2024/02/25

木村美月の企画「汎愛奇譚集」CMシリーズ

木村美月の企画「汎愛奇譚集」CMを山河図が製作しました。以下リンクよりご覧ください。


①〈依頼篇〉

②〈走る男篇〉

③〈稽古場篇〉

④〈告白篇〉

⑤〈クイズ篇〉


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・「汎愛奇譚集」予約 ticket.corich.jp/apply/302639/

・木村美月の企画 WEB mitsuki-no-kikaku.site

・木村美月の企画 Twitter https://twitter.com/mitsukinokikaku

2023/12/23

パトリシア・ハイスミス「11の物語」感想

 職場に置いてあったキネマ旬報をペラペラめくっていると、ヴェンダース新作「PERFECT DAYS」の記事があった。その記事の中にこの本──とくに「かたつむり観察者」についての記述があり(どうやら映画の中で役所広司がこの本を手にするらしい)、それで興味を惹かれて読んでみた。記事の終わりに「読むのは勧めない」と書いてあったのも良かった。ヴェンダースがハイスミスの小説を自作の映画に登場させるのは合点がいく。「アメリカの友人」はハイスミスが原作(「贋作」「アメリカの友人」)だから(原作はアラン・ドロンで有名な「太陽がいっぱい」の続編らしいが関係ない)。

 図書館で借りて本を開くと、十一の物語の初っ端が「かたつむり観察者」で、おもしろく読んだもののあまりの生理的不快感でよっぽどもう閉じようかと思った。もしおもしろかったら買おうかなーと思っていたけど、どんなに面白くてもこんなキモすぎる話が載っている本買うのはよそうと決意して、次の「恋盗人」を読むと、うってかわって恋物語であったが、「これは俺じゃないかよ!」という胸の張り裂ける身体的な痛み──それはたとえるなら銀杏BOYZ「ナイトライダー」の歌詞からロマンチックさを剥ぎ取ったときの、自らに襲いかかる陰湿さの自覚……にまたも嘔気をおぼえ、「面白いけど買わない!」の気を強くした。この私の決意は、「クレイヴァリング教授の新発見」でいよいよ確固たるものになる。とかくキモチワリーー!!!!!!!!のである。未読の人のために内容は伏せるが、「またかよ!!!!!!」なのである。
 私は心配になる。ハイスミス女史はいったいどういうつもり、というか、どういう気持ちでこんな文章を書いてるのか?オエーーっとか自分でも思うのだろうか?それとも……。

 しかし、「ヒロイン」にぶちあたって、私は思いなおす。「この短編集を買わなければいけない。買って、手元に置かなければならない」。
なぜか?あまりにも面白すぎる。あまりにも!面白すぎる!エクスクラメーションマークで文節を区切るほど面白い。だけどわかって欲しいのは、私はこの短編集を面白がりたくなんかなかったということ。先にも書いたけど「どんなに面白くても買いたくない」みたいな、イヤヨイヤヨの気持ちで読んでいたということ。大嫌いになりたいのに、そんな気持ちは既視感があった。何かに似ていた。
あれだ!!「死ぬほど大嫌いな上司と出張先でまさかの相部屋に」シリーズである。何のシリーズなのかは書かないが、そういうシリーズというか、ジャンルがあって、べつだん好みでもないが、とにかくあの時の〈私〉の表情がおそらくはいま現在の私のそれだ。 実際、あらゆる表現の中から推敲した上で言葉をえらばずに書くか、私はこの本を読んでいるときになんというか小説におかされているような気分だった。私は人間の暗部、残忍さ、そして狂気を描く小説を避けるようにさいきんは読書をしていた。そういうものを否定したいのではなくて、今の私には、もっと明るくて、のんびりしていて、読む中で励まされる気分になることが必要であり、また志向していたからだ。暗くてキモいのなんか読みたかないよ、とそっぽを向く私にハイスミスの小説群は襲いかかってきた。私は恍惚としながら怯えていて、怯えている。こういう作品が好きだった、その自認から抗えなくなっている自分に。

 私はこの小説を手元に置くだろう。誰かに薦めることはよそうと思っている。それでも、私からもしもこの小説を勧められても、読まないで欲しい。私にまだ理性の残滓が残るうちの、これは忠告である。マジ面白いので読んだほうがいいよ。よかったら貸すよ。

2023/11/14

ラジオ「uniの映画、言わせてくれ!」




スタンドエフエムで配信されている映画ラジオ番組「uniの映画、言わせてくれ!」のアイコンイラストを描かせていただきました。

他のレビューとはひと味とふた味も違う映画感想は必聴です!


↓こちら↓

https://stand.fm/channels/646b2a7b0b5e6b2d87576b3e 

2023/09/29

排気口×山河図コラボTシャツ

排気口と山河図のコラボTシャツが、排気口「時に想像しあった人たち」劇場物販にて販売されます。白/水色の2色展開、各10着ずつで限定20着です。限定20着なのは、プレミア感を出したいとかではなく、山河図の予算限界が“20“だったからです。売れないとやばい。どうかひとつ、よろしくお願いします!!!


「排気口×山河図コラボTシャツ」

⭐︎color:白/水色

⭐︎size:Lのみ(unisex)

⭐︎price:¥2,500-

⭐︎排気口「時に想像しあった人たち」劇場物販にて20着販売。

 →「時に想像しあった人たち」詳細ページ


CM

着衣画像



(model:蟹ひかり/ゴミでも食う)





2023/08/11

静谷静一「点滅症〜そのメカニズムについて〜」より抜粋

「点滅症」という奇病について


1.前提

1-1.明在系と暗在系

「明在系」および「暗在系」は、物理学者デヴィッド・ボーム(David Borm)によって『全体性と内部秩序』("Wholeness and Implicate Order")の中で提唱された考え方である。

ボームは同著の中で以下のように述べている。

「われわれが五感を通じて知る世界は、いろいろな事物に分割され、部分化されているが、それらのものは暗在系に対する、明在系であり、明在系においては、外的に個別化され無関係に存在しているような事物は、実は暗在系においては、全き存在として、全一的に、しかも動きをもって存在している。」(訳:河合隼雄)


この世界は「明在系」と「暗在系」つまり視覚・聴覚といった五感で認識することのできる”視える世界”と、紫外線や超音波などに代表される”視えない世界”の二つに分けられる、ということである。(便宜的に”視える”という表現をしたが、”聞こえる”でも同様。感覚で認識できないという意味)

 視覚的なイメージで説明するならば、庭にチューリップの花が咲いているとき、その根元、土の下には視認できなくともチューリップの球根が存在する。このとき、我々が認識できるチューリップの茎や花弁は「明在系」に、球根は「暗在系」に属するとイメージするとわかりやすいかもしれない。(しかしこれはあくまでも構造をイメージしやすくする例であり、根元を掘り返せば球根は視認できるため、実際には明在系に属する。)



1-2.因果性と共時性

河合隼雄は『宗教と科学の接点』の中で以下のように述べている。

「自然現象は、その背景において、共時性の発生に関与する霊的(心の発生源的)な領域(ボームの言葉を借りれば「暗在系」)を共有していると考えられます。そして、とくに科学的な論理・法則によって割り切れる物理的な領域が因果性であり、科学的な論理・法則だけでは全貌をつかみきれない領域が共時性ではないかと考えます。」



共時性(共時性現象=シンクロニシティー=偶然の一致)は、心の深層部(「無意識層(潜在意識)」や魂と言われるもの)において発生し、スイスの精神科医・ユングなどによって研究された現象である。

ユングは『自然現象と心の構造』の中で、以下の様に述べている。

「ある同一あるいは同様の意味をもっている二つあるいはそれ以上の因果的には関係のない事象の、時間における偶然の一致という特別な意味において、共時性という一般的概念を用いているのである。したがって、共時性は、ある一定の心の状態がそのときの主体の状態に意味深く対応するように見える一つあるいはそれ以上の外的事象と同時的に生起することを意味する。」

つまり、ある心の状態、それと意味が一致する物的事象が同時的におきるということである。次に、同書から具体例を挙げた部分を抜粋する。

「私が治療していたある若い婦人は、決定的な時期に、自分が黄金の神聖甲虫を与えられる夢を見た。彼女が私にこの夢を話している間、私は閉じた窓に背を向けて坐っていた。突然、私の後ろで、やさしくトントンとたたく音が聞こえた。振り返ると、飛んでいる一匹の虫が、外から窓ガラスをノックしているのである。私は窓を開けて、その虫が入ってくるのを宙でつかまえた。それは、私たちの緯度帯で見つかるもののうちで、神聖甲虫に最も相似している虫で、神聖甲虫状の甲虫であり、どこにでもいるハナムグリの類の黄金虫であったが、通常の習性とは打って変わって、明らかにこの特別の時点では、暗い部屋に入りたがっていたのである。」

”ある女性”が見た”自分が黄金の神聖甲虫を与えられる夢”は心的事象である。

また 「彼女が私にこの夢を話している間、・・・明らかにこの特別の時点では、暗い部屋に入りたがっていたのである。」の一説で述べられた事象は、女性が夢の話をしている間に起きた物的事象である。

この例を見てもわかるように、ユングが定義した「二つあるいはそれ以上の因果的には関係のない事象」は、(物的事象が二つ以上同時におきることもあるが)まず前提として、常に心的事象と物的事象が対になっていることを指している。さきほどの定義にあるように、ユングは、この例の場合、心的事象(夢)と物的事象(昆虫の出現)が、因果的に関係ないと述べているのだ。


この章の冒頭で引用した河合隼雄の文章は、ことばの上では対立的もしくは並列的な印象のある因果性(ある原因がそれに対する結果としてあらわれるような性質)と共時性の関係について、ユングの考えに反した姿勢を示している。科学が一般的に「因果性がある」と認めているものごとの性質は、先の例で言えば「チューリップの茎や花弁」のようなものであり、私たちが認識していないところに、あらゆる現象の背景があるのではないか、というものである。つまり、因果性と共時性は併立するということだ。


2.点滅症

点滅症(Half Ghost syndrome)は自己の身体が他者の五感で認識できなくなる疾患、またはその疾が発症する症状の総称であり、本間血腫、先天性R型脳梁変成症などと並び世界三大奇病とよばれる。(三大奇病については諸説ある)

点滅症が世界ではじめて報告された症例は1870年のことであり、現在までに2万人程度の症例があるとされるが、遺伝もせず症因も判明しないことに加え、その特異な症状ゆえ治療法が見つかっておらず、また、点滅症を発症しても本人が症状に気づかないまま自然治癒することがある。


2-1.症状

点滅症最大の特徴は「他者が患者を認識できなくなる」という点にある。しかしその症状の持続時間は症例によりまちまちであり、またそれは”消滅”とは異なるとされ、他者が認識できない(=消えている)間も、患者が物理的に消えて無くなっているわけではない。


点滅症による身体への肉体的苦痛・状態異常はほぼないとされている。このため、点滅症を”病症”ではなく”現象”にカテゴライズするべきではないかという声もあるが、点滅症は伝染することがあると言われており、明確な根拠は認められていないものの、この点を”病症”の論拠とする医師は多い。しかしながら、伝染の媒介も発見されてはいない。


点滅症が奇病であり、また、明確な治療方法が発見できない大きな理由は、患者の症状が自己認識ではなく、他者に影響することで確認される点であろう。

つまり、たとえば無人島で点滅症を発症したとしても、患者自身は症状に気づかないことがある。




2023/07/20

太宰治「女生徒」(角川文庫版)感想

 角川文庫から出版されたこの短編集に収められているのはどれも独白体形式という共通項がある。そして、これは“小説“という媒体の多くにおける特徴でもあると思うのだけれど、語り手が登場人物の一人である場合、語られるのはすでに過ぎ去った時間についてのものだ。言い換えれば、語り手というのは常に語られる時間からして先の未来にいる。

①日記でもブログでもツイッターでもいいが、自分が体験したことを文章に書き残す行為の根底には、この世界の約束で現れたそばから消えていく出来事を自分の外側で保証せんとする意識があると私は思う。「それを誰かが読む」というのはいわば副次的な結果である。だから、この本の短編のすべてが、(テイとしてではあれ)誰か他人に宛てられた手紙だと前提するのは気が早いように思う。

②収録された短編の多くが、太平洋戦時下の時期についてのものだ。とは言っても、戦争を知らぬ我々が「太平洋戦争戦時下」と耳に目にして思い浮かべる末期佳境の時期ではないように思われる。もしくは、舞台となる土地や登場人物の環境が、戦況に影響薄く居られるか。そういった時期ないし環境を述懐している。

 上記二点を踏まえて、太宰治の というよりは編纂の結果としてこの小説群は「大きな出来事の起きる以前の時間」を、「それ以降に起きる大きな出来事」によって失われ尽くすことがありませんようにとの願いが込められているように私には感じられた。大きな出来事とは戦争に限らない。例えば、自殺。
 そして冒頭に書いた「語り手が現在立っている時間」というのも、「大きな出来事」の終わった後ばかりではないだろう。渦中もあるだろう。現状失われつつある自分の環境や思慕、しかしそれらがかつて確かに存在したことの証明として、過去を語る。語られる相手というのは、もしかすれば第一に自身なのもしれない。
 では、彼らが証明しようとした種々の光景だったりや想いはどのようなものであったか。共通するであろうことは「語られる過去の時間」の彼らというのが、未来の到来を心待ちしているということ。そしてその未来というのは特定の日付を持たない、漠然としているがむしろそれゆえ純粋な意味としての「未来」である。

「明日もまた、同じ日が来るのだろう。幸福は一生、来ないのだ。それは、わかっている。けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。」(「女生徒」)

「私は、ばかだったのでしょうか。でも、ひとりくらいは、この世に、そんな美しい人がいるはずだ、と私は、あのころも、いまもなお信じて居ります」(「きりぎりす」)

「貴下が、他日、貴下の人格を完成なさった暁には、必ずしもお逢いしたいと思いますが、それまでは、文通のみにて、かんにんして下さいませ。」(「恥」)

「いったい、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何もない。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。(中略)それではいったい、私は誰を待っているのだろう。旦那さま。ちがう。恋人。ちがいます。お友達。いやだ。お金。まさか。亡霊。おお、いやだ。 もっとなごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。」(「待つ」)

 「語られる過去の時間」の彼らが想像している未来は各々の状況に応じて異相を呈し、例えば悲観的な人物にとってそれは必ずしも明るいばかりではないのかもしれないが、どれも「大きな出来事」によって、待望は叶わなくなる。
 ここで私が連想したのは、ベンヤミンの「写真小史」における一枚の写真にまつわるエピソードだ。それは悲しい運命を辿ることになる一組の夫婦がまだ幸せだった頃に撮影された、彼らの肖像写真についての話。これについて数年前に読んだ長谷正人「「想起」としての映像文化史」から引く。
 「この二人が悲劇的に運命づけられていながらも、なおそれとは違った未来への可能性のなかにおいても同時に捉えられているからこそ、彼(引用者註:ベンヤミン)はこの写真の二人に感動したに違いないのだ。人生の様々な可能性に向かって開かれたままの状態で結晶化している二人の姿に……。」
 「この写真から、未来の出来事との関連によって意味付けられてしまうこと(運命としての悲劇)からも、当事者たちの現状認識によって意味付けられていたこと(婚約という幸福)からもこぼれ落ちてしまうような、あり得たかもしれない別の歴史の可能性(「未来における別の幸福」とでも言うべきか)を感じとったと思われる。実は彼の言う「想起としての歴史」とは、そのもう一つの別の未来の可能性、つまり果たされなかった運命の可能性を、過去の出来事の片隅に見出し、それを現在へともたらすことと言えよう」

 お分かりの通りこの感想文で使われていた「未来」という言葉は「可能性」と言い換えることができるだろう。戦争、没落、死別──それら「大きな出来事」によって待望された未来はその言い換えたる可能性を断絶される(断絶を示唆される)。ここに絶望というのはあって然るべきなのだがしかし、語られることの主眼には置かれない。ベンヤミンの心を打った「あり得たかもしれない別の歴史の可能性」とは、分かれ道に差し掛かる前の途上の切り抜きであるが、太宰治(というか語り手)もまたあくまで途上の切り抜きおよびその時点で感じていた可能性をこそ記述し、踏みとどまろうとする。なぜか?未来への待望を含む「消え去ってゆく現在の出来事」を自分の外側で“確かにあった“と保証せんとする意識が、書き残すという行為の根底にあるからだ。そして前述のうちでは結果的な副次としたが、これらの小説群は文字通り小説であるから、語り手もしくは書き手たる太宰治本人のさらに先の時間に、読者および読者の“小説を読む時間”が想定されている。“誰かに宛てられた“という感慨は、小説を小説と看做す我々読者の登場で初めて考えに及ぶことができるのだ。そして、語り手たちが保証し証明しようと努力した過去の時間というのは、書くという行為に端を発しながらにして、我々読者が読むことによって、我々の想起の中で完成する。大いなる力というか感慨をかんぜざるを得ないのは、小説とはそもそも単体では媒体の特徴としてしか過去性をその身に宿し得なかったはずということだ。小説というのはやはり、誰かに読まれた時に媒体を超えた時間の連なりとして出現するのか。

2023/07/07

トーベ・ヤンソン「ムーミン谷の夏まつり」感想

 結局のところ、かなしいことばかり考えてしまって、がっかりしてめそめそしてどうしたんだいの権化、ミーサ、もしくはフィリフヨンカが主人公であって、ムーミン一家はほとんど端役でしかない。ミーサの悲観とフィリフヨンカの孤独は似た趣があって、彼女らのかなしみもしくは寂しさが、演劇(=劇場という場所)に、文字通り見立てとしての人生や親類を設定することで視界が晴れる。演劇というものもしくは舞台という場所が、目に見えないもののために見立てられて存在しながらも実態として肉体を伴うというのは、たちかえれば儀式的・祝祭なニュアンスを構造に内包する(この本のタイトルは「ムーミン谷の夏まつり」である)。
 シャーマンの例をとるにおよばず、俳優の身体には自身とは別の人格が降霊され、自身とは別の人生を歩む。しかしそれらは、別の世界線や多層的なレイヤーを重ねることではなくて、あくまで俳優自身の人生の中の一部である。だから何かを上演することは、俳優の人生に影響を及ぼす。それで俳優が救われるというのは、演劇の効用として、正しい。