『ミラキュラスウィークエンド・エセ(仮)』
『金曜日から』
私が昨年「透明人間」を観たときに、「なぁんだ、そっちなのかぁ」と思ってしまった不満というか嗜好を鮮やかに掬ってくれた。私はこういうものが観たかったしこういうものが好きなんだ。61年に作られていたのだ。良かった。
冒頭の「想像力はあるか?」という台詞がこの映画の醍醐味を象徴しているわけだが、「想像力はあるか?」というのはすべての創作を鑑賞するにあたって鑑賞者に向けられている言葉でもある。
いったんホラー映画というものを具体例として申し上げれば、(少なくとも私は)一度も目にしたことがない幽霊というモノを映画の中で目撃する。その時、「えぇ?なにそれ?幽霊なんていないのに?」と斜に構えた、というかリアリティラインを自分の人生経験のみに依拠する態度をとっていては、なにも楽しめない。楽しむ資格がない。
もちろん前述したようにこれは具体的であってすべてのフィクションに言える。
キムタクがクリュウと名乗り検事をやっている姿を見て「俳優の木村なのに?!」と思ってしまうなら木や草と話をして大人になる前にどこかへ連れていかれてしまうだろう。
創作を楽しむために必要とされる前提は想像力なのだ。
翻って、作品の内部のことで言えばこれが素晴らしいなと私が感じるのは、主人公が子供たちに対して彼らの「想像力」を否定すること。しかも主人公自身の想像力で以って。想像力が想像力を否定し破壊する。
それは許されることではない。だから罰が下るのだ。これは逆説だ。
ひとつの作品について解釈が何通りもできるということは素敵なことだ。きっとそういう作品については、作者の意図を外れた考察もあるだろう。そのとき、作品はたんなる誰かの創造を超えて人にとっての世界(自然)に一致する。それこそが本当に素敵なことで意義深いことだ。
上記の私の解釈は文字通り私の解釈でしかない。誰かに正論として提出するものではない。他人の想像力を否定するようなことはしたくない。罰を下されたくない。