2021/02/27

亀田梨紗写真集

 被写体の力、というものは、あって、しかもそれは一定量撮影者の個性に左右されない。
どんな人がどんなカメラで撮ってもどんな演出しても、揺らがないものがあるということだ。
撮影者を否定しているわけではない。撮影者の個性とはその先に枝分かれするものだ。
 
 かめりささんの写真集を買った。
 なんか最近SNSのタイムラインでかめりささんの写真を目にすることが多くて、そのどれもに、写真の良し悪しとはまた別の、一言では言いづらいエネルギーを感じていた。都度、これはなんだろう?と思っていた。それらを撮影した人は一人ではなかったのに、受像したエネルギーはどれも同様だったからだ。
 エネルギーは渦を巻いていた。ちょうど絵の具を水の入ったコップに垂らしたときのようなイメージをしていた。
 そして写真集を買った。知り合いの写真集を購入するなんて初めてだった。照れ屋のおれは本来そういうおれではない。
掲載されていた写真はおれがSNSで見ていたのとはまた違うタッチだったし、SNSで見ていたのとは少し趣が異なっていた。
しかしながら、おれはまた同様の渦を感じた。
 少し調べてみたところ、この写真集は一日や二日でエイヤッと撮影されたものではないっぽかった。
雰囲気の異なる幾つかの、大まかに言えば章があるのはそういうわけかと納得した。
 しかしながら、おれはどれもに同様の渦を感じた。
 これはなんなのだろうと、あまり真剣になりすぎないよう気をつけながら、たとえば木耳とご飯を出汁で炊き込んだやつを食べたり、木耳と卵とキャベツを炒めたやつを食べたり、セブンイレブンの見慣れない飲み物をタバドリにして喫煙したり、シン・ウルトラマンのソフビを買ったり、シン・ウルトラマンのソフビを窓から射し込む夕日に照らしてDP2sで写真に撮ったり、隣町の図書館でアンゲラ・ゾンマー・ボーデンブルグの「ちびっこ吸血鬼」の本を三冊借りたり、それを読みながらドトールで昼寝したり、「くるぐる使い」を読み終えたり、「花束みたいな恋をした」を観たり、穂波さんに駅前でばったり会って彼の家で朝まで酒を呑みながらなぞなぞをしたり、穂波さんに駅前でばったり会っておれの家で朝まで酒を呑みながらトランプをしたり、澁谷ツタヤで「ウルトラセブン」を借りてきて観たり、スパルタローカルズ「セコンドファンファーレ」「悲しい耳鳴り」を聴いたり、スパルタローカルズの解散ライブの映像を観たり、LIGHTERS「Don’t worry」を聴いたり、Jack Stauder「Pop Food」を聴いたり、Workshopを聴いたり、木村カエラ「TREE CLIMBERS」を聴いたり、志ん朝の「茶釜」「高田馬場」「化け物使い」「百年目」「そば清」を聴いたり、The Marias「I Don’t Know You」を聴いたところで、“この感じだ“と思った。そこで捉えた感じがあった。
 英語なので歌詞は読んでみても虫食いのようにしかわからなかった。翻訳をする気にはならなかった。意味が分かってしまうとしらけることもある。その予感が働いた。
 “情報“なんかどうでもいいことがある。正体を説明できない方がいいこともある。マリアズのこともあんまりおれは良く知らない。ボーカルが女の子ということしかわからない。どこの国のバンドなのかも知らない。英語圏なんだろうけど。もろもろをすっ飛ばして、これが俺が写真集から感じたムードでは、あった。
 そして、エネルギーの正体を考えることに終止符を打つために、この文章冒頭のことを書いた。あんなことは元から誰もが知っていて、そしてかめりささんという被写体を撮影したことがある人なら誰でも感じているであろう要素の一つに過ぎない。敗北だ。
 だから書いてみたところでエネルギーの正体のことは依然おれの中で、イメージの域を出ない。出なくていい。なんだかこんな風に書いていること何もかも野暮に思えてきた。敗北だ。だけどそれでいいのかもしれない。
おれもかめりささんの写真撮ってみたいです。俯き白旗を振りながら申し上げます。
 
There’s weight in my bed
Where you laid and you said
I don’t know you
I don’t know you
If we tried to retrace
Would it show on my face
And remind you
I don’t mind you
But babe this isn’t right
But if you’d rather dry your eyes then honestly I’m fine
With keeping my trust in you
And making up if we tried
I’m hardly unsatisfied



2021/02/25

花束みたいな恋をした

中央線の各駅にあるぼろぼろのアパートには必ず鍵がかかっていない部屋があって、なぜかといえば盗まれるようなものがないからだ。
夜になるとそれぞれの部屋の小さな窓辺で峯田和伸と麻生久美子が夜光雪を眺めている。
映画に出てくる中央線のアパートには、ベランダがない。外階段もない。一軒もない。
そしてそんな映画のなかで峯田が言っていたのはこんなセリフではない。
“みんなの中にも、きっと福満しげゆきは住んでる。
その福満はきっと言うだろう。「死なせてくれ!殺してくれ!」“
 
ともあれ「花束みたいな〜」前半を観ながら私は以上のセンテンスを思い出していた。
不思議なのは、そんなセンテンスはないし、私には別に麦くん絹ちゃんのような出会いも思い出も彼らのような青春への憧れもないのに胸が苦しかったということだ。
まるで呪術高専の東堂先輩だけど、カルチャーに恥ずかしい気持ちよりも息苦しさが優先されていた。理由はわからない。
 
物語が進むにつれ胸の苦しさは消えていった。召喚された福満は丸くなって眠った。
後半の方がずっと微笑ましく思った。素敵なカップルだという感想。
なぜか?
彼らが(最初から)最後までずっと両思いだったから。
終始口に出さずとも全く同じタイミングで全く同じことを感じていたから。
相手のことを素敵に思うことも、相手に不満を持つことも、相手に別れを決心することも、すべて全く同じタイミングである。
それは「恋」ではないしかといって「愛」ということではない。
ただお互いの自分の魂の片割れに出逢ったということだ。鏡みたいに。
安らぐにせよにせよ悲しむにせよ“そういう相手を持つ“ことは、奇跡的だし、素晴らしいことだと私は思う。
そう思うことに私はロマンを感じたいと思っている。
「奇跡は(映画の中では)起きる」と教えてくれている。
 
別れた二人が過ごした三ヶ月を、私は何より悲しくそして美しい日々のように思った。
飼い猫をどちらが引き取るかのジャンケン、他のどんな描写より二人が大人になってしまった切なさがある。
彼らのおしまいの三ヶ月こそ“あり得るはずだった/あり得たかもしれない/しかしもうあり得ないであろう“二人の日々だからだ。
 
ラストシーンで、一年位前に読んだ本の文章を思い出した。
それは悲しい運命を辿ることになるひと組の夫婦がまだ幸せだった頃に撮影された、彼らの肖像写真についての文章だ。
「この二人が悲劇的に運命づけられていながらも、なおそれとは違った未来への可能性のなかにおいても同時に捉えられているからこそ、彼はこの写真の二人に感動したに違いないのだ。人生の様々な可能性に向かって開かれたままの状態で結晶化している二人の姿に……。」
「この写真から、未来の出来事との連関によって意味づけられてしまうこと(運命としての悲劇)からも、当事者たちの現状認識によって意味付けられていたこと(婚約という幸福)からもこぼれ落ちてしまうような、あり得たかもしれない別の歴史の可能性(「未来における別の幸福」とでも言うべきか)を感じ取ったと思われる。実は彼の言う「想起としての歴史」とは、そのもう一つの別の未来の可能性、つまり果たされなかった革命の可能性を、過去の出来事の片隅に見出し、それを現在へともたらすことと言えよう。」
(引用:長谷正人「「想起」としての映像文化史」)
あの“画像“を発見した麦くんは笑っていた。
さよならだけがバッドエンドではない。
ふたりの心が人生が通うことはもうないとしても、奇跡は起こる。少なくとも映画の中では。