被写体の力、というものは、あって、しかもそれは一定量撮影者の個性に左右されない。
どんな人がどんなカメラで撮ってもどんな演出しても、揺らがないものがあるということだ。
撮影者を否定しているわけではない。撮影者の個性とはその先に枝分かれするものだ。
かめりささんの写真集を買った。
なんか最近SNSのタイムラインでかめりささんの写真を目にすることが多くて、そのどれもに、写真の良し悪しとはまた別の、一言では言いづらいエネルギーを感じていた。都度、これはなんだろう?と思っていた。それらを撮影した人は一人ではなかったのに、受像したエネルギーはどれも同様だったからだ。
エネルギーは渦を巻いていた。ちょうど絵の具を水の入ったコップに垂らしたときのようなイメージをしていた。
そして写真集を買った。知り合いの写真集を購入するなんて初めてだった。照れ屋のおれは本来そういうおれではない。
掲載されていた写真はおれがSNSで見ていたのとはまた違うタッチだったし、SNSで見ていたのとは少し趣が異なっていた。
しかしながら、おれはまた同様の渦を感じた。
少し調べてみたところ、この写真集は一日や二日でエイヤッと撮影されたものではないっぽかった。
雰囲気の異なる幾つかの、大まかに言えば章があるのはそういうわけかと納得した。
しかしながら、おれはどれもに同様の渦を感じた。
これはなんなのだろうと、あまり真剣になりすぎないよう気をつけながら、たとえば木耳とご飯を出汁で炊き込んだやつを食べたり、木耳と卵とキャベツを炒めたやつを食べたり、セブンイレブンの見慣れない飲み物をタバドリにして喫煙したり、シン・ウルトラマンのソフビを買ったり、シン・ウルトラマンのソフビを窓から射し込む夕日に照らしてDP2sで写真に撮ったり、隣町の図書館でアンゲラ・ゾンマー・ボーデンブルグの「ちびっこ吸血鬼」の本を三冊借りたり、それを読みながらドトールで昼寝したり、「くるぐる使い」を読み終えたり、「花束みたいな恋をした」を観たり、穂波さんに駅前でばったり会って彼の家で朝まで酒を呑みながらなぞなぞをしたり、穂波さんに駅前でばったり会っておれの家で朝まで酒を呑みながらトランプをしたり、澁谷ツタヤで「ウルトラセブン」を借りてきて観たり、スパルタローカルズ「セコンドファンファーレ」「悲しい耳鳴り」を聴いたり、スパルタローカルズの解散ライブの映像を観たり、LIGHTERS「Don’t worry」を聴いたり、Jack Stauder「Pop Food」を聴いたり、Workshopを聴いたり、木村カエラ「TREE CLIMBERS」を聴いたり、志ん朝の「茶釜」「高田馬場」「化け物使い」「百年目」「そば清」を聴いたり、The Marias「I Don’t Know You」を聴いたところで、“この感じだ“と思った。そこで捉えた感じがあった。
英語なので歌詞は読んでみても虫食いのようにしかわからなかった。翻訳をする気にはならなかった。意味が分かってしまうとしらけることもある。その予感が働いた。
“情報“なんかどうでもいいことがある。正体を説明できない方がいいこともある。マリアズのこともあんまりおれは良く知らない。ボーカルが女の子ということしかわからない。どこの国のバンドなのかも知らない。英語圏なんだろうけど。もろもろをすっ飛ばして、これが俺が写真集から感じたムードでは、あった。
そして、エネルギーの正体を考えることに終止符を打つために、この文章冒頭のことを書いた。あんなことは元から誰もが知っていて、そしてかめりささんという被写体を撮影したことがある人なら誰でも感じているであろう要素の一つに過ぎない。敗北だ。
だから書いてみたところでエネルギーの正体のことは依然おれの中で、イメージの域を出ない。出なくていい。なんだかこんな風に書いていること何もかも野暮に思えてきた。敗北だ。だけどそれでいいのかもしれない。
おれもかめりささんの写真撮ってみたいです。俯き白旗を振りながら申し上げます。
There’s weight in my bed
Where you laid and you said
I don’t know you
I don’t know you
If we tried to retrace
Would it show on my face
And remind you
I don’t mind you
But babe this isn’t right
But if you’d rather dry your eyes then honestly I’m fine
With keeping my trust in you
And making up if we tried
どんな人がどんなカメラで撮ってもどんな演出しても、揺らがないものがあるということだ。
撮影者を否定しているわけではない。撮影者の個性とはその先に枝分かれするものだ。
かめりささんの写真集を買った。
なんか最近SNSのタイムラインでかめりささんの写真を目にすることが多くて、そのどれもに、写真の良し悪しとはまた別の、一言では言いづらいエネルギーを感じていた。都度、これはなんだろう?と思っていた。それらを撮影した人は一人ではなかったのに、受像したエネルギーはどれも同様だったからだ。
エネルギーは渦を巻いていた。ちょうど絵の具を水の入ったコップに垂らしたときのようなイメージをしていた。
そして写真集を買った。知り合いの写真集を購入するなんて初めてだった。照れ屋のおれは本来そういうおれではない。
掲載されていた写真はおれがSNSで見ていたのとはまた違うタッチだったし、SNSで見ていたのとは少し趣が異なっていた。
しかしながら、おれはまた同様の渦を感じた。
少し調べてみたところ、この写真集は一日や二日でエイヤッと撮影されたものではないっぽかった。
雰囲気の異なる幾つかの、大まかに言えば章があるのはそういうわけかと納得した。
しかしながら、おれはどれもに同様の渦を感じた。
これはなんなのだろうと、あまり真剣になりすぎないよう気をつけながら、たとえば木耳とご飯を出汁で炊き込んだやつを食べたり、木耳と卵とキャベツを炒めたやつを食べたり、セブンイレブンの見慣れない飲み物をタバドリにして喫煙したり、シン・ウルトラマンのソフビを買ったり、シン・ウルトラマンのソフビを窓から射し込む夕日に照らしてDP2sで写真に撮ったり、隣町の図書館でアンゲラ・ゾンマー・ボーデンブルグの「ちびっこ吸血鬼」の本を三冊借りたり、それを読みながらドトールで昼寝したり、「くるぐる使い」を読み終えたり、「花束みたいな恋をした」を観たり、穂波さんに駅前でばったり会って彼の家で朝まで酒を呑みながらなぞなぞをしたり、穂波さんに駅前でばったり会っておれの家で朝まで酒を呑みながらトランプをしたり、澁谷ツタヤで「ウルトラセブン」を借りてきて観たり、スパルタローカルズ「セコンドファンファーレ」「悲しい耳鳴り」を聴いたり、スパルタローカルズの解散ライブの映像を観たり、LIGHTERS「Don’t worry」を聴いたり、Jack Stauder「Pop Food」を聴いたり、Workshopを聴いたり、木村カエラ「TREE CLIMBERS」を聴いたり、志ん朝の「茶釜」「高田馬場」「化け物使い」「百年目」「そば清」を聴いたり、The Marias「I Don’t Know You」を聴いたところで、“この感じだ“と思った。そこで捉えた感じがあった。
英語なので歌詞は読んでみても虫食いのようにしかわからなかった。翻訳をする気にはならなかった。意味が分かってしまうとしらけることもある。その予感が働いた。
“情報“なんかどうでもいいことがある。正体を説明できない方がいいこともある。マリアズのこともあんまりおれは良く知らない。ボーカルが女の子ということしかわからない。どこの国のバンドなのかも知らない。英語圏なんだろうけど。もろもろをすっ飛ばして、これが俺が写真集から感じたムードでは、あった。
そして、エネルギーの正体を考えることに終止符を打つために、この文章冒頭のことを書いた。あんなことは元から誰もが知っていて、そしてかめりささんという被写体を撮影したことがある人なら誰でも感じているであろう要素の一つに過ぎない。敗北だ。
だから書いてみたところでエネルギーの正体のことは依然おれの中で、イメージの域を出ない。出なくていい。なんだかこんな風に書いていること何もかも野暮に思えてきた。敗北だ。だけどそれでいいのかもしれない。
おれもかめりささんの写真撮ってみたいです。俯き白旗を振りながら申し上げます。
There’s weight in my bed
Where you laid and you said
I don’t know you
I don’t know you
If we tried to retrace
Would it show on my face
And remind you
I don’t mind you
But babe this isn’t right
But if you’d rather dry your eyes then honestly I’m fine
With keeping my trust in you
And making up if we tried
I’m hardly unsatisfied