2021/06/17
2021/06/13
劇団きのこ牛乳「はらたけ科」Bプログラム『珍しくよく喋ったり哀しいことも起こってないよ』
それ以来観に行ってなかったが、今回は菊地穂波さんが新作の脚本を提供した作品があるというので、私は彼のファンであるので、面白かったよなきのこ牛乳とか思いながらひさしぶりに観劇した。
ここまで書いていて、この文章を書くことが全然気乗りしないしなんかもうめんどくさいという気持ちが濃くなってきた。まだこんなに序盤なのに。
Bプログラムに行ったので二本立てのそのどちらもについて書こうかなと思っていたが、ダメだ。全然書いていて楽しくない。とりあえず穂波さんが書いた「珍しく〜」の方だけにとどめる。
私は穂波さんとはダチンコだが、ダチンコであることは全く関係なく菊地穂波のファンでもある。ときどき書いたり言ったりするが、菊地穂波の作品を目にする度に「演劇をやっていたら心が折れて辞めてしまうだろう」と思う。面白くて。それに、「珍しく〜」を書いた頃の穂波さんとは多分まだ出会ってなくて、だから“ダチンコである穂波さん”ではなく純然たる“菊地穂波”であるとも言える。
前置きは終わりにして感想に入るが端的に言って最悪だった。もう2度とこんな体験をしたくないしもしも私が菊地穂波の立場で、つまりあんなふうに自分の書いた脚本を扱われたのならたちまち大猿になって暴れてしまうだろう。脚本は面白かった。脚本は面白いのに(脚本を読解しそれを俳優の身体を通して伝えることを一旦“演出”とすると)演出が最悪だった。もしかすると面白く観劇した方もいるのかもしれないのでそういう方の感想を否定したくはないという理由から具体的な箇所を言及するのはやめといてやるが、絶対にこういうト書きや指示は菊地穂波は書かないであろう箇所が今パッと思い出すだけでも二箇所ある。わかるだろ。観た人なら。作った人なら。なんであんなことをするんだ。どうしてあんなに、作家というものに、もっと言えば“テキスト”というものに、一切の敬意を払わずに“演出”なんて行為を行えるんだ。アレンジをすることや改変をすることそれ自体を否定しているわけではない。そういうものはテキストに対する 抽象的に言えば敬意/具体的に言えば読解 を前提にしていると言っている。それが致命的に欠如していると言っているんだ。「敬意も払ってるし読解もしている」と言うなら重傷で、やったつもりでも結果として出来てないからもう2度と他人を巻き込んで悲しみの絨毯爆撃みたいなことはしない方がいいっていうかするな。
菊地穂波さん自身が観劇した上で、私が論うような怒りと悲しみの混合液みたいな感情を微塵も感じていなくて、「面白かった!」「私のテキストを輝かせてくれてありがとう」と心から思えるなら私は菊地穂波への信頼を、失うとまでは言わずともその多くを欠かしてしまうかもしれない。言い換えれば、そんなこと絶対にあり得ないくらい最悪だったといってるんだ。
実際にキレるかどうかはわからないけど多分キレないだろう。原稿料を貰ってシナリオを書くというのは、仕事というのは、きっとそういうものだから。脚本に対する対価を貰っている以上、仕方ない。権利がないかもしれない。チケット代をきっちり払ってよかった。チケット代を払うということは私が「客である」つまりこういう事を書く権利があるということだ。ちなみに野暮な事を申し上げると、「金を返せ」とか「菊地氏に謝れ!」とかは思わない。当たり前だがそういうことではない。面白い脚本を稚拙な演出をして最悪になった演劇を観て最悪な気持ちになった。それだけだ。ネガキャンではない。感想文である。ご了承頂けることを願う。
2021/05/22
シャーレ新作映画&ティザー映像 出演者募集
『ミラキュラスウィークエンド・エセ(仮)』
『金曜日から』
シャーレ新作映画出演者募集
『仲良くなりそうでならなかった奴(仮)』
脚本 大谷皿屋敷
製作 シャーレ
≪大谷皿屋敷≫
1989年、北海道生まれ。劇団「地蔵中毒」主宰。 大学時代に学生落語全国大会てんしき杯にて優勝、詩のボクシング全国大会にて準優勝を経て、そろばんの先生に50万の借金をして上京。 2014年に、劇団「地蔵中毒」旗揚げ。 極端に生活力が低く、ゴミ屋敷に住む。自宅のゴミ屋敷を掃除してもらう「ゴミ屋敷掃除ワークショップ」や「観客がジャガイモを握りながら観る演劇」を開催する等、自分でもよくわからない活動を続け、小劇場界から黙殺され続けている。
近年の活動としては、劇団「地蔵中毒」第12回公演『おめかし、鉄下駄、総本山 削ればカビも大丈夫 (村の掟 全無視 Edition) 』(下北沢駅前劇場)、第13回公演『宴たけなわ天高く円越える孫世代』(下北沢ザ・スズナリ)などがある。他にも、安藤玉恵による一人芝居劇『SAVE THE どん平 安藤玉恵による"とんかつ" と"語り" の夕べ vol.1 切断』で作・演出、WOWOWオリジナルコントドラマ『松尾スズキと30分の女優』で脚本参加している。
2021/05/07
回転
私が昨年「透明人間」を観たときに、「なぁんだ、そっちなのかぁ」と思ってしまった不満というか嗜好を鮮やかに掬ってくれた。私はこういうものが観たかったしこういうものが好きなんだ。61年に作られていたのだ。良かった。
冒頭の「想像力はあるか?」という台詞がこの映画の醍醐味を象徴しているわけだが、「想像力はあるか?」というのはすべての創作を鑑賞するにあたって鑑賞者に向けられている言葉でもある。
いったんホラー映画というものを具体例として申し上げれば、(少なくとも私は)一度も目にしたことがない幽霊というモノを映画の中で目撃する。その時、「えぇ?なにそれ?幽霊なんていないのに?」と斜に構えた、というかリアリティラインを自分の人生経験のみに依拠する態度をとっていては、なにも楽しめない。楽しむ資格がない。
もちろん前述したようにこれは具体的であってすべてのフィクションに言える。
キムタクがクリュウと名乗り検事をやっている姿を見て「俳優の木村なのに?!」と思ってしまうなら木や草と話をして大人になる前にどこかへ連れていかれてしまうだろう。
創作を楽しむために必要とされる前提は想像力なのだ。
翻って、作品の内部のことで言えばこれが素晴らしいなと私が感じるのは、主人公が子供たちに対して彼らの「想像力」を否定すること。しかも主人公自身の想像力で以って。想像力が想像力を否定し破壊する。
それは許されることではない。だから罰が下るのだ。これは逆説だ。
ひとつの作品について解釈が何通りもできるということは素敵なことだ。きっとそういう作品については、作者の意図を外れた考察もあるだろう。そのとき、作品はたんなる誰かの創造を超えて人にとっての世界(自然)に一致する。それこそが本当に素敵なことで意義深いことだ。
上記の私の解釈は文字通り私の解釈でしかない。誰かに正論として提出するものではない。他人の想像力を否定するようなことはしたくない。罰を下されたくない。
2021/04/30
配信企画「ゴテンバサノバザール」第2回出演者募集
【企画概要】
・こちらのページに載っているテキストから出演者に一本選んでいただき、その音源をポッドキャストWEBにてすべて発表する。
・私からの演出はありませんので、ご自由に読んでください。ご自身で編集をしたりSEをつけていただいてもかまいません。
【参加手順】
①こちらへのメールもしくは、TwitterのこちらのアカウントへのDMで参加希望の旨をお伝えください。♯2の応募〆切は2021年5月11日とします。
↓
②「ありがとうございます」的な挨拶返信を致しますので、その返信から《1ヶ月以内》に、録音を行い、音声ファイルをメール添付やGigaFile等ファイル共有サイトURLという形で①と同じくメールもしくはDMにてお送りください。その際、出演者のお名前を明記してください。複数で参加する場合は全ての参加者のお名前をお書きください。
↓
③頂いたファイルを順次Podcastにアップロードし、完了次第お知らせいたします。
【注意事項】
・作品の著作権は作者である「志水あみ」と出演者様のどちらも有するものと致します。よって、アップロードされた作品をご自身のホームページなどにアップロードする場合は、志水あみによる執筆である旨をお書き添え下さい。
・双方ノーギャランティーとなります。それに伴い、テキストを使っての商業公演や音源の販売はお控え下さい。(ただし無料上演であれば、ご連絡くだされば許可いたします)
・テキストの文言の改変、構成の変更は禁止とします。
たくさんのご応募お待ちしております!!!!!!!!!!!!!
2021/04/19
夏の娘たち〜ひめごと〜
空間というより時間、が文字通り切り取られてそれによって空間の方が歪む、しかしながら映画体験はあくまで「時間」の中にしかないという整理してみると誰でも分かるけど気にしてないことに監督が意識的であるが故にうまれる効果が、気持ち悪さ、「えっ?」という動揺(それでも「なんで?」とは思わない)によって観客の意識を釘付けにして、映画は非常に繊細で微妙な波打ち際を足を濡らさず全力で推進する。
この映画の特徴である歪なズームアップも、小学生にカメラ持たせても同じことをやりそうなものだが、ちょっと調べたところその技にまばたきという名前までつけてやっていたようだし、川の整音も「真似しちゃダメですよ」とインタビューで言いながらもすべてわざとやっていたらしい。
つまり、テキトーにやってもそうなることすらその方が面白いっしょ意識つまり"あえて"ではなく(この"あえてではない"ということが本当に大切なのだけど)、「そうするべき」という強い順当性のもと丁寧にやる点こそ堀禎一が私にとって唯一無二の大切な監督である一番の理由と、観る前から思っていたことをさらに思わされた。
──と書いてみたものの監督への個人的な想いを作品レビューに書くのは忍ばれる。それは監督の仕事に対して観客が過度な感傷を持つということで、別に他の監督にならともかく俺は、堀禎一だけにはそういうことをしたくないから。
すべての作品は観客と作家の丁度まんなかの位置に置いてあって、観客はそれをはじめて体験するみじかい時間、作品を通して一度だけ作家と話すことができる。
「映画は歳を取らない」という言葉が上映後のトークショーであったが、申し訳ないけど私はそれを希望の言葉とは思えない。
私が未熟である証拠だ。
いつかこの映画に対して、その言葉を希望的に思える日が来るといい。
それは絶対叶わないことじゃない。
手段がまだあることを私は知っている。
あなたにいつかまた会えたなら、それはどんなに嬉しいことだろう。