はSF小説を全然読んだことがない。読んだことがあると言ってもせいぜい──「読んだことがあると言ってもせいぜい」と書いたものの、何一つ思いつかない。ゼロってこともないのだろうが今この時点で「あれはSF小説であろう」と看做せるタイトルが一つも浮かんでこないし、わざわざ遍歴を紐解いて検証するに見合う成果が得られないのはわかりきっているので、やめる。何かを思い出すまで、「夏への扉」が私の初めて読んだSF小説ということで、もう、いい。
 私がSF小説に疎いのもべつだん苦手意識があるとか忌避してきたということではなくて、単純に他人から薦められた本の中にSFジャンルがなかったであるとか、図書館でてきとうに棚から引き抜いた本のジャンルがSFではなかった、程度の意味しかない。苦手と思うにも素地が要る。チビだった時分に読んだたくさんの絵本や児童向けの物語の中には、きっとSFだってあったろうと思う。小説に限らなくても今マジで「ドラえもん」しか思いついていない。SF(すこし・不思議)でも良いのならばであるが。
むしろというか、だから私にとって「夏への扉」は非常に幸福な出逢いで、今まで誰からも薦められなかったSF小説を人に薦めてもらったことに私は大きな意味を感じる。出逢いがなかったことは「その程度の意味しかない」という言葉で済ませられるが、出逢えたことにその言葉を使うことはできない。アンフェアであろうと私は私の嬉しく思うことを贔屓していく。

 ちょっと調べたところによれば「夏への扉」は世界中の読者に支持されながらも評論家だとかSF専門家にはそこまで支持されていないとのことだが、私はいち読者であるし前述の通りSF初心者でもあるから、「夏への扉」についてSFとしていかがなものなのかという分析はできないし、また興味もない。私はとにかく「おもちおーい」と、ピノコか未就学児みたいな語彙で、つまりフレッシュ!フレッシュ!フレッシュ!な気分で小説を読んだ。以下にだらだらつづける文章は、だから全文それを踏まえている。実際に松田聖子も聴いている。いま。
 資料によると「夏への扉」は1957年に発表された。舞台は1970年であり、また2000〜2001年ということになるが、つまり(2000年はともかく)1957年から展望する“1970年“というのは、フィクションでありながらもある程度こうなる可能性のリアリティを読者に違和感なく感じさせたということか。私がそれを面白いと感じるのは、コールドスリープもハイヤードガールもダン製図機もタイムマシンも発明されなかった1970年や2000年を経過した2023年に生きているがゆえではあるのだろう。私はその“結局小説のような未来にはならなかった”ことを、好意的に思う。そこにはニヒリスティックや冷笑を伴わない。小説は(そうなるかどうかはともかくとして)予言書ではない。ハインラインだってそんなつもりはないはずだ。いかに描写にリアリティを伴っているとしても、作者は「こんなこといいなできたらいいなあんなゆめこんなゆめいっぱいあるけど」の精神で未来を小説にしているのだと思う。これは「夏への扉」が図書館のY.Aコーナーにあったことから、「ドラえもん」の引用にいささかの後ろめたさもなく言える。1957年のアメリカは冷戦下であり、世界大戦直後から始まった核爆弾をめぐる国際的緊張の中にあった。国内の暮らしは(作品内の“1970年“にもあるように)家庭用電化製品や自動車の普及で中産階級にとっての利便が安定したとも言えるが、それは裏を返せば格差の拡大が如実であったということだ。そういう、おだやかさと殺伐さが表裏一体となっていた時代のムードにあって、社会的な小説を発表していたハインラインが情勢を度外視して「夏への扉」を書いたとは、私は思えない。それは小説の冒頭と結末を読めば自然に感じられることだ。ハインラインが「夏への扉」で描いていることは、清濁混じるかりそめの安寧の中にあって時代に流されずに明るい未来を想像し行動するということだろう。表題されている“扉“というのは、この小説においては(後半の展開も鑑みるに)“可能性“とかそういうものを表しているのだろうが、11+1つもある扉のどれかが夏に通じていて、尚且つどれか一つしか開けられないわけではなくて、あくまで“どれか一つが夏に通じている”と言うにとどめるというのが、グッとくるじゃあないですか。主人公は会社を仲良しの男と設立したけれども、嵌められて失敗するわけで、しかしながらもう一度会社を設立するに至る。嵌められた時と同じように、仲良くなった男を信用する形で。もしくは結婚に至らず終わった恋を、今度は結婚の形で。この形式上の反復がすごく大切で、たとえば「痛い目を見たから今度は一人で」などと主人公が思ってしまうのでは、“失ったものを取り戻すために過去に戻ってやり直す“という、タイムトラベル形式の構造をなぞるにすぎなくなるし、もっと言えば、「一度失敗してしまったら、それは結局繰り返されてしまうんだ」という厭世観みたいなものを読者の無意識に教育することになってしまう。そうではなくて、違った状況でありながらも同じ形式で反復させることこそが、「過去の失敗は取り戻せる」ことに通じる。タイムマシンもコールドスリープも存在しない現実を生きるY.A読者層が11+1の扉を、一つ二つがダメだとしても、それでも夏に通じるまで何度でも開け続けるために。何度だってやり直せる。そんなのって現実的じゃないぜと誰かが嘯いても、私は私の嬉しく思うことを贔屓していく。クーラーで冷やされた部屋の扉を開ければ、ついこないだまでは寒かったのに、今度は夏に通じている。