わたしは物語ジャンキーPART3。。
2021/12/31
安川日記 21.12
わたしは物語ジャンキーPART3。。
2021/12/24
配信企画「ゴテンバサノバザール」第3回出演者募集
メリークリスマス・イヴ!
【企画概要】
・私からの演出はありませんので、ご自由に読んでください。ご自身で音源を編集をしたりSEをつけていただいてもかまいません。
【参加手順】
①こちらへのメールもしくは、TwitterのこちらのアカウントへのDMで参加希望の旨をお伝えください。♯3の応募〆切は2022年1月11日とします。
②「ありがとうございます」的な挨拶返信を致しますので、録音を行い、2022年2月11日までに音声ファイルをメール添付やGigaFile等ファイル共有サイトURLという形で①と同じくメールもしくはDMにて作品をお送りください。
↓
③送って頂いたファイルを順次Podcastにアップロードし、完了次第お知らせいたします。
【注意事項】
・作品の著作権は作者である「志水あみ」と出演者様のどちらも有するものと致します。よって、アップロードされた作品をご自身のホームページなどにアップロードする場合は、志水あみによる執筆である旨をお書き添え下さい。
・双方ノーギャランティーとなります。それに伴い、テキストを使っての商業公演や音源の販売はお控え下さい。(ただし無料上演であれば、ご連絡くだされば許可いたします)
・テキストの文言の改変、構成の変更は禁止とします。
たくさんのご応募お待ちしております!!!!!!!!!!!!!
2021/12/09
・
最近、山河図が考えていること
- 塔矢アキラの『お水を一杯飲んでこようか』って台詞、マジ?
- 一人なのに相手側に白石の碁笥を置いてる父を見た塔矢アキラの気持ちを考える。
- 和谷は企画を考えるのが上手い。
- 真中淳平がいつか撮ろうとしている映画はコンテがダサい。
- 泉坂高校映研が作った『夏に歌う者』のラストシーンは画が繋がってないし自主映画のレベルで撮影するのは不可能ではないか。
2021/12/06
排気口「山河図コラボTee」
排気口のTシャツ「山河図コラボTee」イラストを山河図が担当しました。 せっかくなので排気口の作演出・菊地穂波さんを描きました。
排気口「金曜日から」上演の際、劇場にて物販されるそうです。
model 西村理佐/二村仁弥
photo 山河図
2021/12/04
仮面ライダー
2021/11/30
安川日記 21.11
わたしは物語ジャンキーPART2。。
生き方の問題
2021/11/17
排気口「金曜日から」ティザー映像
日時|2021年12月17日〜19日
2021/10/31
安川日記 21.10
完全なるオフの日にしかご飯を作る以外の家事ができなかったのだけど、ここ最近朝起きて片付けをしたり、稽古が終わったあとに洗い物とか掃除をするようになってきた。
田島列島さんの「子供はわかってあげない」を読む。
2021/09/30
安川日記 21.8~9
駅のホームで
髪の毛をオレンジ色にしたい
ブログ、20歳前後のときは
2021/09/24
山河図のロゴ/シンボルマーク
山河図のロゴおよびシンボルマークが完成しました。
どちらのデザインも詩人・デザイナーである福西想人(夕立コンパイル)によるものです。
山河図という屋号を構えるにあたり、ロゴのデザインは私がかねてからもっとも信頼を寄せている福西さんにと依頼したところ、快く引き受けてくださり、深い理解のもと素晴らしいデザインを作っていただきました。福西さん、あらためてありがとうございます。
2021/09/06
山河図
「顧みて 恥じることない 足跡を山に 残したろうか永遠の 水面の光 増す夢を河に浮かべたろうか愛する人の瞳に 愛する人の瞳に俺の山河は美しいかと 美しいかと」
2021/07/25
排気口『午睡荘園』予告篇
2021/06/17
惡の華
変態なんかじゃない━━"変態じゃなくなる"ではなく"変態じゃなかった"ということ、それは観客が最初からずっと分かっていたことだと思うけど、春日くん自身が(なにかを手放す感覚を持ちながら)実感する映画ということだろう。「自身が実感する」ことこそが"成長する"ということであるし、思春期を描くというのはそれを撮るということだ。と思う。
2021/06/13
劇団きのこ牛乳「はらたけ科」Bプログラム『珍しくよく喋ったり哀しいことも起こってないよ』
それ以来観に行ってなかったが、今回は菊地穂波さんが新作の脚本を提供した作品があるというので、私は彼のファンであるので、面白かったよなきのこ牛乳とか思いながらひさしぶりに観劇した。
ここまで書いていて、この文章を書くことが全然気乗りしないしなんかもうめんどくさいという気持ちが濃くなってきた。まだこんなに序盤なのに。
Bプログラムに行ったので二本立てのそのどちらもについて書こうかなと思っていたが、ダメだ。全然書いていて楽しくない。とりあえず穂波さんが書いた「珍しく〜」の方だけにとどめる。
私は穂波さんとはダチンコだが、ダチンコであることは全く関係なく菊地穂波のファンでもある。ときどき書いたり言ったりするが、菊地穂波の作品を目にする度に「演劇をやっていたら心が折れて辞めてしまうだろう」と思う。面白くて。それに、「珍しく〜」を書いた頃の穂波さんとは多分まだ出会ってなくて、だから“ダチンコである穂波さん”ではなく純然たる“菊地穂波”であるとも言える。
前置きは終わりにして感想に入るが端的に言って最悪だった。もう2度とこんな体験をしたくないしもしも私が菊地穂波の立場で、つまりあんなふうに自分の書いた脚本を扱われたのならたちまち大猿になって暴れてしまうだろう。脚本は面白かった。脚本は面白いのに(脚本を読解しそれを俳優の身体を通して伝えることを一旦“演出”とすると)演出が最悪だった。もしかすると面白く観劇した方もいるのかもしれないのでそういう方の感想を否定したくはないという理由から具体的な箇所を言及するのはやめといてやるが、絶対にこういうト書きや指示は菊地穂波は書かないであろう箇所が今パッと思い出すだけでも二箇所ある。わかるだろ。観た人なら。作った人なら。なんであんなことをするんだ。どうしてあんなに、作家というものに、もっと言えば“テキスト”というものに、一切の敬意を払わずに“演出”なんて行為を行えるんだ。アレンジをすることや改変をすることそれ自体を否定しているわけではない。そういうものはテキストに対する 抽象的に言えば敬意/具体的に言えば読解 を前提にしていると言っている。それが致命的に欠如していると言っているんだ。「敬意も払ってるし読解もしている」と言うなら重傷で、やったつもりでも結果として出来てないからもう2度と他人を巻き込んで悲しみの絨毯爆撃みたいなことはしない方がいいっていうかするな。
菊地穂波さん自身が観劇した上で、私が論うような怒りと悲しみの混合液みたいな感情を微塵も感じていなくて、「面白かった!」「私のテキストを輝かせてくれてありがとう」と心から思えるなら私は菊地穂波への信頼を、失うとまでは言わずともその多くを欠かしてしまうかもしれない。言い換えれば、そんなこと絶対にあり得ないくらい最悪だったといってるんだ。
実際にキレるかどうかはわからないけど多分キレないだろう。原稿料を貰ってシナリオを書くというのは、仕事というのは、きっとそういうものだから。脚本に対する対価を貰っている以上、仕方ない。権利がないかもしれない。チケット代をきっちり払ってよかった。チケット代を払うということは私が「客である」つまりこういう事を書く権利があるということだ。ちなみに野暮な事を申し上げると、「金を返せ」とか「菊地氏に謝れ!」とかは思わない。当たり前だがそういうことではない。面白い脚本を稚拙な演出をして最悪になった演劇を観て最悪な気持ちになった。それだけだ。ネガキャンではない。感想文である。ご了承頂けることを願う。
2021/05/22
シャーレ新作映画&ティザー映像 出演者募集
『ミラキュラスウィークエンド・エセ(仮)』
『金曜日から』
シャーレ新作映画出演者募集
『仲良くなりそうでならなかった奴(仮)』
脚本 大谷皿屋敷
製作 シャーレ
≪大谷皿屋敷≫
1989年、北海道生まれ。劇団「地蔵中毒」主宰。 大学時代に学生落語全国大会てんしき杯にて優勝、詩のボクシング全国大会にて準優勝を経て、そろばんの先生に50万の借金をして上京。 2014年に、劇団「地蔵中毒」旗揚げ。 極端に生活力が低く、ゴミ屋敷に住む。自宅のゴミ屋敷を掃除してもらう「ゴミ屋敷掃除ワークショップ」や「観客がジャガイモを握りながら観る演劇」を開催する等、自分でもよくわからない活動を続け、小劇場界から黙殺され続けている。
近年の活動としては、劇団「地蔵中毒」第12回公演『おめかし、鉄下駄、総本山 削ればカビも大丈夫 (村の掟 全無視 Edition) 』(下北沢駅前劇場)、第13回公演『宴たけなわ天高く円越える孫世代』(下北沢ザ・スズナリ)などがある。他にも、安藤玉恵による一人芝居劇『SAVE THE どん平 安藤玉恵による"とんかつ" と"語り" の夕べ vol.1 切断』で作・演出、WOWOWオリジナルコントドラマ『松尾スズキと30分の女優』で脚本参加している。
2021/05/07
回転
私が昨年「透明人間」を観たときに、「なぁんだ、そっちなのかぁ」と思ってしまった不満というか嗜好を鮮やかに掬ってくれた。私はこういうものが観たかったしこういうものが好きなんだ。61年に作られていたのだ。良かった。
冒頭の「想像力はあるか?」という台詞がこの映画の醍醐味を象徴しているわけだが、「想像力はあるか?」というのはすべての創作を鑑賞するにあたって鑑賞者に向けられている言葉でもある。
いったんホラー映画というものを具体例として申し上げれば、(少なくとも私は)一度も目にしたことがない幽霊というモノを映画の中で目撃する。その時、「えぇ?なにそれ?幽霊なんていないのに?」と斜に構えた、というかリアリティラインを自分の人生経験のみに依拠する態度をとっていては、なにも楽しめない。楽しむ資格がない。
もちろん前述したようにこれは具体的であってすべてのフィクションに言える。
キムタクがクリュウと名乗り検事をやっている姿を見て「俳優の木村なのに?!」と思ってしまうなら木や草と話をして大人になる前にどこかへ連れていかれてしまうだろう。
創作を楽しむために必要とされる前提は想像力なのだ。
翻って、作品の内部のことで言えばこれが素晴らしいなと私が感じるのは、主人公が子供たちに対して彼らの「想像力」を否定すること。しかも主人公自身の想像力で以って。想像力が想像力を否定し破壊する。
それは許されることではない。だから罰が下るのだ。これは逆説だ。
ひとつの作品について解釈が何通りもできるということは素敵なことだ。きっとそういう作品については、作者の意図を外れた考察もあるだろう。そのとき、作品はたんなる誰かの創造を超えて人にとっての世界(自然)に一致する。それこそが本当に素敵なことで意義深いことだ。
上記の私の解釈は文字通り私の解釈でしかない。誰かに正論として提出するものではない。他人の想像力を否定するようなことはしたくない。罰を下されたくない。
2021/04/30
配信企画「ゴテンバサノバザール」第2回出演者募集
【企画概要】
・こちらのページに載っているテキストから出演者に一本選んでいただき、その音源をポッドキャストWEBにてすべて発表する。
・私からの演出はありませんので、ご自由に読んでください。ご自身で編集をしたりSEをつけていただいてもかまいません。
【参加手順】
①こちらへのメールもしくは、TwitterのこちらのアカウントへのDMで参加希望の旨をお伝えください。♯2の応募〆切は2021年5月11日とします。
↓
②「ありがとうございます」的な挨拶返信を致しますので、その返信から《1ヶ月以内》に、録音を行い、音声ファイルをメール添付やGigaFile等ファイル共有サイトURLという形で①と同じくメールもしくはDMにてお送りください。その際、出演者のお名前を明記してください。複数で参加する場合は全ての参加者のお名前をお書きください。
↓
③頂いたファイルを順次Podcastにアップロードし、完了次第お知らせいたします。
【注意事項】
・作品の著作権は作者である「志水あみ」と出演者様のどちらも有するものと致します。よって、アップロードされた作品をご自身のホームページなどにアップロードする場合は、志水あみによる執筆である旨をお書き添え下さい。
・双方ノーギャランティーとなります。それに伴い、テキストを使っての商業公演や音源の販売はお控え下さい。(ただし無料上演であれば、ご連絡くだされば許可いたします)
・テキストの文言の改変、構成の変更は禁止とします。
たくさんのご応募お待ちしております!!!!!!!!!!!!!
2021/04/19
夏の娘たち〜ひめごと〜
空間というより時間、が文字通り切り取られてそれによって空間の方が歪む、しかしながら映画体験はあくまで「時間」の中にしかないという整理してみると誰でも分かるけど気にしてないことに監督が意識的であるが故にうまれる効果が、気持ち悪さ、「えっ?」という動揺(それでも「なんで?」とは思わない)によって観客の意識を釘付けにして、映画は非常に繊細で微妙な波打ち際を足を濡らさず全力で推進する。
この映画の特徴である歪なズームアップも、小学生にカメラ持たせても同じことをやりそうなものだが、ちょっと調べたところその技にまばたきという名前までつけてやっていたようだし、川の整音も「真似しちゃダメですよ」とインタビューで言いながらもすべてわざとやっていたらしい。
つまり、テキトーにやってもそうなることすらその方が面白いっしょ意識つまり"あえて"ではなく(この"あえてではない"ということが本当に大切なのだけど)、「そうするべき」という強い順当性のもと丁寧にやる点こそ堀禎一が私にとって唯一無二の大切な監督である一番の理由と、観る前から思っていたことをさらに思わされた。
──と書いてみたものの監督への個人的な想いを作品レビューに書くのは忍ばれる。それは監督の仕事に対して観客が過度な感傷を持つということで、別に他の監督にならともかく俺は、堀禎一だけにはそういうことをしたくないから。
すべての作品は観客と作家の丁度まんなかの位置に置いてあって、観客はそれをはじめて体験するみじかい時間、作品を通して一度だけ作家と話すことができる。
「映画は歳を取らない」という言葉が上映後のトークショーであったが、申し訳ないけど私はそれを希望の言葉とは思えない。
私が未熟である証拠だ。
いつかこの映画に対して、その言葉を希望的に思える日が来るといい。
それは絶対叶わないことじゃない。
手段がまだあることを私は知っている。
あなたにいつかまた会えたなら、それはどんなに嬉しいことだろう。
2021/04/18
ターン
事情あってタイムリープモノを観ることにし、タイムリープモノといえば「ターン」かなと思って観た。「ターン」しか思いつかなかった。
前半のピークとなるレストランデートシーンで、ベタではあろうに不覚にもグッ…!ときてしまった。それは単純にベタな感動ではあるけどそれだけではない。
しらける危険大の説明台詞をキャラクターにさせて客に情報を共有させる手として、なるほどその手があったかというか、まぁアレが端的なのかはわからんけど、あぁいいですね…と思ったのも確か。
俺なんかどうしようもないので俺だったらレストランデートをクライマックスに持ってきてしまいそうだけど、確かにそれだと何も解決しない。
そこからカキザキによって物語が展開するわけだけどなるほどカキザキていうアイデアは見事、お上手という感じだしカキザキが出てくるシーンが全部良い。良いというのは上手いという意味。展開としては設定に対してベタなのかもしれないが。わからんが。俺だったらしてやったりの顔をしてしまいそう。職人が作った映画なのだ。たぶん。
なんにせよアイデアや設定に終始せずそこから展開をさせるというのは大切なことだよねという中学生みたいなことを思った。いわゆる文芸邦画エモエンタメ映画のかなりオーソドックスな型なのであろう。職人が作った映画なのだ。たぶん。
ラストの展開はやや強引な気もする。ちょっとひっかかってる自分がいないわけでもない。でもまぁ、いいかとも思う。なんかエモいし。そんなことするなよってのもない。とくにラストだけど編集も普通に良い。べつに過剰にしてなくてそこも良い。職人が作った映画なのだ。たぶん。
2021/03/18
トキワ荘の青春
私が今暮らしている部屋を借りたとき、「トキワ荘の青春」を思い出していた。
すべての若者がそうであるように私もまた「まんが道」をはじめとするトキワ荘にまつわる作品を読んで胸打たれた一人であり、そしてまたすべてのそういう人たちが其々のトキワ荘を借家の候補に探すようにして私は不動産屋さんに「トキワ荘の青春」って観たことありますか?ああいう部屋に暮らしたいんですが、と訊いた。
不動産屋のお兄さんは「見たことありませんね」と言った。「だけど探してみます。」
私は結局、トキワ荘に比べれば交通の便が良く、駅近で、少し広い部屋を借りることになった。それでもそのアパートは木造で、畳の部屋で、風呂がなかった。
はじめての夜、家具がほとんど何もない部屋で、DVDの「トキワ荘の青春」をひとり観た。作品の中で入居してくる若者のようなきらきらした気持ちには何故かならなかった。やってやるぞという気持ちにはならなかった。トキワ荘の青春その時代より地球は温暖していて夏が暑く、そしてエアコンがあった。
私は結局、トキワ荘に比べれば交通の便が良く、駅近で、少し広い部屋を借りたのだと思った。映画の中のことは映画の外には無く、そもそも私は漫画家を目指していなかった。
そんな夜からしばらくの時間が経って、私にも少しだけども友達ができたりして、家でちゃぶ台を囲んで酒を飲む夜があったりもした。その頃に比べれば集まる頻度が少なくなった友達と映画館で「トキワ荘の青春」を観た。やっぱり、別に、自分たちと作中の彼らを重ねたりはしなかった。それでももちろん素晴らしい映画だと思ったけど。また別のことなのだ。悲しいことではない。
劇場が明るくなると友達のひとりがむせぶほど泣いていた。
私たちはとんかつ屋で定食を食べて、昼からビールをわけわけして飲んだ。帰り道の電車の中で、私は部屋でひとりDVDを観た日のことを思い出した。
2021/03/01
ライアー×ライアー
そんな老害である私ですら、しかし透と湊にはきゅんきゅんしっぱなしの2時間で満足でした!!!!!!
大好きな女の子の後ろ姿に手を振りつづける透、悲しくなってノーモーションで突然ぽろぽろ泣いちゃう透、忘れてたことを思い出す呆けた顔の湊、不意を突かれて呆けた顔の湊、エクアドルの本を持ってる透……ラヴぃ。
設定を読んだ時から絶対おもしろいだろこんなんと思っていて、予告を何度も観ながら「どうなっちゃうの〜〜!?」と思っていた私は、本編が始まって2時間のあいだ、やはりずっと「どうなっちゃうの〜〜!?」と口に手を当てていた。
期待しすぎて予測を立てすぎてオチの選択肢を全部用意してしまった私だったけど、それでもある程度はびっくりできて良かった。しかしあのラスト、客観的に見るとけっこうえげつないというか、悪夢みたいだと思っちゃったけどそれは良く言えば重層的になってるということなのか。
迷子にならないよう手を繋ごう。
そうなのだ。それがテーマなのだ。
2021/02/27
亀田梨紗写真集
どんな人がどんなカメラで撮ってもどんな演出しても、揺らがないものがあるということだ。
撮影者を否定しているわけではない。撮影者の個性とはその先に枝分かれするものだ。
かめりささんの写真集を買った。
なんか最近SNSのタイムラインでかめりささんの写真を目にすることが多くて、そのどれもに、写真の良し悪しとはまた別の、一言では言いづらいエネルギーを感じていた。都度、これはなんだろう?と思っていた。それらを撮影した人は一人ではなかったのに、受像したエネルギーはどれも同様だったからだ。
エネルギーは渦を巻いていた。ちょうど絵の具を水の入ったコップに垂らしたときのようなイメージをしていた。
そして写真集を買った。知り合いの写真集を購入するなんて初めてだった。照れ屋のおれは本来そういうおれではない。
掲載されていた写真はおれがSNSで見ていたのとはまた違うタッチだったし、SNSで見ていたのとは少し趣が異なっていた。
しかしながら、おれはまた同様の渦を感じた。
少し調べてみたところ、この写真集は一日や二日でエイヤッと撮影されたものではないっぽかった。
雰囲気の異なる幾つかの、大まかに言えば章があるのはそういうわけかと納得した。
しかしながら、おれはどれもに同様の渦を感じた。
これはなんなのだろうと、あまり真剣になりすぎないよう気をつけながら、たとえば木耳とご飯を出汁で炊き込んだやつを食べたり、木耳と卵とキャベツを炒めたやつを食べたり、セブンイレブンの見慣れない飲み物をタバドリにして喫煙したり、シン・ウルトラマンのソフビを買ったり、シン・ウルトラマンのソフビを窓から射し込む夕日に照らしてDP2sで写真に撮ったり、隣町の図書館でアンゲラ・ゾンマー・ボーデンブルグの「ちびっこ吸血鬼」の本を三冊借りたり、それを読みながらドトールで昼寝したり、「くるぐる使い」を読み終えたり、「花束みたいな恋をした」を観たり、穂波さんに駅前でばったり会って彼の家で朝まで酒を呑みながらなぞなぞをしたり、穂波さんに駅前でばったり会っておれの家で朝まで酒を呑みながらトランプをしたり、澁谷ツタヤで「ウルトラセブン」を借りてきて観たり、スパルタローカルズ「セコンドファンファーレ」「悲しい耳鳴り」を聴いたり、スパルタローカルズの解散ライブの映像を観たり、LIGHTERS「Don’t worry」を聴いたり、Jack Stauder「Pop Food」を聴いたり、Workshopを聴いたり、木村カエラ「TREE CLIMBERS」を聴いたり、志ん朝の「茶釜」「高田馬場」「化け物使い」「百年目」「そば清」を聴いたり、The Marias「I Don’t Know You」を聴いたところで、“この感じだ“と思った。そこで捉えた感じがあった。
英語なので歌詞は読んでみても虫食いのようにしかわからなかった。翻訳をする気にはならなかった。意味が分かってしまうとしらけることもある。その予感が働いた。
“情報“なんかどうでもいいことがある。正体を説明できない方がいいこともある。マリアズのこともあんまりおれは良く知らない。ボーカルが女の子ということしかわからない。どこの国のバンドなのかも知らない。英語圏なんだろうけど。もろもろをすっ飛ばして、これが俺が写真集から感じたムードでは、あった。
そして、エネルギーの正体を考えることに終止符を打つために、この文章冒頭のことを書いた。あんなことは元から誰もが知っていて、そしてかめりささんという被写体を撮影したことがある人なら誰でも感じているであろう要素の一つに過ぎない。敗北だ。
だから書いてみたところでエネルギーの正体のことは依然おれの中で、イメージの域を出ない。出なくていい。なんだかこんな風に書いていること何もかも野暮に思えてきた。敗北だ。だけどそれでいいのかもしれない。
おれもかめりささんの写真撮ってみたいです。俯き白旗を振りながら申し上げます。
There’s weight in my bed
Where you laid and you said
I don’t know you
I don’t know you
If we tried to retrace
Would it show on my face
And remind you
I don’t mind you
But babe this isn’t right
But if you’d rather dry your eyes then honestly I’m fine
With keeping my trust in you
And making up if we tried
2021/02/25
花束みたいな恋をした
映画に出てくる中央線のアパートには、ベランダがない。外階段もない。一軒もない。
そしてそんな映画のなかで峯田が言っていたのはこんなセリフではない。
“みんなの中にも、きっと福満しげゆきは住んでる。
その福満はきっと言うだろう。「死なせてくれ!殺してくれ!」“
ともあれ「花束みたいな〜」前半を観ながら私は以上のセンテンスを思い出していた。
不思議なのは、そんなセンテンスはないし、私には別に麦くん絹ちゃんのような出会いも思い出も彼らのような青春への憧れもないのに胸が苦しかったということだ。
まるで呪術高専の東堂先輩だけど、カルチャーに恥ずかしい気持ちよりも息苦しさが優先されていた。理由はわからない。
物語が進むにつれ胸の苦しさは消えていった。召喚された福満は丸くなって眠った。
後半の方がずっと微笑ましく思った。素敵なカップルだという感想。
なぜか?
彼らが(最初から)最後までずっと両思いだったから。
終始口に出さずとも全く同じタイミングで全く同じことを感じていたから。
相手のことを素敵に思うことも、相手に不満を持つことも、相手に別れを決心することも、すべて全く同じタイミングである。
それは「恋」ではないしかといって「愛」ということではない。
ただお互いの自分の魂の片割れに出逢ったということだ。鏡みたいに。
安らぐにせよにせよ悲しむにせよ“そういう相手を持つ“ことは、奇跡的だし、素晴らしいことだと私は思う。
そう思うことに私はロマンを感じたいと思っている。
「奇跡は(映画の中では)起きる」と教えてくれている。
別れた二人が過ごした三ヶ月を、私は何より悲しくそして美しい日々のように思った。
飼い猫をどちらが引き取るかのジャンケン、他のどんな描写より二人が大人になってしまった切なさがある。
彼らのおしまいの三ヶ月こそ“あり得るはずだった/あり得たかもしれない/しかしもうあり得ないであろう“二人の日々だからだ。
ラストシーンで、一年位前に読んだ本の文章を思い出した。
それは悲しい運命を辿ることになるひと組の夫婦がまだ幸せだった頃に撮影された、彼らの肖像写真についての文章だ。
「この二人が悲劇的に運命づけられていながらも、なおそれとは違った未来への可能性のなかにおいても同時に捉えられているからこそ、彼はこの写真の二人に感動したに違いないのだ。人生の様々な可能性に向かって開かれたままの状態で結晶化している二人の姿に……。」
「この写真から、未来の出来事との連関によって意味づけられてしまうこと(運命としての悲劇)からも、当事者たちの現状認識によって意味付けられていたこと(婚約という幸福)からもこぼれ落ちてしまうような、あり得たかもしれない別の歴史の可能性(「未来における別の幸福」とでも言うべきか)を感じ取ったと思われる。実は彼の言う「想起としての歴史」とは、そのもう一つの別の未来の可能性、つまり果たされなかった革命の可能性を、過去の出来事の片隅に見出し、それを現在へともたらすことと言えよう。」(引用:長谷正人「「想起」としての映像文化史」)
さよならだけがバッドエンドではない。
ふたりの心が人生が通うことはもうないとしても、奇跡は起こる。少なくとも映画の中では。
2021/01/12
南瓜とマヨネーズ
キャスティングの時点で気付いてもよかったようなものだけど、これは魚喃キリコの「南瓜とマヨネーズ」ではないのだ。その宣言というか、態度の表明があのキャスティングと特に男性陣のビジュアル(髭とか髪型とか)にあらわれていた。これは冨永監督が魚喃キリコの漫画を読んで、文字通りの"原作'として、自分で脚本を書いて、撮影した映画なのだ。だからこれは冨永監督「南瓜とマヨネーズ」なのだ。
冨永監督はなぜそのようにしたのか?
それはわからない。
わからないけども、魚喃キリコの「南瓜とマヨネーズ」を読み返しておれが思ったのは、この漫画を「映像化」しても面白くならなそう〜という予感だ。つまり完成されているのだ。それを映像でなぞってみたところで漫画に勝てるわけがない。漫画の読後感は得られない。原作を読んだ人のブログをいくつか巡ってみたが(他の魚喃キリコの漫画への感想と同じように)、「映画のようだ」という言葉が多くあった。
つまりわざわざせんとも原作で充分なのだ。魚喃キリコが好きならこんなの見ずに魚喃キリコを読めばよくないか?
なるほどねぇ……
ではそれでも映画にするとした時、どうすればよいのか。その手段として「どこか似ているけど別のもの」を作るというのは、悪手とおれは思わない。
漫画だから成立する散文詩のようなモノローグを削減し、オープニングのモンタージュとかキスシーンの故障のような演出(あれって俺がアマプラで観てるがゆえのバグなのかな?そうだとしてもすごい、だって壊れてるもの)、せいいちがバーテンになる時の1〜2秒の「えっマジでやります?」という足元のショットとか、そういう点がすごく楽しかったし面白かったし好きと思った。
〜余談〜
エモいかエモくないかというのは、「観た人次第」と思うけど、少なくとも監督においてはエモくしようという気は絶対にないと思うな。