2023/12/23

パトリシア・ハイスミス「11の物語」感想

 職場に置いてあったキネマ旬報をペラペラめくっていると、ヴェンダース新作「PERFECT DAYS」の記事があった。その記事の中にこの本──とくに「かたつむり観察者」についての記述があり(どうやら映画の中で役所広司がこの本を手にするらしい)、それで興味を惹かれて読んでみた。記事の終わりに「読むのは勧めない」と書いてあったのも良かった。ヴェンダースがハイスミスの小説を自作の映画に登場させるのは合点がいく。「アメリカの友人」はハイスミスが原作(「贋作」「アメリカの友人」)だから(原作はアラン・ドロンで有名な「太陽がいっぱい」の続編らしいが関係ない)。

 図書館で借りて本を開くと、十一の物語の初っ端が「かたつむり観察者」で、おもしろく読んだもののあまりの生理的不快感でよっぽどもう閉じようかと思った。もしおもしろかったら買おうかなーと思っていたけど、どんなに面白くてもこんなキモすぎる話が載っている本買うのはよそうと決意して、次の「恋盗人」を読むと、うってかわって恋物語であったが、「これは俺じゃないかよ!」という胸の張り裂ける身体的な痛み──それはたとえるなら銀杏BOYZ「ナイトライダー」の歌詞からロマンチックさを剥ぎ取ったときの、自らに襲いかかる陰湿さの自覚……にまたも嘔気をおぼえ、「面白いけど買わない!」の気を強くした。この私の決意は、「クレイヴァリング教授の新発見」でいよいよ確固たるものになる。とかくキモチワリーー!!!!!!!!のである。未読の人のために内容は伏せるが、「またかよ!!!!!!」なのである。
 私は心配になる。ハイスミス女史はいったいどういうつもり、というか、どういう気持ちでこんな文章を書いてるのか?オエーーっとか自分でも思うのだろうか?それとも……。

 しかし、「ヒロイン」にぶちあたって、私は思いなおす。「この短編集を買わなければいけない。買って、手元に置かなければならない」。
なぜか?あまりにも面白すぎる。あまりにも!面白すぎる!エクスクラメーションマークで文節を区切るほど面白い。だけどわかって欲しいのは、私はこの短編集を面白がりたくなんかなかったということ。先にも書いたけど「どんなに面白くても買いたくない」みたいな、イヤヨイヤヨの気持ちで読んでいたということ。大嫌いになりたいのに、そんな気持ちは既視感があった。何かに似ていた。
あれだ!!「死ぬほど大嫌いな上司と出張先でまさかの相部屋に」シリーズである。何のシリーズなのかは書かないが、そういうシリーズというか、ジャンルがあって、べつだん好みでもないが、とにかくあの時の〈私〉の表情がおそらくはいま現在の私のそれだ。 実際、あらゆる表現の中から推敲した上で言葉をえらばずに書くか、私はこの本を読んでいるときになんというか小説におかされているような気分だった。私は人間の暗部、残忍さ、そして狂気を描く小説を避けるようにさいきんは読書をしていた。そういうものを否定したいのではなくて、今の私には、もっと明るくて、のんびりしていて、読む中で励まされる気分になることが必要であり、また志向していたからだ。暗くてキモいのなんか読みたかないよ、とそっぽを向く私にハイスミスの小説群は襲いかかってきた。私は恍惚としながら怯えていて、怯えている。こういう作品が好きだった、その自認から抗えなくなっている自分に。

 私はこの小説を手元に置くだろう。誰かに薦めることはよそうと思っている。それでも、私からもしもこの小説を勧められても、読まないで欲しい。私にまだ理性の残滓が残るうちの、これは忠告である。マジ面白いので読んだほうがいいよ。よかったら貸すよ。

2023/11/14

ラジオ「uniの映画、言わせてくれ!」




スタンドエフエムで配信されている映画ラジオ番組「uniの映画、言わせてくれ!」のアイコンイラストを描かせていただきました。

他のレビューとはひと味とふた味も違う映画感想は必聴です!


↓こちら↓

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2023/09/29

排気口×山河図コラボTシャツ

排気口と山河図のコラボTシャツが、排気口「時に想像しあった人たち」劇場物販にて販売されます。白/水色の2色展開、各10着ずつで限定20着です。限定20着なのは、プレミア感を出したいとかではなく、山河図の予算限界が“20“だったからです。売れないとやばい。どうかひとつ、よろしくお願いします!!!


「排気口×山河図コラボTシャツ」

⭐︎color:白/水色

⭐︎size:Lのみ(unisex)

⭐︎price:¥2,500-

⭐︎排気口「時に想像しあった人たち」劇場物販にて20着販売。

 →「時に想像しあった人たち」詳細ページ


CM

着衣画像



(model:蟹ひかり/ゴミでも食う)





2023/08/11

静谷静一「点滅症〜そのメカニズムについて〜」より抜粋

「点滅症」という奇病について


1.前提

1-1.明在系と暗在系

「明在系」および「暗在系」は、物理学者デヴィッド・ボーム(David Borm)によって『全体性と内部秩序』("Wholeness and Implicate Order")の中で提唱された考え方である。

ボームは同著の中で以下のように述べている。

われわれが五感を通じて知る世界は、いろいろな事物に分割され、部分化されているが、それらのものは暗在系に対する、明在系であり、明在系においては、外的に個別化され無関係に存在しているような事物は、実は暗在系においては、全き存在として、全一的に、しかも動きをもって存在している。」(訳:河合隼雄)


この世界は「明在系」と「暗在系」つまり視覚・聴覚といった五感で認識することのできる”視える世界”と、紫外線や超音波などに代表される”視えない世界”の二つに分けられる、ということである。(便宜的に”視える”という表現をしたが、”聞こえる”でも同様。感覚で認識できないという意味)

 視覚的なイメージで説明するならば、庭にチューリップの花が咲いているとき、その根元、土の下には視認できなくともチューリップの球根が存在する。このとき、我々が認識できるチューリップの茎や花弁は「明在系」に、球根は「暗在系」に属するとイメージするとわかりやすいかもしれない。(しかしこれはあくまでも構造をイメージしやすくする例であり、根元を掘り返せば球根は視認できるため、実際には明在系に属する。)



1-2.因果性と共時性

河合隼雄は『宗教と科学の接点』の中で以下のように述べている。

「自然現象は、その背景において、共時性の発生に関与する霊的(心の発生源的)な領域(ボームの言葉を借りれば「暗在系」)を共有していると考えられます。そして、とくに科学的な論理・法則によって割り切れる物理的な領域が因果性であり、科学的な論理・法則だけでは全貌をつかみきれない領域が共時性ではないかと考えます。」



共時性(共時性現象=シンクロニシティー=偶然の一致)は、心の深層部(「無意識層(潜在意識)」や魂と言われるもの)において発生し、スイスの精神科医・ユングなどによって研究された現象である。

ユングは『自然現象と心の構造』の中で、以下の様に述べている。

ある同一あるいは同様の意味をもっている二つあるいはそれ以上の因果的には関係のない事象の、時間における偶然の一致という特別な意味において、共時性という一般的概念を用いているのである。したがって、共時性は、ある一定の心の状態がそのときの主体の状態に意味深く対応するように見える一つあるいはそれ以上の外的事象と同時的に生起することを意味する。

つまり、ある心の状態、それと意味が一致する物的事象が同時的におきるということである。次に、同書から具体例を挙げた部分を抜粋する。

私が治療していたある若い婦人は、決定的な時期に、自分が黄金の神聖甲虫を与えられる夢を見た。彼女が私にこの夢を話している間、私は閉じた窓に背を向けて坐っていた。突然、私の後ろで、やさしくトントンとたたく音が聞こえた。振り返ると、飛んでいる一匹の虫が、外から窓ガラスをノックしているのである。私は窓を開けて、その虫が入ってくるのを宙でつかまえた。それは、私たちの緯度帯で見つかるもののうちで、神聖甲虫に最も相似している虫で、神聖甲虫状の甲虫であり、どこにでもいるハナムグリの類の黄金虫であったが、通常の習性とは打って変わって、明らかにこの特別の時点では、暗い部屋に入りたがっていたのである。

”ある女性”が見た”自分が黄金の神聖甲虫を与えられる夢”は心的事象である。

また 「彼女が私にこの夢を話している間、・・・明らかにこの特別の時点では、暗い部屋に入りたがっていたのである。」の一説で述べられた事象は、女性が夢の話をしている間に起きた物的事象である。

この例を見てもわかるように、ユングが定義した「二つあるいはそれ以上の因果的には関係のない事象」は、(物的事象が二つ以上同時におきることもあるが)まず前提として、常に心的事象と物的事象が対になっていることを指している。さきほどの定義にあるように、ユングは、この例の場合、心的事象(夢)と物的事象(昆虫の出現)が、因果的に関係ないと述べているのだ。


この章の冒頭で引用した河合隼雄の文章は、ことばの上では対立的もしくは並列的な印象のある因果性(ある原因がそれに対する結果としてあらわれるような性質)と共時性の関係について、ユングの考えに反した姿勢を示している。科学が一般的に「因果性がある」と認めているものごとの性質は、先の例で言えば「チューリップの茎や花弁」のようなものであり、私たちが認識していないところに、あらゆる現象の背景があるのではないか、というものである。つまり、因果性と共時性は併立するということだ。


2.点滅症

点滅症(Half Ghost syndrome)は自己の身体が他者の五感で認識できなくなる疾患、またはその疾が発症する症状の総称であり、本間血腫、先天性R型脳梁変成症などと並び世界三大奇病とよばれる。(三大奇病については諸説ある)

点滅症が世界ではじめて報告された症例は1870年のことであり、現在までに2万人程度の症例があるとされるが、遺伝もせず症因も判明しないことに加え、その特異な症状ゆえ治療法が見つかっておらず、また、点滅症を発症しても本人が症状に気づかないまま自然治癒することがある。


2-1.症状

点滅症最大の特徴は「他者が患者を認識できなくなる」という点にある。しかしその症状の持続時間は症例によりまちまちであり、またそれは”消滅”とは異なるとされ、他者が認識できない(=消えている)間も、患者が物理的に消えて無くなっているわけではない。


点滅症による身体への肉体的苦痛・状態異常はほぼないとされている。このため、点滅症を”病症”ではなく”現象”にカテゴライズするべきではないかという声もあるが、点滅症は伝染することがあると言われており、明確な根拠は認められていないものの、この点を”病症”の論拠とする医師は多い。しかしながら、伝染の媒介も発見されてはいない。


点滅症が奇病であり、また、明確な治療方法が発見できない大きな理由は、患者の症状が自己認識ではなく、他者に影響することで確認される点であろう。

つまり、たとえば無人島で点滅症を発症したとしても、患者自身は症状に気づかないことがある。




2023/07/20

太宰治「女生徒」(角川文庫版)感想

 角川文庫から出版されたこの短編集に収められているのはどれも独白体形式という共通項がある。そして、これは“小説“という媒体の多くにおける特徴でもあると思うのだけれど、語り手が登場人物の一人である場合、語られるのはすでに過ぎ去った時間についてのものだ。言い換えれば、語り手というのは常に語られる時間からして先の未来にいる。

①日記でもブログでもツイッターでもいいが、自分が体験したことを文章に書き残す行為の根底には、この世界の約束で現れたそばから消えていく出来事を自分の外側で保証せんとする意識があると私は思う。「それを誰かが読む」というのはいわば副次的な結果である。だから、この本の短編のすべてが、(テイとしてではあれ)誰か他人に宛てられた手紙だと前提するのは気が早いように思う。

②収録された短編の多くが、太平洋戦時下の時期についてのものだ。とは言っても、戦争を知らぬ我々が「太平洋戦争戦時下」と耳に目にして思い浮かべる末期佳境の時期ではないように思われる。もしくは、舞台となる土地や登場人物の環境が、戦況に影響薄く居られるか。そういった時期ないし環境を述懐している。

 上記二点を踏まえて、太宰治の というよりは編纂の結果としてこの小説群は「大きな出来事の起きる以前の時間」を、「それ以降に起きる大きな出来事」によって失われ尽くすことがありませんようにとの願いが込められているように私には感じられた。大きな出来事とは戦争に限らない。例えば、自殺。
 そして冒頭に書いた「語り手が現在立っている時間」というのも、「大きな出来事」の終わった後ばかりではないだろう。渦中もあるだろう。現状失われつつある自分の環境や思慕、しかしそれらがかつて確かに存在したことの証明として、過去を語る。語られる相手というのは、もしかすれば第一に自身なのもしれない。
 では、彼らが証明しようとした種々の光景だったりや想いはどのようなものであったか。共通するであろうことは「語られる過去の時間」の彼らというのが、未来の到来を心待ちしているということ。そしてその未来というのは特定の日付を持たない、漠然としているがむしろそれゆえ純粋な意味としての「未来」である。

「明日もまた、同じ日が来るのだろう。幸福は一生、来ないのだ。それは、わかっている。けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。」(「女生徒」)

「私は、ばかだったのでしょうか。でも、ひとりくらいは、この世に、そんな美しい人がいるはずだ、と私は、あのころも、いまもなお信じて居ります」(「きりぎりす」)

「貴下が、他日、貴下の人格を完成なさった暁には、必ずしもお逢いしたいと思いますが、それまでは、文通のみにて、かんにんして下さいませ。」(「恥」)

「いったい、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何もない。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。(中略)それではいったい、私は誰を待っているのだろう。旦那さま。ちがう。恋人。ちがいます。お友達。いやだ。お金。まさか。亡霊。おお、いやだ。 もっとなごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。」(「待つ」)

 「語られる過去の時間」の彼らが想像している未来は各々の状況に応じて異相を呈し、例えば悲観的な人物にとってそれは必ずしも明るいばかりではないのかもしれないが、どれも「大きな出来事」によって、待望は叶わなくなる。
 ここで私が連想したのは、ベンヤミンの「写真小史」における一枚の写真にまつわるエピソードだ。それは悲しい運命を辿ることになる一組の夫婦がまだ幸せだった頃に撮影された、彼らの肖像写真についての話。これについて数年前に読んだ長谷正人「「想起」としての映像文化史」から引く。
 「この二人が悲劇的に運命づけられていながらも、なおそれとは違った未来への可能性のなかにおいても同時に捉えられているからこそ、彼(引用者註:ベンヤミン)はこの写真の二人に感動したに違いないのだ。人生の様々な可能性に向かって開かれたままの状態で結晶化している二人の姿に……。」
 「この写真から、未来の出来事との関連によって意味付けられてしまうこと(運命としての悲劇)からも、当事者たちの現状認識によって意味付けられていたこと(婚約という幸福)からもこぼれ落ちてしまうような、あり得たかもしれない別の歴史の可能性(「未来における別の幸福」とでも言うべきか)を感じとったと思われる。実は彼の言う「想起としての歴史」とは、そのもう一つの別の未来の可能性、つまり果たされなかった運命の可能性を、過去の出来事の片隅に見出し、それを現在へともたらすことと言えよう」

 お分かりの通りこの感想文で使われていた「未来」という言葉は「可能性」と言い換えることができるだろう。戦争、没落、死別──それら「大きな出来事」によって待望された未来はその言い換えたる可能性を断絶される(断絶を示唆される)。ここに絶望というのはあって然るべきなのだがしかし、語られることの主眼には置かれない。ベンヤミンの心を打った「あり得たかもしれない別の歴史の可能性」とは、分かれ道に差し掛かる前の途上の切り抜きであるが、太宰治(というか語り手)もまたあくまで途上の切り抜きおよびその時点で感じていた可能性をこそ記述し、踏みとどまろうとする。なぜか?未来への待望を含む「消え去ってゆく現在の出来事」を自分の外側で“確かにあった“と保証せんとする意識が、書き残すという行為の根底にあるからだ。そして前述のうちでは結果的な副次としたが、これらの小説群は文字通り小説であるから、語り手もしくは書き手たる太宰治本人のさらに先の時間に、読者および読者の“小説を読む時間”が想定されている。“誰かに宛てられた“という感慨は、小説を小説と看做す我々読者の登場で初めて考えに及ぶことができるのだ。そして、語り手たちが保証し証明しようと努力した過去の時間というのは、書くという行為に端を発しながらにして、我々読者が読むことによって、我々の想起の中で完成する。大いなる力というか感慨をかんぜざるを得ないのは、小説とはそもそも単体では媒体の特徴としてしか過去性をその身に宿し得なかったはずということだ。小説というのはやはり、誰かに読まれた時に媒体を超えた時間の連なりとして出現するのか。

2023/07/07

トーベ・ヤンソン「ムーミン谷の夏まつり」感想

 結局のところ、かなしいことばかり考えてしまって、がっかりしてめそめそしてどうしたんだいの権化、ミーサ、もしくはフィリフヨンカが主人公であって、ムーミン一家はほとんど端役でしかない。ミーサの悲観とフィリフヨンカの孤独は似た趣があって、彼女らのかなしみもしくは寂しさが、演劇(=劇場という場所)に、文字通り見立てとしての人生や親類を設定することで視界が晴れる。演劇というものもしくは舞台という場所が、目に見えないもののために見立てられて存在しながらも実態として肉体を伴うというのは、たちかえれば儀式的・祝祭なニュアンスを構造に内包する(この本のタイトルは「ムーミン谷の夏まつり」である)。
 シャーマンの例をとるにおよばず、俳優の身体には自身とは別の人格が降霊され、自身とは別の人生を歩む。しかしそれらは、別の世界線や多層的なレイヤーを重ねることではなくて、あくまで俳優自身の人生の中の一部である。だから何かを上演することは、俳優の人生に影響を及ぼす。それで俳優が救われるというのは、演劇の効用として、正しい。

2023/07/03

川上弘美「光ってみえるもの、あれは」感想

「"ふつう"って何?」みたいな翠くんの中にうずまいている居心地の悪さに我々が向き合うにはとうに歳をとりすぎていて、だからそのことを語ろうとしても口から出るのは自分というものを世界から切り離して俯瞰のつもりで語る空想にすぎなくなるのだから、それを自覚できているだけいくぶんかましだとおしだまるのが吉。
 川上弘美という作家は私を含めた川上弘美ファン全員にとって自分の生活/思考様式の中で大きな位置を占めてしまう、いうなれば病のようなところがある、だろう。あるだろう。私の周りには何人か、好きな作家を尋ねたときに「川上弘美」と答える人たちがおり、そしてその人たちの書く文章というのは川上弘美のレプリカントであることが、本当に多い。川上弘美の書く文章というのは、かくも読者の中に侵入し、居座り、お茶なんか飲みつつ寝転がり、釜の飯を食い、そうやって、気づけば帰らなくなってしまう。影響下の文章というのはむしろ川上弘美の類稀なる独自性を強めるだけの効果しかなく、平易な言葉を(気づかずに)自分たちにも書けるぞと嬉しくなるそのヤバさ。私だって多分そう。
一人だけ川上弘美風の文章を書きながらにしてムカつかないというか、同時にその人自身の個性もあるから天才やんけと思う人がいるが、それは稀有な例であって、だから、川上弘美を熱中して読むのは、あやうい。←この「、」打つ感じが罹患のあらわれである。

 以上のように、川上弘美の作品を最高!と思いながら読むのは、最高!と思えば思うほど感想書くに危険な予感が孕むけれども、最高!と思ってしまっている自分を止められない。抵抗の余地をさがすとすれば、小説が描き出している「青春」だとか「ティーンネイジャーの不安定さ」を避けた、あんまり内容に関係ない、読書時間の中での私の心の躍動を書きつけることにしかないか。翠くんと花田くんのモヤモヤというのは対比されていて〜〜みたいなことを書きたくないのだ。書いてあるのも読みたくない。

 とにかく平山水絵!平山水絵!平山水絵!なのである。平山水絵が出てくるたびに、キターーーと思うのである。
 私はここ最近、「デート」っていう営みそのものについてかなり真剣に考えていて、たとえば友人と酒を呑みながら「デートっていいよね」「してみたいよね」「どこへいけばたのしいかな?」「なにをするのかな?」というようなことをダベっているのが楽しい。なんの予定もなくても、相手がいようといまいと、やはり何かについて真剣に考えてみることは楽しい。それがウキウキしたニュアンスのことであるなら尚更。そんな最近の私、いや俺、俺だから、平山水絵が出てくるたびに心のずっと奥の方が躍動をはじめ、ひらたくいえばキュンキュンし、頭の中のデートに唯一ぽっかり空いた空白である"相手"の欄に、その名を代入して愉快な気分なのだ。
 とはいえ、平山水絵は高校一年であるわけで、私が平山水絵とデートしたらそれは限りなく犯罪で、ていうか私は女子高生とデートしたいとは思わなくて、そういう嗜好にも嫌悪感があって、ていうか平山水絵は架空のキャラクターであるので、むしろだからこそこうやって楽しい気分に後ろめたさもなく、夢想のデートに男としての責任感も伴わずにいられるのだ。
いいな、いいな、私、いや俺、俺も放課後にコンビニで「アイス買ってきたよ、君の苦手なやつ」って言われたい。だけどちゃんと俺の好きなやつ手渡されて「そんな意地悪しないよ」って言われたいよ。
ずっと忘れないだろうな。相手が忘れちゃっても、俺は絶対忘れないよ。ステンドグラスの部屋で泣くとき、隣にいるよ。一人になりたかったら隣の部屋にいるし。たくさん手紙書くよ。たくさん手紙書いてよ。全部捨てないでとっておくに決まってるだろ。喫茶店で、俺はコーヒーでいい、俺に構わずホットサンドを食べてくれよ。好きな短編小説教えてよ。返す時に「すっごくよかったでしょ」なんて言われたら、屋上で、おれ、泣くよ。
好きな詩を朗読してくれたら、周りに誰がいても、一緒に暮らそうってその場で言っちゃうかもしれないよ。どうしたらいいんだ。俺たちも朝に見つけた透明な蜘蛛の巣なんだぜ。

2023/07/02

エマニュエル・ボーヴ「あるかなしかの町」感想

 1920年代のパリ郊外「べコン=レ=ブリュイエール」という町についてが淡々と描写されていく。──と書いてしまえばもうこれ以上この本について説明できることがない。むしろ説明できることが一瞬で済んでしまうというそのこと自体への感慨(のなさ)がこの本を読んでいる時に私の内側にどこからともなくたちあらわれ、輪郭を結ばないままゆれてざわめいた妙な気分に似ている。「あるかなしかの町」というのは邦題だが、まさにズバリのすごい題名だと思う。
 べコン=レ=ブリュイエールは実在するか否かみたいなことをあまり考える気にはならない。調べるのも薦めない。調べたところで、おそらくは実在し、しかしながら実在しないという一見矛盾した、しかし納得のいく(納得のいくというのはなんてつまらないことなんだろうかとこれを書きながら思い、また、この本に"納得のいく"要素なんて全然いらないとも思う) 結果が待っている。

 当たり前だがホラー小説ではない。不思議なことも起きない。だけどなんというか、私の読みながらの妙なざわめきというのは、たとえるならば「幽霊を読んでいる」というのが表現として一番近い。私は幽霊を見たこともないし、ましてや読んだことなんかないのだが、そう思う。
 "場所の記憶"というのがある。「地獄先生ぬ〜べ〜」の文化祭の回で扱われた石の記憶と同じ考え方だ。私は幽霊というもののメカニズムは「場所の記憶」で説明がついてしまうのでは?とつねづね思っているのだが、この本に書かれていることも、文章に直截あらわれているわけではないが、ともあれたちのぼるのは、場所の記録であり、記憶であり、やはり幽霊を読むという感触に至る。

 これを読んでて思い出した、内容に全然関係ないことを最後に書く。これは私の記憶について。
「あるかなしかの町」をなぜ読んでみようと思ったのかは思い出せないが、本屋で購入した年度は思い出せる。10年ほど前である。どこの本屋で購入したかも思い出せる。地元の最寄りから二ツ離れた駅前の本屋である。どうやって購入したかも思い出せる。書店員さんに取り寄せてもらったのである。私はその書店員さんに想いを寄せていたのだ。しかし、前述したが、なぜこの本を取り寄せたのかというのは思い出せない。どこの本屋でという場所は分かるが、その本屋の名前は思い出せないし私が地元を離れてからすぐに潰れてしまったからもう店名も分からない。想いを寄せていた書店員さんの名前も顔も思い出せない。私が思い出せることといえばあとはもう、この本を取り寄せてもらったはいいものの書店員さんとのそこから先の展開などなく、また、買っておいて10年ほど経つのにこの本を読んでなかったということで、だから、私の記憶というのはあってもなくても意味がない。あろうがなかろうが本棚に「あるかなしかの町」があって、読んだ。もうこれ以上この本について説明できることがない。

2023/07/01

ロバート・A.ハインライン「夏への扉」感想

 あらかじめ申し上げておかなければならないのだが、私はSF小説を全然読んだことがない。読んだことがあると言ってもせいぜい──「読んだことがあると言ってもせいぜい」と書いたものの、何一つ思いつかない。ゼロってこともないのだろうが今この時点で「あれはSF小説であろう」と看做せるタイトルが一つも浮かんでこないし、わざわざ遍歴を紐解いて検証するに見合う成果が得られないのはわかりきっているので、やめる。何かを思い出すまで、「夏への扉」が私の初めて読んだSF小説ということで、もう、いい。
 私がSF小説に疎いのもべつだん苦手意識があるとか忌避してきたということではなくて、単純に他人から薦められた本の中にSFジャンルがなかったであるとか、図書館でてきとうに棚から引き抜いた本のジャンルがSFではなかった、程度の意味しかない。苦手と思うにも素地が要る。チビだった時分に読んだたくさんの絵本や児童向けの物語の中には、きっとSFだってあったろうと思う。小説に限らなくても今マジで「ドラえもん」しか思いついていない。SF(すこし・不思議)でも良いのならばであるが。
むしろというか、だから私にとって「夏への扉」は非常に幸福な出逢いで、今まで誰からも薦められなかったSF小説を人に薦めてもらったことに私は大きな意味を感じる。出逢いがなかったことは「その程度の意味しかない」という言葉で済ませられるが、出逢えたことにその言葉を使うことはできない。アンフェアであろうと私は私の嬉しく思うことを贔屓していく。

 ちょっと調べたところによれば「夏への扉」は世界中の読者に支持されながらも評論家だとかSF専門家にはそこまで支持されていないとのことだが、私はいち読者であるし前述の通りSF初心者でもあるから、「夏への扉」についてSFとしていかがなものなのかという分析はできないし、また興味もない。私はとにかく「おもちおーい」と、ピノコか未就学児みたいな語彙で、つまりフレッシュ!フレッシュ!フレッシュ!な気分で小説を読んだ。以下にだらだらつづける文章は、だから全文それを踏まえている。実際に松田聖子も聴いている。いま。
 資料によると「夏への扉」は1957年に発表された。舞台は1970年であり、また2000〜2001年ということになるが、つまり(2000年はともかく)1957年から展望する“1970年“というのは、フィクションでありながらもある程度こうなる可能性のリアリティを読者に違和感なく感じさせたということか。私がそれを面白いと感じるのは、コールドスリープもハイヤードガールもダン製図機もタイムマシンも発明されなかった1970年や2000年を経過した2023年に生きているがゆえではあるのだろう。私はその“結局小説のような未来にはならなかった”ことを、好意的に思う。そこにはニヒリスティックや冷笑を伴わない。小説は(そうなるかどうかはともかくとして)予言書ではない。ハインラインだってそんなつもりはないはずだ。いかに描写にリアリティを伴っているとしても、作者は「こんなこといいなできたらいいなあんなゆめこんなゆめいっぱいあるけど」の精神で未来を小説にしているのだと思う。これは「夏への扉」が図書館のY.Aコーナーにあったことから、「ドラえもん」の引用にいささかの後ろめたさもなく言える。1957年のアメリカは冷戦下であり、世界大戦直後から始まった核爆弾をめぐる国際的緊張の中にあった。国内の暮らしは(作品内の“1970年“にもあるように)家庭用電化製品や自動車の普及で中産階級にとっての利便が安定したとも言えるが、それは裏を返せば格差の拡大が如実であったということだ。そういう、おだやかさと殺伐さが表裏一体となっていた時代のムードにあって、社会的な小説を発表していたハインラインが情勢を度外視して「夏への扉」を書いたとは、私は思えない。それは小説の冒頭と結末を読めば自然に感じられることだ。ハインラインが「夏への扉」で描いていることは、清濁混じるかりそめの安寧の中にあって時代に流されずに明るい未来を想像し行動するということだろう。表題されている“扉“というのは、この小説においては(後半の展開も鑑みるに)“可能性“とかそういうものを表しているのだろうが、11+1つもある扉のどれかが夏に通じていて、尚且つどれか一つしか開けられないわけではなくて、あくまで“どれか一つが夏に通じている”と言うにとどめるというのが、グッとくるじゃあないですか。主人公は会社を仲良しの男と設立したけれども、嵌められて失敗するわけで、しかしながらもう一度会社を設立するに至る。嵌められた時と同じように、仲良くなった男を信用する形で。もしくは結婚に至らず終わった恋を、今度は結婚の形で。この形式上の反復がすごく大切で、たとえば「痛い目を見たから今度は一人で」などと主人公が思ってしまうのでは、“失ったものを取り戻すために過去に戻ってやり直す“という、タイムトラベル形式の構造をなぞるにすぎなくなるし、もっと言えば、「一度失敗してしまったら、それは結局繰り返されてしまうんだ」という厭世観みたいなものを読者の無意識に教育することになってしまう。そうではなくて、違った状況でありながらも同じ形式で反復させることこそが、「過去の失敗は取り戻せる」ことに通じる。タイムマシンもコールドスリープも存在しない現実を生きるY.A読者層が11+1の扉を、一つ二つがダメだとしても、それでも夏に通じるまで何度でも開け続けるために。何度だってやり直せる。そんなのって現実的じゃないぜと誰かが嘯いても、私は私の嬉しく思うことを贔屓していく。クーラーで冷やされた部屋の扉を開ければ、ついこないだまでは寒かったのに、今度は夏に通じている。

2023/06/16

トーベ・ヤンソン「ムーミン谷の彗星」感想

・調べたところによるとこの小説は1946年に書かれた初版を1956年に改訂し、さらに1968年に三訂されようやく完成したらしい。私がこれまでもこれからもそして今まさに書かんとしている文章も、パブリックな力を持ったりや作者の意図への正確な責任を考慮しない つまりはただの「いち読者の感想文にすぎない」という前置きをするために、この1968年版(三訂版)についての不思議な感慨を先に書く。
 この小説は彗星に比喩される“世界の終わり“がモチーフとなっているが、そのモチーフを思ったときに安直に私の心に浮かび、読書後に真っ先に聴いた音楽がある。なんであろう、ミッシェルガンエレファントのデビューシングル「世界の終わり」である。安直というのは既に告解している。
歌詞を一節引く。

 世界の終わりがそこで見てるよと
 紅茶飲み干して君は静かに待つ
 パンを焼きながら待ち焦がれている
 やってくる時を待ち焦がれている
 世界の終わりはそこで待ってると
 思い出したように君は笑いだす
 赤みのかかった月が昇るとき
 それで最後だと僕は聞かされる
 世界の終わりはそこで見てるよと
 紅茶飲み干して君は静かに待つ
 パンを焼きながら待ち焦がれている
 やってくる時を待ち焦がれている

「ムーミン谷の彗星」を読まれた方は、なんというか奇妙な、そして微妙な類似性を感じるのではないでしょうか。私にはこの曲の歌詞と小説とを関連させて感想文を展開させるほどの思惑も技量もないのだが、なんか似ているというか、私が「ムーミン谷の彗星」を読みながらこの曲を思ったというのが確信を欠きながらも、しかし提出せずにはいられない感慨なのである。“セカイノオワリ“という音だけならば、「Dragon Night」でもいいものなのに。不思議だね。
またこのミッシェルの歌詞は冒頭に「悪いのは全部 君だと思ってた」とあるが、これは小説の中でスニフが何度も口にするぼやきでもある。不思議だね。
 こじつけと言われればそれまでで、申し上げた通りこれ以上の展開はないが、私の感慨を担保する余計なトリビアをもう一つだけ。
ミッシェルガンエレファントのボーカル・「世界の終わり」作詞者であるチバユウスケの生まれた年というのは、完成版の書かれた1968年なのである。不思議だね。前置き終わり。



・「ムーミン谷の彗星」は、題の通りムーミン谷に彗星が落ちてくる、それまでの数日間の物語である。ムーミントロールとスニフは、宇宙の広大さと自分達の存在の軽さを哲学者に吹き込まれ、宇宙の広さを知るために天文台へ向かう。その道中で出逢ったスナフキン、スノーク、スノークのおじょうさんらと、彗星が地球に衝突する日までに家へと戻ろうと冒険する、というのが大体の筋であるが、感想文で筋を説明したところで意味なんかない。これは私が今、自分で自分に改めて小説を確認させるために書いた。

 彗星が衝突するとどうなるのかというと、地球は壊れ、自分達はぐちゃぐちゃになって死ぬ。アニメやなんかに因るパブリックイメージとしての「ムーミン一家」の物語とは随分毛色の違う印象があり、常に差し迫っていく制限時間とそれへの不安やぼんやりした恐怖が小説には通奏している。
 しかしながら、私がこの小説に最も感動したのは、冒険物語としての面白さだったりや、スナフキンの言う「冒険物語じゃ、必ず助かるんだ」というメタチックな予言および希望が前面ではなかった。そういったストーリー全体が言わんとしていることよりもむしろ、世界が段々と終末に向かって不穏さを増していく状況にあって、初恋に直面し浮かれまくる主人公ムーミンとスノークのおじょうさんら二人のイチャイチャこそが、私の胸を揺さぶったのだ。
ひたすらに浮かれつづけるのは二人だけである。スノークのおじょうさんの兄であるスノークやスニフ、スナフキンら旅の一行メンバーは、とぼけてはいてもそれぞれ彗星に現実的に恐怖し、また避難を志向している。その避難先として無根拠ながらムーミン谷を目指している。しかし、ムーミンというのはそれとは違って、一発で大好きになっちゃったスノークのおじょうさんを単純に自分の家に招くために家路を急いでいるのだ。ママにケーキを作ってもらうぜとか言っているのだ。どう考えてもそんな場合ではない。世界の終わりはもう目の前で、世界が終われば二人にだって未来はないはずなのだから、二人の未来のためにも勇敢にならなければいけないはずではないか。と、あまりにも見せつけてくれるカップルを見て、ないし疲弊と苛々を募らせていく他のメンバーの背中を省み、私は考えたが、「本当にそうだろうか?」という思いが湧き上がってきた。

 私たちはいつか必ず死ぬ。世界はいつか必ず終わる。
 生まれてくるということ、今ここに存在することは、“いつか必ず終わりが来たる”という、世界との約束をしているからこそ成り立っている。私たちは有限な時間の中で、ときに死に怯えながらもほとんどは約束の期日を意識せずに過ごしている。明日突然死ぬかもしれない。いつかやってくる約束の日の“いつか”は、私たちの都合を考慮してはくれない。
 であるならば、私たちもまた、世界の都合を考慮することなんかないとも言える。来年、来月、来週、明日に死ぬとしても、今日誰かを好きになってもいい。好きになったコとダンスを踊ったっていいのだ。私は恐怖や不安の克服・回避に反対しているわけではない。恋に代表される人生の歓びとは、TPOに関係しないのだと言いたいのだ。なぜか? 私たちは人生を楽しみ、歓び、幸せになるために生まれてきているからだ。そのことだって、世界との約束に含まれているのだ。

 私が感じた上記のことは、私の志向であり、そして私の出逢ってきたすべての人への祈りでもある。
トーベ・ヤンソンは、女性の社会地位の不安定さや当時のソ連との長い戦争からの敗戦の痛み残るフィンランドでこの児童文学を書いた。
児童文学の本懐とは、明暗の点滅する未来をこれから歩みだす子どもたちに対して人生の豊かさを保証するところにあるはずだ。

2023/06/15

J.M.クッツェー「恥辱」感想

 序盤で、ブレイクの預言詩(プロフェシー)からの引用「なさぬ望みを胸に抱えているより、みどりごはその揺籠で殺めよ」があり、最近大江健三郎読んでた身としては──というか『個人的な体験』の主題というのはこの詩この箇所であったから、まるで読書という行為によって別の本が引き寄せられたかのような錯覚をおぼえた。そうでなくともこの小説にある"犬"および"犬殺し"というモチーフは大江のデビュー作『奇妙な仕事』に通じているわけで……なんというか……南アフリカの作家が書いた小説を読みながら日本作家を感じるというか……つまり……こう……ジュディ・オングが歌うところの"Wind is blowing from Aegean"というか……"好きな男の腕の中でも違う男の夢を見る"というか……"Uh Ah, Uh Ah"っていう言語外の気分になった。

 原理として気分というのは言葉にならない。"気分"でなくともいい。"感覚"でもいい。 言葉というツールは人間が利便性と効率のために創造したにすぎず、気分だとか感覚だとかいうのは犬にだってある。山羊にだって羊にだってある。それでは"恥辱"というのはどうか。これも人間特有ではなく、おそらく動物にもあるだろう。本当にそうか?

 主人公のデヴィッド・ラウリーは都会で暮らし、年齢を鑑みれば過分な性生活をしている。大学教授の職にありながら、甲斐を感じず、オペラの執筆を夢想している。読み始めた当初はシンプルに胸糞悪いジジィめとだけ思っていたが、スキャンダルで査問会にかけられるシーンでのデヴィッドの行動はそれまでの読者の抱く認知と外れたしらこい態度になっている。それは老成や達観もしくは諦念というよりは無関心であり、とにかく更生をしないというその一点の執着によって支えられている。しろよ。と思うし、田舎の娘を訪ねた彼がかの査問を「恥辱」と看做したことには違和感がある。恥辱とは査問会のメンバーが彼に強い、しかし成せなかったことだ。
それをして恥辱とは、文字通り厚顔無恥であると私なんかは思う。ある種の倫理的欠落によって恥辱を免れたデヴィッドは、しかし彼の(おそらく)教養に立脚した社会性への無関心よりもさらに厳格な「田舎の現実主義」に敗北する。田舎における現実主義とは、自然およびそこに生きる動物たちの摂理である。弱肉強食があり、食物連鎖がある。生きるために屠殺があり、存続のために搾取がある。そこには理想や希望ないし絶望という目に見えないものの介在する余地はなく、ただただ生命がその原始的な本能に因って活動するひとくさりの時間と事象だけが連続する。
 デヴィッドは娘宅への襲撃に端を発する田舎の現実主義に対して、今度こそ"恥辱"を味わうことになる。SNSなどで小説の感想を眺めていたら彼の怒りはお門違いであるなぜなら彼もまたレイプまがいの性的搾取を行使していたんだから!というのがあったが、娘宅への襲撃における強姦と、デヴィッドが都会で行なっていた性生活は前提の俎上が異なっている。デヴィッドが行っていた買春や教え子との姦通は、そのどちらもが資本主義的もしくは権威主義的な立場の上下関係において行われている。だから端的にセクハラであり性暴力である。田舎において行われる襲撃と強姦は、田舎の現実主義のもと"厳格に"行われており、だから襲撃者たちは被害者に対して"怒りをおぼえながら"暴力を振るったとされている。つまり田舎の現実主義の前に倫理や法律という都会の視点を持ち込んだところで無意味なのであり(逆に都会ではそれが絶対のものとしてあるのでデヴィッドは裁かれるわけで)、その、都会の倫理観が田舎の人々たちの意に介されないことこそがデヴィッドの恥辱の本質なのだと思う。都会と反りが合わずに半ば意識的に離脱した彼が田舎に排斥される。宙ぶらりんな状態で不満と怒りは募っていくだろう。

 小説の裏書に「没落する男の再生」というようなことが書いてあったが、この小説における"再生"とは何か。
人間性を取り戻すことが再生なのだとしたら、ある意味ではそれは叶っているのかもしれない。上述の「田舎の現実主義」の前に、カッコつけた無頼のそぶりが打ち砕かれて、自分はどこまでも資本主義的ないし権威主義的であったと無意識であれ打ちのめされるということか。しかしながら、「再生」がこの小説の着地点に据えられていると前提すれば、彼の消極的な都会的倫理観のめばえというのは結末ではない。ゆえに再生とはおそらくこのことではない。小説の結論としての再生とは、都会的倫理的から本格的に脱され、つまりもう二度と、都会で通用する"人間の心"みたいなものを取り戻せなくなるまで自然に回帰することだろう。愛着をもった三本足の犬を、愛着を持ちながらにしてなんの感慨なしに屠殺する。「犬たちに分からないのはあの部屋の奥で何が行われているか」と書いてあるが、本質においてデヴィッドも分からなくなっている。生命を奪うことや暴力を振るうこととは、そこに大いなる意志が介在するものではなく、もっとあっけないただの事象である。この小説では自然回帰を「犬(のよう)になる」と表現している。犬が動物の象徴というのはおもしろいと思う。犬とはそもそも太古、人間によって、人間にあわせて改造された動物だからだ。人間のためにつくりあげられた犬をして、人間の対極に比喩されている。ここにはねじくれた冷笑がある。私はそう思う。それゆえに、まだ私は都会的倫理観のしもべたる人間であると自分で思うが、クッツェーからすれば未熟と看做される状態なのだろうか?

2023/06/04

大江健三郎「新しい人よ目覚めよ」感想

・鶴見俊輔による解説の中の以下のセンテンスがこの連作短篇における大江健三郎の祈りの核と思う。

 詩は定義する。読者にとって、そのように詩をうけとる時がある。詩の定義の仕方は、数学が定義する、自然科学が定義する、社会科学が定義するのとは、ちがうはたらきで、この言葉をもってこれから生きてゆけば、この領域での経験に関するかぎり、これでやってゆけるという予感をあたえる。



・「怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって」の中に、今まで小説を読んでいてあまり感じたことのない類の感動があった。それは動揺と言ったほうが正しいかもしれないほどになじみのない心の揺れだった。当該シーンは、いつか来たる自分たちの死について長兄のイーヨーに咎めた言い方をした両親に対し、イーヨーの弟妹が反撥するという箇所で、弟が次のように言う。

「──イーヨーは、人指ゆびで、まっすぐ横に、眼を切るように涙をふいていたよ。 ……イーヨーの涙のふき方は、正しい。誰もあのようにはしないけど……」

このセリフの良さ、いやセリフじゃなくて、この切実な想いとイーヨーの泣き方を見て「正しい」と弟が看做すに至る根拠というのは、おそらく「言葉」とか「論理」の外側にある。言い換えれば私たちの外側にある世界の理のようなものに感応したということかもしれない。いやこんなふうに分析というか言及すること自体があまり良くない。この良さ。言葉にできない良さが強烈にある。私はここに、かなり興味がある。

2023/05/12

アニー・エルノー「シンプルな情熱」感想

 紹介文に「その情熱はロマンチシズムにはほど遠い、激しく単純で肉体的なものだった」とあって、さぞエロいんだろうと思ったが別にエロくなく──いや……!今「別にエロくなく」と書いた途端に「いやエロいな?」と思い直した。そしてこの感じ直したエロさというは何かというのを考えた時に、冒頭の紹介文への違和感が立ち上がる。筆致に即してべつだん過激な性描写があるわけではないこの小説に私が感じるエロさというのはおそらくロマンチシズムに由来しているからだ。そこでロマンチシズムとは何かということを考えてみるが、この「ロマンチシズムとは何か?」というのを考えることこそがおそらく私の「シンプルな情熱」という小説自体への感想文に代替すると予感する。
 ロマンチシズムもしくはロマンティックとはいかなるものか。まず安直に浮かぶのはそれが目に見えないということで、しかしそれこそがおおよそ正解であるようにも思う。ここでいう目に見えないというのはたとえば客観を排してるとか物質的な質量をもたないとかに言い換えることが可能ということだが、しかし"存在しない"とか"肉体的でない"というのとは違う。
 いかにとっぴな妄想であれ、夢想であれ、(この小説にある)回想であれ、それらが頭に浮かんでいる状態には肉体性が伴うと私は思う。だからたとえば性欲にかられた妄想によって自慰行為ひいては現象としてのオルガスムは起きるし、楽しい夢想で頬が緩み、悲しみの想起で落涙する。私が定義するロマンチシズムというのは直截な意味での"甘美"のムードを必要としない。どんな種類の妄想夢想回想であれ、その想像行為自体によって身体に引き起こされるのは陶酔であって、また陶酔はえてして甘美なるものだからだ。つまり想像とはそもそもが甘美なのだから、"妄想夢想回想のうち甘美なものをロマンティックとする"という前提を私は無意味に感じる。

 「シンプルな情熱」が"激しく単純で肉体的である"というのはその通りだと思うが、しかしロマンティックでないというのには以上の点から懐疑的なのである。"激しく単純で肉体的でかつロマンティック"なのである。そしてその、直截的ではなくあくまで"現在そうではない肉体"が、恋情にまつわる回想を意識に巡らせているという、二重のレイヤーを一つの身体に宿らせている複雑な状態(a)は、単純な性描写(それは肉体と意識が同時性を持っている)が続くポルノ(b)よりもずっと、グッと匂い立ってエロい、と私は思う。なぜグッと匂い立ってエロいのかについての説明は野暮というか、(a)の方が(b)よりエロいことを語ることは遅かれ早かれ嗜好の問題になってしまうから割愛する。わかんなきゃわかんないしわかるならわかる。嗜好はいつも言葉を超越する。
そしてグッと嗅ぎつけエロがりつつ、「いまここに無い時間/いまここに在る時間」が重なることも交わることもなくしかしひとつの制限領域の中で同時に存在しているというのが、この小説に私が最も惹かれた点だった。

 この小説には以下の四つの時間のレイヤーの存在を私たちに知らしめる。
① 「私」がAと逢瀬を重ねた、"書いている「私」が回想する時間"。
② "①を想起しこのテクストを書いている「私」の現在時間"。
③ ②から数年後の、"②を読み返して①を想起している「私」の現在時間"。
 そして、
④ 小説の出版から時を経て今まさに「シンプルな情熱」を読みながら、"①〜③を追体験的に想像している読者の現在時間"。

④というのはそもそもすべての文章を読む時に発生するのだが、この小説に於いては他の読書体験よりも強くこの④の時間が意識にのぼってくる。それは〈①←②←③〉というそれぞれの時間からの視線によってこの小説が構造されているからで、作品内でもうっすら言及されているが小説が読者によって初めて成立するものである以上、①〜③へ我々読者が矢印を向けるという自覚は必然の浮上である。

 こうした逆流の視線構造はそもそも想起の構造であるのだが、アニー・エルノーが「シンプルな情熱」で描いているのは想起構造の具体例に終わらない。むしろ、かつてあった時間が失われないために書き留めた頁群を読み返すことが、皮肉にも現在という時間が経年によって過去と分断されてしまったという苦痛を実感させる要因になるところに本質がある。この苦痛は苦痛と言いながら痛みを伴わず、文字にすれば矛盾するようだが、だからこそ逆説的な苦痛になるのだ。露骨に提示された想起構造はこの苦痛によって反転し、結局時の流れというのは不可逆であって、あんなに痛んだ傷も知らず知らずのうちに回復するというような当たり前の時間構造こそがゆるぎなく出現する。撮影された傷の写真を見返すことは、瘡蓋のとれたつるつるの肌にもうその傷がないことだけを思い知らすのである。
こういった自罰叶わぬゆえに感傷的になり得ない苦しみが文体の簡潔さに表象されていると私は思うが、それを以って「ロマンチシズムにはほど遠い」とするのは、前述にさんざ書いた理由から、私は違うのではと思うのである。
私たちには明日を生きるために過去を思い出せなくなっていく機能が備わっている。しかしどれだけ思い出せることの解像度が低下しても、過去はなかったことにはならずまた忘れ尽くすこともできない。

「感傷的になり得ない」という感傷は存在する。
昔の恋とはその代表で、「シンプルな情熱」が昔の恋についての小説であるいじょう、ロマンティックでないわけがない。

2023/03/06

木村美月の企画『幽霊塔と私と乱歩の話』感想

 昼くらいに下北沢の駅で待ち合わせして、ヴィレッジヴァンガードに行って、値段だけ高い変な椅子とか見て、ディスクユニオンで好きなレコードを安く買って、カフェでメシを食って駅の周りを一時間くらいぶらぶらしたんだけどもうそれで吉田は飽きたみたいだった。俺は序盤から飽きていた。ヴィレッジヴァンガードは俺たちがあと十年も若ければ目を輝かせていたのかもしれないけど来るのが十年遅かった。楽しいって気持ちも齢をとる。それは恋する気持ちもおんなじで、俺は吉田のことが好きだし吉田も俺のことが好きなんだろうけどガキの時分に彼女が俺に向けてた眼差しに比べて今の視線には皺が刻まれているのを俺も知っているし吉田自身も多分自覚している。それでも俺たちはわざわざそういうのを確認するようなことはしない。皮肉なのはそれこそが齢をとった証明であることだ。

 もう帰ろうかなんて言わなくても俺たちは駅の方に向かって歩いた。だけど吉田も、もっと言えば俺が「ちょっとあまりにも無味かもしれねー」という気分で、しかしどうしようかというときに「楽園」という劇場が目に入って、そこでこれからお芝居が始まるということが書いてあって、だから俺は吉田に「ちょっと観ていかない」と言ったのだ。齢とったとはいえ俺たちも実のところまだ若いのかもしれないと思いながら、吉田と一緒に地下の会場へ続く階段を降りる。

 お芝居は、校舎の地下で誰にも内緒で友情を育む若者と清掃員のおじさんが、数年後に再会し、謎の男も巻き込んで街に突如現れた不思議な屋敷を探訪する、というようなすじだった。文学的な語り口になるのかなと思っていたが後半なんかは映画でいうところの活劇のジャンルで、しかし文学的な着地をする。ここでいう文学というのは、さっき書いた語り口としての文学的とは少しニュアンスが違う。小説でなくともいいが、何かを読むという行為は、それ自体が、かつてあってしかし今ここにはない過去というひとくさりの時間を現在の中に出現させることで、紙に書き付けられた文字はそれひとつひとつでは意味をなさないが連なることで大きなものに変貌する。今書いたことが文脈というより構造として物語の中におさまっているようなお芝居だった。そしてその大きなものは、だからその性質上必然的に物語の中で帰結するのではなくて見ている観客っていうかたとえば俺の中に染みこんできて共振し変容した。変容したのは、俺がである。

 ここだけの話俺は少し泣いてしまったんだけどもそれはなんていうか感動したというのともちょっと違う。俺がお芝居を見ながら考えていたのは、お芝居の中の登場人物たちではなくて俺が吉田と出会った頃、つまりは小学生の頃のあいつらのことだったのだ。

 今となっては思い出すことはもうほとんどなくなった。吉田は、俺に比べればまだそんなことないとは思うが。吉田を含めて五人の小学生の俺たちは幼稚な冒険を何度もしたし、夜中の学校に忍び込んだりもした。ずっと一緒にいた気もするけど、それでも鳥瞰すれば小学生という限られた期間の短い付き合いだった。今頃どうしているんだろうかと思わなくもないが、会いたいわけではない。同窓会は開くことも開かれることもない。本当ならお芝居から想起するのは大学生の時分であって然るべきだが、隣に座る吉田が俺に小学生の時代を選ばせたのだ。

 劇場を出て吉田が伸びをして「面白かったねえ」と笑ってから、すぐに俺の様子に気づいてどうしたのと顔を覗き込んできた。俺がわかりやすいのかとも思うけど、吉田が俺をよくわかってるんだろう。大概のことには気づけないと自認する彼女がそれでもこれだけは誰にも負けないと矜持を持つのが、俺の表情の機微なのだから。俺は観念して観劇中に考えたことを白状した。吉田はひとしきり「スゴーイ」だの「私普通に面白く観てただけ〜」だの言ってから、ちょっと黙って、口を開いた。

「それじゃあさ、あなたもあのお芝居みたいに、昔のことを書いてみたら?」

「そんなの書けねえよ、俺は小説家じゃねんだし」

「別に小説家になれってわけじゃないよ。私が読みたいだけなんだから私に向けた長い手紙だと思って書けば」

「長い手紙ねえ……

ぶつくさ言いつつ、俺はそれもいいかもなと思う。俺たちは齢をとる。あんなに必死だった冒険を、俺は幼稚と形容するようになった。こうしてふたりしてダラダラ過ごした今日のことも、十年後の俺たちが思い出してくれるとは限らない。思い出せなくなるのならまだいい。思い出してもそれが他人事のように感じる距離のひらきが恐ろしいのだ。


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 それからというもの、彼は自分の部屋で何事か懸命に書くようになった。小学生の頃のことを書くんだと言っていたけど、私はまだ読ませてもらっていない。読んだら私も色々思い出すだろうか。彼はどこまで憶えているんだろうか。そう考えると少し笑ってしまうけど、そのあといつも寂しい気持ちが私に残る。振り返れば思い出はいつもきらきらかしら。

 小学生の頃、私はずっと体半分たのしかったけど、もう半分は苦しかった。彼にはずっと好きな人がいたのを知っていて、それは私じゃなかったから。今はどうかわからない。だけどそうじゃないとも言い切れない。あなたの気持ちを量るのが得意だなんてさんざ言ってきた私だけど、深いところは私、本当は分からないんだよ。

 彼が出かけているときに部屋の掃除のはずみで、机の上に散らばった書きさしの文章をチラリと盗み見てしまった。ちゃんと完成するまで読むつもりはなかったから、表紙?のところだけ。題名はなかったけど、なぜか署名があった。何の気恥ずかしさなのか、本名じゃなくてペンネームだった。【江戸川乱歩】と書いてある。江戸川乱歩って、あの日私たちが観たお芝居に出てきた名前と思ったけど、すぐにそうじゃないと私は気づいてしまった。「江戸川」は彼の苗字。「歩」は私の名前から採っている。それでおしまいにすればよかったけど、知りたいことこそ分からないくせ、気付きたくないことばっかりがいつも目につくものだ。残る一字はあの女の名前じゃないの。「乱」なんて漢字だけ変えて誤魔化したつもり、本当は「蘭」としたかったんでしょう。あの頃を思い出そうと言いながら、この長い手紙は本当にぜんぶが私だけに宛てられているの。今も私は体半分たのしみだけど、もう半分は苦しい。知る必要のないこともある。思い出さなくても良いこともある。部屋の窓から白い光がさしていた。私は顔をあげて、それを無理やり凝視する。欲張らずに今のことだけただ懸命に目を向けて、決して後ろを振り返らなければこそ思い出はいつもきらきら。





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 突然御手紙を差し上げますぶしつけを、幾重にもお許しくださいまし。私は日頃、先生のお作を愛読しているものでございます。別府お送りいたしましたのは、私の拙い創作でございます。御一覧の上、御批評がいただきますれば、この上の幸いはございません。或る理由のために、原稿のほうは、この手紙を書きます前に投函いたしましたから、すでにごらんずみかと拝察いたします。如何でございましたでしょうか。もし拙作がいくらかでも、先生に感銘を与え得たとしますれば、こんな嬉しいことはないのでございますが。演劇とっても面白かったです。




2023/01/25

お茶碗ズ「シーを待つ」

お茶碗ズの「シーを待つ」という楽曲に山河図が録音協力で参加しました。
以下リンクより視聴できます。




お茶碗ズ 8th single「シーを待つ」
作詞作曲:米田豊作
協力:親愛なるQに捧ぐ 山河図