2022/10/26

肉汁サイドストーリー『あ、無情』感想

 みつきはその日とその前日に肉汁サイドストーリーという名前の団体が西新宿の平家で演劇を催していたことを知らなくて、そういう催しがあったいうのを彼女が知ったのは数日経ってからこのブログのこの記事を読んだ時だった。それで初めて知った。

とはいえ仮に事前に公演のことを知っていても自分は足を運ばなかっただろうと思った。肉汁サイドストーリーという名前の団体のことも知らないし演劇というものもよくわからないし学割を使っても二千円という値段は彼女の最近の懐事情には厳しかったということもあるが、それらを抜いても公演が催された日曜日にみつきは彼氏とファミレスに行く約束をしていたからだ。


──というようなことをたとえば私は肉汁サイドストーリー「あ、無情」の上演中にぼんやり考えていた。会場である平家のふた部屋とそれを繋ぐ廊下を観客が周遊する観劇形態の作品にあって、私は玄関の受付のあたりにずっといて、上演時間中動かなかった。私はその場所がこの演劇を鑑賞するに一番いいポジションだと思ったからだ。観客の靴が三和土に並べられていた。私はたくさんの靴や、それが並んだ三和土や、周りを囲む箪笥とか壁とか引き戸を、なんというか何か一つに注視するのではなく、固有のそれぞれは認識しながらも全体的な様子として捉えるように見ていて、つまり総体としての風景のようなものを見ていた。見ながら、この風景に含まれることのなかった靴が只今の上演時間中どこにあるのだろうかというのと、足を運ばなかった人がその時間をどのように過ごしたのかということをこれは今現在、考えている。


 私が思い描いていた女子高生である──みつきは西新宿のガストに十三時に入店して、店員に後からもう一人くるので二名ですというようなことを伝え、全面がガラス張りになっている窓側の四人がけソファ席に案内され、座った。まもなくお冷やが運ばれてきて、みつきは一口だけコップを口につけてのち、手持ち無沙汰ゆえにメニューを開いて眺めた。メニューに色とりどり配置された食べ物飲み物のそれぞれを固有で認識しながらも、みつきはメニューを「メニュー」として、つまり総体としての風景のようなものとして見ていた。それでは見ながら彼女が頭の中に像を結んでいたのはメニューに配置された品々ではなく、まだここに到着していない彼氏の顔とか、彼が学校で机に座っている姿(その時にはみつきに彼の顔は見えない)とか、一緒に帰る放課後の電車内に繋いだ彼の手のゴツゴツした感触だった。「早く来ないかな」とみつきは思った。昼食は家を出る前に済ませていた。母親が作り置きをしてくれた自家製のキムチとオムライスである。みつきはキムチを割ったオムライスに混ぜて手早く食べた。


 私が陣取った玄関付近のエリアからは俳優のアクティングエリアであるふた部屋のうちの一つ、掘り炬燵のある和室が見えていた。もう一つの部屋であるリビングでの様子は会話が切れ切れに聞こえてきてもたとえば俳優たちの配置や動きや表情は目には見えなかった。リビングから楽しそうな声が聞こえてきている。もちろんそれらは演技で、十分な稽古のもとあらかじめ決められた言葉でのみ語られていた。私は会話の切れ端を聞くでもなく聞きながら掘り炬燵のある和室を眺めた。俳優がギターを練習していた。私は楽器に詳しくないから、その練習が初心者の段階のものなのか上級者の段階のものかはわからないが、ともかくポロンポロンとギター弦は弾かれ、ビロン、ビローンとメロディ未満の音が鳴っている。俳優はじっと黙ってそれを続けた。私はとても良いと思った。後でもまた何度か思うことだが、この時も良いと思った。私が何をどのように良いと思ったかは先送りするが、ともかく今私の感覚器官が受像しているもろもろが混ざった総体を食べた私の脳みそが「良い」と言ったということだ。


 みつきはアイフォンを操作してaikoの「三国駅」を再生して、すぐに「ストロー」に変えた。それは単純に今の自分の気分に適した曲に変更したという意味しかない。イヤフォンからaikoの声がするのをぼーっと聞いているうちに、みつきはなんだかパフェーが食べたいような気持ちになってきた。メニューを今度はさっきとは違う手つきでめくり、苺パフェーのページで手を止めて、値段と写真を何度か往復してのち、呼び出しベルを押した。店員はすぐにやってきたので、幾許かのみつきのためらい(それは彼女の懐事情とお腹の満たされ具合に拠る)は育つ暇がなかった。みつきは苺パフェーを注文し、ためらいの残滓を追い払って(この時、イチゴを頼んだというのもあってか、みつきはBLEACHの最終話の黒崎一勇がユーハバッハの残滓を消したコマを想起した、だから残滓という言葉が出た)、また彼氏のことを考えた。「ストロー」はまだ終わっていない。


 私はいまだ掘り炬燵のある和室の風景を見ていた。そこに何人かの俳優(ギターを弾いている俳優とは異なる)が入れ替わり入室してきて、ギターを弾いている俳優と何事かを話したりした。その会話はリビングの会話よりは音量としては大きく聞こえていたが、リビングで行われる会話というのは掘り炬燵のある和室でなされる会話より高いテンションだったから、私が掘り炬燵のある和室での会話をリビングでの会話より大きな音量で聞こえたと言ったのは、目に視える分カサ増しされた情報の総量が多かったということに過ぎないのかもしれないとこれは今、考えたことだ。若い女優がTikTokのアプリを開いて動画を撮影している。TikTokの音楽が聞こえてくるのでわかった。TikTokの音楽は、平家の二つの部屋から聞こえてきた声やギターの音のどれとも異なる音質──音質という言葉が適当かはわからないが、空間に拡散する音の響き方として他とは異質だったから、際立って聞こえた。ふと玄関の方を見やると、開け放たれた玄関からは建物の門へとつながる石道を臨むことができ、門の奥にはやや傾斜のついたアスファルトの道が左右に伸びており、その先つまり私が現在その中にいる建物の向かいにはマンションが建っている。マンション一階の部屋のガラスが昼間の光を受けて鏡のように風景を反射していた。それで私は玄関の影の部分に俳優が一人、スタンバイをしている姿を見ることができた。俳優は地面を眺めたり、伸びをしたりして、これから彼が登場するであろう場面に向けて気持ちを作っているようだった。私はまたしても「良い」と思った。視線がまるで矢印のように屋外へ建物の外の風景へとのび、光と共にガラスに反射して直接見えないはずの風景を捉えている。そして直接視認できないはずの風景の中にいる俳優にも、私にも、私がそちらを見たことで背を向けている背後の掘り炬燵のある和室にも、どうしたって見えないリビングにも、時間が等速で流れている。それらはロケーションという概念で分断されているようで、扉で遮蔽されることなく一つづきになっているのだから、理性や観念的なのではなく物理的な空間として同じ時間が流れていることを立証しているように感じられた。


 苺パフェーは十分ほどで運ばれてきたが、約束の時間を三十分も過ぎたのに彼氏はまだファミレスに来ていなかった。みつきは何度かLINEをしたが、既読がついていない。みつきは携帯を開くたび立ち込めようとする不安を携帯を閉じる都度振り払った。彼は普段からぼーっとしているところがあって、こういう形でデートをすっぽかされることは、そりゃあ何度もあるわけではなかったが、全くあり得ないことでもなかった。そのことを思い出すと共に、みつきは自分が彼氏のことを彼氏と規定しまたおそらくは彼が自分のことを彼女と見做しているであろうその契約みたいなもののことを強く意識することで不安を表情や体の震えといった自覚せざるを得ない領域に表出することから逃れていた。だから彼の安否はもちろん気に留めながらも、不思議なことだがさっきメニューを眺めながら思い描いた彼そのものの顔や記憶の中の姿ではなくもっと記号的な、「彼氏」という自分に対しての立場とか「彼氏」という文字とかを考えることがみつきを支えていて、しかしそれを不思議なこととまではこの時のみつきは考えていない。不思議なこと、としているのは現在これを書いている私であり、また日曜日から数日経ってこのブログの記事を読んでいる時間にみつきの想起に伴い発生した感慨でもある。


 さっき玄関の外に立っていた俳優は平家の中に入ってきて、洗面所に行ってから掘り炬燵のある和室でギターを弾いていた俳優と話した。その中でさっき玄関の外に立っていた俳優は駅前でもらってきたという演劇のチラシを取り出し、ギターを弾いていた俳優に観劇を勧めた。ギターを弾いていた俳優は行くとも行かないとも答えないままその話題はたち消え、リビングから聞こえたインディアンポーカーの誘いに応じるようにしてさっき玄関の外に立っていた俳優はそちらへ向かった。ここで思い出したが前述したTikTokを撮影する女優の登場およびその女優のTikTokを撮影するくだりはこれより少し後に行われる。私は思い出した順に公演を振り返っているが、上演中はそのほとんどの時間で靴とか三和土とか壁とか玄関とかを見ていて、掘り炬燵のある和室を見ていた時間がまるでそういうまとまった時間の後にずっと続いていたかのように思わせたかもしれないが、私が目にしたいくつかの風景に流れた時間というのはもっと複雑かつ混然と入り混じっている。便宜的にというよりも今申し上げたように私は思い出した順に公演を振り返っているというそのことが混乱に起因しているのかもしれない。しかし思い出すという行為によって思い出されるいくつかの時間というのは必ずしも実際の時系列に沿わないのが当たり前であることは、仮に混乱をきたした方がいたとしてもきっと了解して納得してくれるだろうと私は無責任に思っている。



 口をつけられていない苺パフェーはどろどろに溶けて、苺アイスとバニラアイスと苺ソースとクリームと天かすみたいなスナックは複雑に混じってしまった。ところどころははっきりした赤とか白の色を持っているが、大部分はそれらの色が混じりだらしないピンク色のシェイクみたいになっている。みつきは苺アイスやバニラアイスや苺ソースやクリームや天かすみたいなスナックが時間の経過と共にそのような姿に溶け合って変色していく様の一部始終を見ていた。溶けるという現象は0から100に一気に変化するわけではないのだと彼女は思った。思って、彼氏が自分へ向けていた/向けている気持ちとか自分と彼氏との関係とかになぞらえ、なんだか悲しくなった。悲しみは暇から生まれるということをみつきはその時思わなかったが、今これを読んでいる時点では理解している。パフェーが変貌していく時間は音楽も聴いていなくて、LINEも見ていなかった。溶け切ってからLINEは一度見たが、彼氏からの連絡は依然として来ていなかった。既読もついていなかった。覚悟していたが(みつきはこの時も具体的に覚悟という言葉を思ったが、LINEを確認する程度のことに覚悟という言葉を意識するのは少し大袈裟だと、この時点ですら考えた)、やっぱり肩を落とす気分になって、それから今日はもうこのまま彼と会えないんじゃないかというようなことを予感すると、せっかくの日曜日に約束を反故にされたことで無駄な時間を過ごした怒りよりも、もっと単純な悲しみをおぼえた。明日学校で彼が今日のことを謝ってくれるだろうかというのを考えるのは、それがどうであれ、今のこの悲しい気分をもう一度味わうことになるとみつきは憂鬱になった。彼が謝ればまた今のこの時間を思い出すだろうし、忘れたまま謝らないのであればそのことで自分の孤独は強調される。嫌だな、漠然とみつきは思った。明日学校行くの嫌だな。明日彼氏と会うの嫌だな。そう考えると一層みつきは悲しかった。入学した日から、ずっと好きだった人だから。一年かかってようやく付き合えることになった日のことをみつきは今でも憶えている。その時に見た風景や聞こえていた周りの音も思い出せる。そういう自分にとってずっと大切にしている記憶まで、こんなたった一回の出来事によって悲しい未来とどろどろに混じってしまう気がしたからだ。



 さっき玄関の外に立っていた俳優がインディアンポーカーをしにリビングへ去って、ギターを弾いていた俳優は掘り炬燵の上に残された演劇のチラシを手に取って、少し眺めて、その後また炬燵の上に置いた。それからTikTokのくだりがあったりして、ギターを弾いていた俳優もまた、ギターを携えたままリビングへと向かった。しばらくリビングでなんやかやと俳優たちの会話が聞こえてきたが、ある時点から彼らの声色は困惑や怒気を孕み始め、そのうねりのようなものはどんどん大きくなっていった。彼らはあらかじめ決められた動作や表情をしていたのだろうが、リビングで行われていたので私にはそれがあらかじめ決められていたどのような動作や表情だったのかはわからない。彼らのうねりが拡大されていく時間にも、私は靴や三和土や玄関を見ていた。それらは、それまでと何も変わらず、その変わらなさはなんというか静謐さとか厳粛さというような雰囲気さえ思わせたが、それは加熱していくリビングでのやりとりから感じる作品の物語に流れているフィクショナルな変動によって対比され浮き彫りになっただけなのかもしれない。それでも私は、リビングでの物語に流れている時間と靴や三和土や玄関という風景に流れる時間が同時かつ等速であることによって、地続きである空間が多層化している感覚を覚えてやはり「良い」と思った。リビングの風景と玄関周りの空間の二つのレイヤーが拮抗していると思った。そして目をなんとなく掘り炬燵のある和室に向けると、そこにはもう誰もいなかったのだが、私はまた新たな層を見つける。炬燵の上には先ほど置かれた演劇のチラシが先ほど置かれた状態で存在していて、炬燵の傍らには俳優たちによって都度移動させられた熊のぬいぐるみが座らされていた。私が掘り炬燵のある和室に発見したのは、チラシやぬいぐるみの配置が俳優たち、もっと厳密に言えばそこで先ほどまで流れていた時間の痕跡になっているということだ。今はもう俳優は誰もいないその空間において、しかし痕跡が残されていることで、先ほどまでの時間が空間ごと固定されている。そして過去が固定された空間に隣室であるリビングの声が時間となって流れ込んでいる。それを私が玄関で見ている。これらの位置関係によって私は時間と空間の複雑な混ざり合いをその時間/空間の経過に見たのである。



 みつきが時計を見ると店に入ってから一時間が経過しようとしているところだった。みつきの中にはもう現在の自分を対象化してそこに何かを思ったり発見したりする気持ちはほとんど残っておらず、彼女はだから自分に対しての無情の残滓すら意識しないままに、なんとなく店内を見回した。入店した時と斜光の角度は変わっていたが、みつきには気付けなかった。店内にはテーブルごとに幾つかのまとまったグループが座っていて、それらは同時に会話をしていたので、みつきには一つ一つの固有の会話を認識することはできずに店内という空間の中にある全体的なざわめきとしてそれらを耳にしていた。ざわめきは音だけでなく客たちの動作や表情もそうで、だから空間自体が漠然としているようにみつきには思われた。みつきはかつてパフェーだったパフェーのようなものをスプーンを使って手早く口に流し込んだ。パフェー(だったもの)を構成する全ての味がしたが、それは漠然としていて、口の中にまるで自分が過ごした時間が流れ込んでくるような感覚が不愉快だった。

みつきは伝票を持ってレジへと向かった。会計を済ませて店を出る前に、みつきは一度自分が先ほどまで座っていた四人掛けのソファー席を見た。みつきが広げたメニューはみつきが広げた形のままテーブルに残された。みつきが飲み干したパフェーの容器も、みつきが置いたテーブルの上に残されていた。たしかに一時間があのソファー席で経過したということが感ぜられ、みつきは惨めな気持ちになった。



 口論が続いていたリビングの方から、ギターの音が聞こえた。ギターを練習していた俳優の声も聞こえた。歌声だった。曲はSMAPの「Best Friend」だった。私はSMAPに特別明るいわけではないが、その曲は知っていた。他の俳優が何事かをボソボソとしゃべっている声が歌の背後にしたが、玄関にいる私には内容まではわからない。ボソボソとしゃべっていた他の俳優たちも次第に歌に参加し、「Best Friend」はギターの音に合わせて合唱となった。その音楽の流れているおそらく四分ほどの時間が、私にはなんというか独立した時間のように感じた。分断とか断絶ではなくあくまで独立という言葉を使っているのは、リビングにも、玄関にも、掘り炬燵のある和室にも同じくその音楽は聞こえていたから、分断とか断絶とかいう言葉に含まれる「断」という漢字が私の感じたあの感慨とはあまりにも趣の異なる強い意味を示しているように思えたからかもしれない。とにかく、歌が終わると、これにて演劇が終幕であるというアナウンスがなされ、俳優たちはリビングから廊下を経由し玄関から野外へと出ていった。程なく平家を周遊していた観客たちもまた、同じように玄関から出て行ったので、さっきまで静謐が保たれていた玄関周りはしばらく賑やかになり、また静かになった。



 家までのバスの中でみつきは再び明日のことを考えて、「学校休んじゃおうかな」と口に出して言ってみた。それが彼女にとって遅かれ早かれ到来する悲しい気分を先送りにしているだけとは、彼女自身ももちろんわかっていた。ふとポケットに振動を感じ、携帯を開くと彼氏からのLINE通知が来ていた。そこには彼も今、西新宿にいるのだが、ファミレスまで向かう道すがらで見かけた平家で催された演劇に惹かれて、みつきに悪いとは思いつつついつい当日チケットで観劇していたということと、彼がそこで感じた「時間が流れる」ということについての感慨が文字だけでも伝わってくる興奮と共に綴られていた。みつきはもちろんある程度安堵したが、それは連絡のつかない彼氏に何かあったのかもしれないという一般的な心配が払拭されたということにすぎなくて、むしろ一番大きな問題である惨めさは強まることになった。だからみつきは彼氏からのLINEに既読はつけたものの、返事を書く気にはなれず、そのまま家に帰った。帰って、録画しておいたジャニーズのドラマを三週分観た。今期一番話題のドラマということもあり、クラスでも考察が飛び交っているのを知ってはいた。しかし彼氏のことを考える方がフィクショナルな恋愛ドラマを見ることよりもみつきにとっては重要だったから、観ていなかったのだ。みつきはそのジャニーズのドラマに感動し、彼女なりに考察なんかも考えて、明日学校でクラスの子たちと盛り上がるといういくらか希望めいた予感をもって布団に入った。


 演劇が終わった後、私は他の観客がみんな帰ってしまった後もしばらく会場に残ったが、いつまでもいられるわけでもないので平家を後にした。家に帰った後も今日観た演劇のことを考えて興奮していたが、翌日になればそれもいくらかおさまってはいて、しかしあれほど興奮した気持ちや上演の間に感じた「時間が流れる」ということについてなどがおさまり続けていることには寂しさだったり不安のような頼りなさを覚えた。そこで友達のりっちゃんに昨日のことを話そうと考えたが、りっちゃんはりっちゃんで何やら興奮していて、聞いてみると今放送されている「silent」というドラマがマジで今期とかじゃなくてドラマ全体の中でもトップレベルに傑作であるということだった。私も「silent」というドラマが今やっていることだけは知っていたが、元々ドラマを毎週観る習慣がないのもあって、観るには至っていなかった。惜しいことをしたのかと思っていたがりっちゃんに話を聞いた日の翌日にTVerというテレビ番組配信アプリで全話見逃し配信できると知り、その日のうちに現在までに放映された三話分を一気に観た。


 肉汁サイドストーリーの「あ、無情」は私がたまたま観劇した日曜日が終演日で、その日のうちに撤収作業は行われ、私がりっちゃんに「silent」を薦められている翌日の時間には、もう肉汁サイドストーリーが小屋入りをする前の簡素な平家の状態に復元されていた。


 みつきが一時間を過ごした西新宿のファミレスでは、みつきが退店した十分後に来店した家族連れが先ほどまでみつきが座っていた四人掛けのソファ席に案内され、再びメニューが広げられた。


 私の観劇の翌々日、私が「silent」をTVerで一気見している時間に平家にはその管理人が二十分ほど点検のために滞在し、彼が出ていくとまた誰もいない時間が流れた。


 観劇の翌々々日というのが、私が今このブログのこの記事を書いている現在である。そして今日のうちにみつきはこのブログを読む。

 私もみつきも「silent」三話を観て、全ての回で号泣している。今期いやドラマ全体の中でもトップクラスと呼び声の高いことにも納得だ。ツイッターで#silentと打ち込めばさまざまな考察も読むことができるがそこから知る作品の細部へのこだわりには驚かされてばかりだし、なんといっても主演の目黒蓮くん(Snow Man)の演技には胸打たれる。次回もどうなってしまうのか気になって仕方がない。まだ観ていないという方も、TVerという無料アプリで全話見逃し配信されているので是非是非!!Official髭男dismの主題歌もめっちゃいいよ!

↓とりまMVのリンク貼っときマス!!!


2022/10/01

カナザワ映画祭2022 観客賞受賞

『ミラキュラスウィークエンド・エセ』がカナザワ映画祭「期待の新人監督」2022にて観客賞を受賞いたしました。
観客賞の名の通り、映画をご覧いただいた皆様の想いの結晶です。ありがとうございました。





カナザワ映画祭のWEBサイトにて、「期待新人賞2022」授賞式の受賞者コメントおよび審査講評が掲載されております。
「ミラキュラスウィークエンド・エセ」についても、監督澁谷の受賞コメントと審査員の方々からの作品評を頂きました。以下リンクよりぜひご覧ください。

2022/09/01

円庭鈴子「花束のうた」配信

2015年にCD-Rのみで販売されておりました円庭鈴子さんの「花束のうた-映画『幽霊たち』オリジナルサウンドトラック-」の音源配信が9月2日よりはじまるそうです。配信にあたり、新たにジャケット用イラストを山河図が担当しました。

映画『幽霊たち』(監督・脚本 澁谷桂一)のオリジナルサウンドトラックとして制作されたこのアルバムには、映画挿入曲のほかアウトテイクや主題歌のフルバージョンも収録されております。主題歌「花束のうた」は脚本から着想を得て作曲されました。
Bandcampでリリース後他サブスク等配信サイトからも配信開始予定です。




円庭鈴子「花束のうた-映画『幽霊たち』オリジナルサウンドトラック-」
作詞・作曲:円庭鈴子
ジャケットイラスト:山河図

「花束のうた」MV (監督:澁谷桂一)



2022/08/28

排気口『呼ぶにはとおく振りむくにはちかい』感想

排気口の新作公演『呼ぶには遠く振りむくにはちかい』を観た。それで、まあなんか色々思って、今回は感想を書いてみようかなと至り、こうして今、時間が経過している。演劇は小説なり映画なりという他の形態と違って物理的に残らない。上演が開始されたと同時に消滅が始まる。同じく観客は開始と共に作品を忘れ続ける。あらがつもりはない。にんげんは中途半端な死体として生まれてきて、一生かかって完全な死体になるんだとは寺山修司の言葉だけど、わたしは寺山修司の書いたものを丸々一本読んだり観たりしたことがない。だから、今の引用は別にソレっぽいだけで、ほらそんな寄り道をして、こうしている今も、忘れ続けている。以下の文章はそのドキュメントでもあるんだ。


 他人に言うと驚かれるし、自分で思い直してみても意外なことだが、『呼ぶにはとおく振りむくにはちかい』でわたしは初めて排気口の演劇作品を客席で観た。

排気口という劇団および主宰の菊地穂波と出逢ってわたしの中では久しい時間が経ったが、厳密なことは忘れてしまった。それでもその久しい時間の中で、排気口の公演に観客という立場で干渉したことはなかった。伴って、出逢って初めて、事前に台本を読むでもなく解説を受けるでもなく観劇した。つまり繰り返しになるが、観客として鑑賞をしたのだ。

 さて、それを踏まえてこれから排気口に対して感想文なるものを書こうとせんとすなのだが、これも考えみれば初めてだ。わたしは感想文というものにおいて身内がしゃしゃるのが好きではないから。台本を事前に読んでいたり稽古に何度も通っていたりゲネを撮影していたらそれはわたしの考える感想文ではない。感想文というのは個人の雑感に所属する。わたしがいかに、まるで解説のようなことや作者の想いの代弁めいたことを書いたとしても、それらは演劇に対してわたしが眼球を媒介に脳みそで受像した電気の点滅の域を出ない。ここには正解も不正解もない。また、上下左右もない。だから、これから書くことがあなたの抱いた感想と異なるとしてもそれは自然なのであって、また「お前は菊地穂波や排気口と親密なんだろう、だからそういう見方をするんだ」という固定概念をこの時点で抱いている人は今すぐ読むのをやめてくれよな。あなた、いやお前、お前に届く言葉はおそらくこれから一行もない。


ところで現在、鑑賞から何十時間という時間の経過がある。その中でわたしはYouTube「【けやかけ・そこさく】あかねんありがとう!守屋茜のけやかけ・そこさく名場面まとめ【守屋茜】」という2時間58分の動画をフルで観てしまったので、書く前から感想文にあたっては自分に大いなる負荷をかけてしまっている。だけど、わたしはマジで守屋茜を応援しているから。


 近年の排気口作品というのは概ね大絶賛を受けていたが、今作は満足度の意味で賛否が分かれるのもまた自然だと思った。というのは、わたしの知る限りの排気口の演劇作品において、今作は最高難易度に当たるだろうと思ったからだ。ここでいう難易度というのは、難解という意味ではない。むしろみもふたもないほどに読解のための情報は提示されている。わたしがここで思う難易度というのは、作品鑑賞に対しての姿勢が前提とされているという意味である。つまり、「この演劇が何を言わんとしているのか」ということはセリフやエピソードよりもむしろ演劇全体の形態によって示されているので、出来事のうつろいを台詞を頼りに把握するというのでは、ピンとこないことが多いのではないか?ということだ。そしてそれはオーソドックスな鑑賞姿勢だともまた思う。

 あっているかはわからないけれど、有名なフォーマットでたとえてみよう。


『呼ぶにはとおく〜』という題の手紙があなたの手元に届いたとする。あなたは広げてみる。するとそこには意味不明の文字列が並んでいる。こんなだ。

「たたもたたりたやあたかたねたたたがたんたたたたばたたたれ〜た!」 そして手紙の文末には狸のイラストがある。

たとえば狸のイラストが添えられていない作品をわたしは「難解」とする。フォーマットをそもそも知らなければ解読ができない。それはフェアじゃないと思うからだ。

そして、「た」を抜かずにそのまま読んで首を傾げる人のことをわたしは糾弾しない。しかし、この文章を読み解こうとせんとすことを「そんなのは穿った見方だ誰もできないだろ!」と非難されることは、狸のイラストを指差すその動作のみで抵抗する。


 前述した「近年の排気口」というのを一旦“2021年の長編作品とまとめる。『午睡荘園』、『金曜日から』である。2021年の排気口のテーマは「集団と個人」であると菊地穂波が宣言していたが、それでは『午睡荘園』と『金曜日から』はそれぞれどのようなアプローチで「集団と個人」を描いていたか。

 『午睡荘園』は悪の組織であるショッカーの杉並支部における内部分裂を描いていた。そこには、集団が個人を抑圧し破局・決裂していく様が描かれていた。

 『金曜日から』は企業の超能力研究部署において、未来を展望する予定とそれへの予約が否応のない現在に阻まれ解散することで、個人の夢が集団の興亡から逃れられない様を描いていた。

 これら2つの作品は、一幕でありながら暗転と休憩によって分断された複数の場面(=時間)に時系列が逆配置されることで、観客が「大きな悲しみや離苦」の後に「そうなる前の時間」を鑑賞する。この構造は観客に強制的な(登場人物たちはまだ知らないけれど私たちは知っている)運命づけられた未来への不安と、「あんな悲しいことが起きたけど、それよりずっと前にはこんなに楽しい時間もあったんだ」という郷愁を与え、文字通りエモの効果を生み出している。歪な形であるが観劇を通して観客は作品内に流れる時間を思い出すのである。記憶喪失者が記憶を取り戻すのと(違うんだけどそれでも)似ているかもしれない。知らなかったことを思い出す。そこには感動がある。

 また、上記の作劇に伴って菊地穂波テキストに顕著な技である「意味の変容」というのも、観客の感動を生む機能がある。作品の序盤で出てきたあまりにもくだらない台詞や事物が、クライマックスにおいて異なる意味をもって登場する。そしてこれらの作品は、先ほどの手紙のたとえで言うならば、「守屋茜がんばれ〜!」と書いてあったのだ。ドラマという名前のインクで以って。


 さて、「2022年の排気口作品」はどうか。2022年作品のテーマは「戦争」であるらしい。2022年作品の色の予兆は2021年晩秋の短篇『これは走り出さないほうの両足』からあった。『走り出さない〜』は自殺サイトで出会った男女が、訪れた樹海でムーミンとミィに遭遇する二〇分間の演劇。この作品をわたしが観たときにまず感じたそれまでの作品との差異は、こんなシーンである。

 未解決事件サイト閲覧を趣味にもつ自殺志願者の女が、ムーミンとミィの関係性について、二〇年前の女児誘拐事件の被害者と誘拐犯じゃないかと詰め寄る。一度ミィがムーミンをお父さんと呼んだことを指摘して、誘拐した女の子にお父さんと呼ばせるムーミンを非難し、ムーミンは「すみませんでした」と土下座をする。

 しかしその直後、実はその事件は解決済みの全く関係のないものであると判明するのだ。


 この短いやり取りは、それまでの排気口のパターンの逆をいく展開であるし、またオーソドックスな作劇と照らし合わせても「そうはしないだろ!」というものじゃないかしら。また、この演劇は結局、自殺志願者たちとムーミン、ミィの心は交流せず、自殺志願者たちの自殺意思も変わらないまま終わる。

 続く2022年『後ろに近づく淋しさ以外は』においても「意味変容」と「想起」の演出はなかった。そしてドラマのインクもほとんど使われていない。では、そういった武器または道具を手放すことで菊地穂波は何をしようとしていたのだろうか。ここからはいよいよすべての文頭に省略された「知らんけども」があると思って欲しい。


ここまで書いた時点でわたしはパソコンを閉じている。休憩時間に「【けやかけ・そこさく】たまに怖い&Sな理佐まとめ【渡邉理佐】」と「【そこさく】真骨頂な松田里奈」と「【そこさく】最高の友達松田里奈」と「【そこさく】松田里奈 やってるシーン集Part3」と「【けやかけ・そこさく】大沼の最恐にぶっ飛んでる名場面まとめ【大沼晶保】」を観た。閑話休題。


 『走り出さない〜』は笑いに溢れた小作品で、笑いどころの一つとしてムーミンが繰り返す「勸玄くんみたいな土下座」というのがある。菊地穂波が仕掛けたテーマというのはこの「土下座」にある。ムーミンとミィは人間たちに排斥された被差別者であり、その恨みから地球滅亡を目論んでいるのだが、この被差別者の悲しみが繰り返される土下座に表象されている。ムーミンにとって、土下座することだけが異物たる自分達の処世の術なのだ。そして過去から現在まで続くトラウマは、たとえば自殺志願者の男女にもそれぞれ違う形ながらにして同じように抱える傷として存在し、また、癒えない。二〇分間、すべてのキャラクターが他者と分かり合えないままだ。

 『後ろに近づく〜』はコンビニのバックヤードで従業員たちがメリーさんの怪談に怯えるという作品だが、この作品のキャラクターたちもまた過去から現在まで受けた傷というものと、その対象を忘れないし許さない。『走り出さない〜』と異なるのは、その傷と事実は解消されないけれども、それでも楽しい未来のことを考えようという点だった。ここには短編と長編の作品尺の差が関係するのだろうが、今書いていて「お〜」などと思うのは、『呼ぶにはとおく振りむくにはちかい』は、『走り出さない〜』と『後ろに近づく〜』を合わせたような、いや、踏まえたような作品だなということだ。

 2022年の排気口は「戦争」をテーマとすると書いたが、『後ろに近づく〜』ではストーカーの正体がタイムスリップしてやってきた青年兵という設定でそれを匂わせていた。そしてタイムスリップおよび出自をめぐる問題でもって描かれていたのは広義での「歴史性」つまり蓄積されている過去、のようなものだった、気がする。気がするというのは正直何ヶ月も経っちゃってあんまり覚えてないからなのだが、確かそのようなことを感じ取った気がする。現在まで消えない過去性(それはたとえば歴史的な事件を背景とする国同士の対立とも相似でしょう)と、安易な解決ではなく無関係な「未来」を。そんな……。いやちょっとあんまり滅多なことはかけないね。排気口に問い合わせてほしい。


排気口の劇のことを思い出そうとすると欅坂46の顔が浮かぶようになっている。彼女たちは可愛くて面白くて、わたしは誰にも見せられないような歪な笑顔をしている。そしてその顔が、真っ暗な部屋の中でピンスポットの如きスマホの画面によって照らされている。


 枕が長くなってしまったが『呼ぶにはとおく〜』の話に入る。

 修学旅行初日の夜、職員たちが明日に控える平和学習のための戦争演劇の打ち合わせをする。というのが一言で済ませればあらすじとなる。

戦争をテーマとしながら菊地穂波が描いたのは「戦争の悲惨さ」ではない。「戦争のメカニズム」である。戦争はこのようにして起きるということを提示し、そこに「だからやめよう」とか「恐ろしいよね」などとは言っていない。

戦争はなぜ起きるか? それは、他者に非寛容だからだ。他人の事情より自分の事情を優先させるからだ。政治的、宗教的、経済的という内実ではない。共通する構造の話だ。

 劇中において教師をはじめ、劇団「平和」の両親も、つまりはすべての大人たちが全員事情を抱えていて、その事情に基づく「こういうふうにしたい」という現在の欲望を他の全員に押し付けていく。そこには当たり前だが対立が生まれるだろう。しかし、全員が全員、相手の話に聞く耳を持たない。口をひらけば非難と愚痴である。

LGBTやいじめや就職難民といったテーマ性が雑多に挿入されているため主題が分かりづらいという感想をSNSで見かけたが、わたしはそれをテーマとは思わないしまた雑多とも思わない。LGBT問題やいじめ問題や就業問題を悪戯に扱っているわけではなくあくまで非寛容の具体例としてキャラクターに設定しているに過ぎない。具体例とは何か。テーマの換言でありそれは分かりやすさのための装置だ。

だからか、排気口の演劇において珍しく思ったのだが、それぞれのキャラクターが自身の暗い心情を吐露する台詞にわたしは表面的な説明以上のものを感じず、つまり各々の個人に対して心が動かなかった。彼らはそれぞれが悲痛な訴えをしていても、次の瞬間には同じく生きづらさを抱える別の存在に対して無礼で非情な言葉を浴びせるのだから。『シャーマンキング』でいうところの「やったらやり返される」ではなく「やられたらやり返す」でしかない。いや、それすらもないのか。

 誰も相手の話を聞いてない。劇序盤の信じられないボリュームでのナンセンスな台詞の応酬は、当人にとっては切実でも他者(それは観客のことでもある)には無意味であるし、チョビタ先生のいうように「静かにして!」「うるさい!」なのである。

 序盤の台詞のボリュームとスピードと量に関してもう一つわたしの見解を述べると、あれは「空襲」の比喩だろう。単に俳優もしくは演出家の失敗とは思えない。その根拠の一つに劇団「平和」の母親が戦争演劇のナレーションをするにあたり語られる被害がすべて空襲についてだったからというのがある。戦禍は空襲だけではないはずなのに。飛び交う怒号と激しい出ハケはさながら爆破である。観客は擬似的な絨毯爆撃に対しストレスを感じて然るべきであって、戦争を描く作品においてそれは一概に「よくない」とは、わたしの意見としては言い難い。(ちなみにわたしは覚悟していたほどストレスではなかったが、まあそれはわたしの感じ方だ)


 こうして書いている間にも少しずつ作品のことを忘れ続けている自分がいる。果たしてあとどのくらい言い及べられるだろうか。


 さて、非寛容を象徴する大人たちの対極には子供たちがあるわけだが、その他にも大人/子供には明確に表される比喩がある。それは過去性と未来性である。「人生」という有限の時間を生きる人間を二分したときに「過去」の蓄積が大きいものを「大人」、「未来」の余白の大きいものが「子供」である。大人たちはその蓄積によって苦しめられ、子供は不確定な未来に不安を感じるのである。ちょうど中間に置かれているのが教育実習生のユカちゃんであり、また猿田でもある。ユカちゃんは「これから始まる恋」を思いながらも、「恋に絶望する」ドロミ先生を非難する。あれは激励のようでいて激励ではない。ドロミ先生の抱える悩みを考慮していないからだ。だから「恋を諦めんな!」的なセリフはすべて、非寛容の属性に入る言動だ。一方の猿田は子供でありながら幽霊つまりは未来を剥奪されている存在である。

 この作品は大人がたくさん出てくるが、主人公──というか作者によって祈りを託されているのはおそらく「子供」で、唯一救済のようなものがあるとすればセレセちゃんの人生にしかない。いじめられているから学校に行きたくない、というのは厳密には母親のトラウマであり、作者がセレセちゃんに施す救済は「このままずっと八歳のままでいい」という彼女の台詞の解呪にある。つまり、未来を志向させるという点だ。

 上記、過去/未来 と人生の時間を二分したが大人も子供も、生きているのは「現在」という一点である。大人たちは現在に居ながらにして過去を振りむき続ける。

セレセちゃんは、この一点のまま繰り返され続ける時間つまりは「戦争演劇の時間」に留まろうとする。修学旅行の初日という現在にしか留まれない猿田がそれを解呪するわけだが、ではいかにして?

 

 魔法使いを希望するワンコ先生が魔法の杖を持っている。小さな頃、夜に欲しいものを書いたら朝に現実になっていたというエピソードが語られ、たとえばそこに「魔法」という力を置くと、「欲しいものが手に入る」「ゆえに自分は魔法使い」「ゆえに持つ杖は魔法の杖」というように、作者は魔法能力の所在をさりげなくスライドさせている。そこには二つの狙いがあって、一つは大人になったワンコ先生から彼女の自認識で持って特権性を奪うこと。もう一つが、魔法の杖に能力を持たせるということである。

ワンコ先生の語るエピソードと、他の大人たちのセリフにもある「夜だけ見られる夢は朝になったら忘れるんだ」(でしたっけ、まあなんかそのような)という夜/朝のモチーフは、夜に夢を、朝に現実を喩えているのだろうが、魔法の杖その能力だけが、現実を超越できるのだ。(たとえ誰かの恣意だとしても)

(作者が)猿田にワンコ先生から魔法の杖を奪わせたのには、猿田を魔法使いにする狙いがある。魔法使いは自分のためではなく、他者のために魔法をかける。チチンプイプイなど唱えなくても、杖を持っているものが魔法使いであり、魔法使いの言葉は祈りという形で魔法をかける。

 しかしながら猿田はその祈りを「ウソ」と言う。祈りは魔法、魔法はウソであると。でも、それでも、現実にならないようなことでも、あとから振りむけばウソに終わるかもしれなくても、過去と違って未確定の未来には「絶対」は無いから。このねじれがお分かりになるか。ウソと言わなくていいことをウソとわざわざ規定し、それでいながら遠い未来を呼べという。もしもそれだけで終わっていたなら、わたしはこのクライマックスを詐術的に感じていただろう。魔法って言い切ってくれればいいのになんでわざわざウソと見なすんだろうと。しかしなのだ。ここからがこの作品で最も重要で、おそらく菊地穂波が最も伝えたいメッセージが込められたシーンが到来する。

大事なことなので改行しちゃう。さらに行あけてみるか。それ!


四十度の熱を出しトイレのサンポールを飲み干し四肢を骨折し一家が破産した生徒であるクニエダが、突然全回復するのである。

これなのだ!!!!!!!大真面目にこれがこの演劇の上演時間である九五分において最も感動的なシーンなのであり、菊地穂波のメッセージなのだ。


 上演時、実際には姿を現さないクニエダの全回復が伝えられるセリフで客席には笑いが起きていた。それはいわゆるコメディに笑うのと同じ音をしていた。しかしマジで絶対これが重要なのである。なぜか? ありえないことだって実際に起きるという具体例が示されるからだ。いくらでも出まかせを並べられる言葉によってではなく、ゆるぎなき現象としての奇跡/魔法なのだ。ありえないなんてことはありえない。あらゆる理を転覆させて、文脈もリアリティも脈絡なく破壊する、そんな「もしそうなったらいいな」は実際に起きるのだということを菊地穂波は示している。それが素晴らしいじゃないですかとわたしは思う。「そんなわけない」「現実には起きない」というのはおかしい。なぜならそもそも実際に奇跡が起きているのは「フィクションの中において」なのだから。菊地穂波はたとえば「戦争は起きなかったことにしよう」などとは言っていない。戦争演劇の中で戦争が終わっちゃったことにしようぜという提案が結局実現しなかったことでそれは強調される。戦争とは現実世界で過去実際に起きた大いなる悲しみであって、その転覆をフィクションが図ることはおそらく菊地穂波の誠実さに背くのだろう。では悲しみにどう立ち向かうか?この世界において、現実や過去の揺るがなさに対抗できるのは、フィクションのフィクション性と、そして未確定の未来に夢をみることなのだ。どちらも、起きながらにして。


 さて、ちょっと前に「戦争のメカニズム=他者への非寛容」と書いたが、この演劇において菊地穂波は「だから寛容であれ」とはしない。なぜなら言うまでもなく私たちは他人だからである。これは他の排気口作品にも共通する姿勢なのだが「手を繋ぐのではなく手を離すことを祈る」というのが他者関係性の健全に対する菊地穂波のスタンスである。

 育ってきた環境が違うから好き嫌いを否めないはずなのに、分かり合えるはずだと盲信して他者に接することよりも、どんなにそばにいる人でも他人とは分かり合えないことだけが絶対で、だから、辛いかもだけどさ、この手を離してみよう。 こう言うのだ。この書き方でわからない人は増村保造『青空娘』なり古沢良太『リーガルハイ』子役の回なりをご覧いただければお分かりかと思う。あれらとおんなじである。多分ね。

だからこそ、全員が当初「一緒に演劇をやろう!」としていたのに、一緒に演劇をしないという結論に達するのだ。それは全員が同じように志向できるはずだという盲信からの解放だ。連帯の手を離すという連帯をする。サンは森で、わたしはたたら場で暮らそう。修学旅行は先生たちのためのものではないのだから。誰のためか?未来を表象する、子供たちのためのものだ。



──はぁ。もうそろそろ書くことが浮かばなくなった。そもそもこの文束はしょせんそこにパブリックな責任を伴わない感想文なのだ。終わりのところで終わりでいいのだ。だからわたしは現在、以下のことを考えている。


まつりちゃん(松田里奈さん)と自分の関係性において、最適なものはどんなであろうか?

思いめぐらしたどり着いたのはまつりちゃんが妹だった。

あんな妹いたらめっちゃいいよなあ。小学生の時は一緒に夏祭りとか行くよね。だけどさ、中学に上がって、やっぱ「今年からは友達と行くから」とか言われちゃうんだろうな。「そっちも友達と行けばいいじゃん、恥ずかしいよもう」とか言われて、うっさいわとか返すわけだけど、意外にも「(無言)」みたいな気持ちで、それでしらこい顔してリビングでテレビとか観てるんだけど、ママが「あんたも夏祭り行かないの?」とか話しかけてきて、「カネねーし」とか呟くんだけど、「小遣いあげるから、行ってきなさいよ、里奈の様子もみてきてよ心配だし」つって千円札を握らされるわけ。

それで、しょうがないなあみたいな態度決めてから、サンダルで、ぶらぶら神社までの道を歩くんだ。夏祭りは神社で行われているからね。喧騒ともんわりした熱気が遠く聞こえてきて、湿気に希釈されたオレンジ色の光がグラデーションみたいに一歩一歩濃くなってくる。

着いたはいいもののやることなくて、焼きそばと、りんご飴買って、里奈はりんご飴好きだったからね、もし会ったらカッコつけちゃおうかなみたいな。恥ずいか。でもまあいいやって思って一応買って、振り返ったら人ごみの中に浴衣姿の里奈が見えるわけ。声かけようと手を伸ばした瞬間、りなの傍らに半袖シャツ姿の男の子がいるんだ。

二人の手にはさ、りんご飴が揃いであって、笑い合うっていうよりはこの時間を大切にしているみたいにお互い歩調に気を遣いあってる。お前「部活の友達」って言ってたじゃん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。

 気づくと神社から出ていて、焼きそばは手元になくなってて、でもりんご飴はあるから、りんご飴が「見間違いなんかじゃないんだぜ」って言ってるみたいで、「先ほどの時間は実際に起きてしまったのだぜ」と囁いてるみたいで。捨てちまおうとするんだけど、捨てたらなんか、全部ダメな感じがして、どうしようと立ち尽くしてしまう。

「何してんの?」そんな声に顔を上げるとそこには同じクラスの守屋さん。全然浴衣じゃなくて、普通に部活帰りみたいな夏用ジャージ着ていて、普通に部活帰りみたいにテニスラケットの入ってるバッグを肩に提げている。

「お祭り?一人で?哀れすぎない?」守屋さんは容赦がない。そもそもあんまり話したことないのに。

「りんご飴じゃん!いいな」

「え、要る?」

「え、いいの?」

「いいんだ」

「ありがと」守屋さんはすぐに齧り付いて「硬って」と笑った。

なんだか笑ってしまって「守屋さんは部活帰り?」と訊いてみたら「そうだよ。わたしもこれからお祭り行くの。みんなを待ってんだ」だってさ。

「もうすぐ花火始まっちゃうよ」と困り顔の守屋さんの横顔は美しくもやはり畏れ多さを感じさせて、でもその横顔が綻んだ。

「あっ!」

視線の先には学年の女子たち。

「一緒にいく?」って守屋さんが言ってくれるんだけど、「いやあ、帰ります」と首を振って、そんじゃあーとポケットに手をつっこんだ。

下を向いて歩いていると、離れたところで「おーい!」と声がした。

振り返ると守屋さんが手を振っている。合流した女子たちは「え?誰?」とか「どうしたの?」というようなことを言って、笑いながらもちょっと訝しげだ。

「りんご飴ありがとね!!また学校でね!!」

その時、夜なのに一瞬昼間みたいに明るくなった。遅れて大きな音。花火。

そっちを見ていたら、「ねえ」と至近距離で声がして、驚いて振りむくと守屋さんがいた。

「聞こえた? りんご飴、ありがとね」

「え、うん、聞こえたよ笑」

「あのさ、絶対誰にも言わないで欲しいんだけど」

「え?」

「教えてあげる」

「な、何?」

「わたし、アイドルんなるんだ。秋になったら」

「えっ、まじ?ウソ、すご」

「受かったんだ。でも誰にも言わないでよ」

「まじ…やばっ。え、ファンレターとか書くよ!地元のやつってバレないようにするわ笑」

「なんでよ笑」

わたしは興奮していたんだろう。

「まじ、まじ書く。楽しみにしててよ。まじ暗号使うから。まじ絶対バレないやつ笑」

「まじ笑 楽しみにしてるわ」

「え、てか、なんで教えてくれたの」

「りんご飴くれたから、お礼。それに、やっぱりちょっと、誰かに自慢したいって思っちゃったんだ。かっこ悪いかもだけど、やっぱ聞いてほしいって」

そこで一度守屋さんは言葉を切って。

「すっごくうれしいんだ。夢が叶ったって感じなんだ」

2022/08/03

『ミラキュラスウィークエンド・エセ』カナザワ映画祭詳細

カナザワ映画祭2022の詳細発表されました。
『ミラキュラスウィークエンド・エセ』は9月17日(土)11:00〜 の上映になります。


『ミラキュラスウィークエンド・エセ』


出演|長田真英 木鳩 つぐみ 仁泉鋭美 神山慎太郎 吉村栄一 今井慶 河野新大陸 二村仁弥 ふくしまけんた 坂本恕 平岡唯君


原作|菊地穂波 プロデューサー|西村理佐

撮影|小川澪華 照明|白石幹夫 録音|静谷静一 衣裳スタイリング|庄司洋介 助監督|キリュウミホ 深澤眞歩

音楽|肉汁サイドストーリー エンディングテーマ|円庭鈴子「エレクトーン」

製作|シャーレ/山河図

監督脚本|澁谷桂一



カナザワ映画祭「期待の新人監督」2022

・日時|2022917日 11:00

・会場|金沢21世紀美術館 シアター21

・料金(一回鑑賞券)|前売 1,400円/当日 1,600


○前売りチケット購入こちらから


カナザワ映画祭2022お問い合わせ

TEL: 076-287-6628

MAIL: info@eiganokai.com

2022/07/13

Youtubeホラー映画祭に入選しました

ホラーちゃんねるが主催する第二回YouTubeホラー映画祭にて、シャーレが製作した映画『電話』が一次選考を通過し、YouTubeにてオンライン視聴できるようになっています。

以下から視聴できます。よろしくお願いします。


2022/07/01

カナザワ映画祭「期待の新人監督」2022に入選しました

カナザワ映画祭のコンペティションプログラム「期待の新人監督」2022に、シャーレが製作した映画『ミラキュラスウィークエンド・エセ』が入選しました。

9月17〜19日に金沢21世紀美術館シアター21にて開催されるカナザワ映画祭で上映されます。

詳細はこちらをご覧ください。

2022/05/17

femme fatale「Role of a Life」MVメイキング



監督したfemme fatale「Role of a Life」MVのメイキング映像がYouTubeにて公開になっております。
MV本編と併せてご覧いただけたら嬉しいです。

2022/05/06

femme fatale「Role of a Life」MV

femme fatale「Role of a Life」 MVを澁谷が監督しました。西村理佐とのW監督です。




サブスクも解禁されております。ぜひぜひ!

2022/04/29

おもいでのはとば「ひねもすのたり」


ものづくりブランド おもいでのはとば 新作「ひねもすのたり」のLOOK撮影を山河図が担当しました。

本日4月29日正午より発売予定です。

☆MAHJONG L/S T-shirt
 Color: Black / Light gray / Smoky purple
 Size: M /L

☆MAHJONGやきとり札コインケース
☆MAHJONG やきとり札キーホルダー

☆犬も歩けば ステッカーセット

☆犬も歩けば CAP
 Color:加工黒/加工みどり/加工青

PHOTOGRAPHY:山河図 
MODEL:柳川千恵 
OTHER:おもいでのはとば 

2022/03/06

ヴァージン砧「復刻版」フライヤー

ヴァージン砧「復刻版」のフライヤーを山河図が担当しました。


佐藤佐吉演劇祭2022 見本市
ヴァージン砧『復刻版』

作•演出|香椎響子

出演|ながはまかほり(劇団あばば) 古川はる

日程|2022年4月  7日(木)15:00/9日(土)18:00/10日(日)12:00

料金|前売2,500円
会場|北とぴあ カナリアホール

2022/01/21

牧野真莉愛ちゃんのインスタグラム投稿への雑感

 牧野真莉愛さんは、仮面ライダー龍騎的に言えば「闘わなければ生き残れない」であろう世界において、その"闘う"相手を他の誰でもなく自分自身のみに設定し(本人の言葉を借りれば何度となく繰り返される"克己"の体現)、本気で戦い続けることはこれはベタなようでいて一番難しいことをキッズだった頃からひたすら続けている(のであろうと見ていて思う)。誰かを蹴落とすことなくそれは裏返せば自己認識として光の道から踏み外さずに歩きつづけることを可能にする唯一の方法に感じるし、とはいえそんな事は可能なのか?という悲観論者どもに文字通り身体を伴った偶像として光を与え続ける所業であるが、それはともかくとしてハミングによって歌詞が遅延され続けた末に「ウィーダー」と言っていませんか?