2021/12/31

安川日記 21.12

12月小日

こどものころ、最終的に忘れちゃう系の物語にすこぶる弱く(千と千尋の神隠しとか、時をかける少女とか、バタフライエフェクトとか、観てない人ごめんなさい)

わたしが代わりに覚えておくから!!!!
忘れちゃっても、なかったことにはならない!!!!!

と心の中で彼ら彼女らに叫んでいた。


時間とか記憶、に固執しているのかもしれない

いつかなくなるからかな?
なくなるなら意味あるのかな?
意味なんて必要なのかな?
エンドレスポエトリー、、、

「頭では分かっていないことも、心ではもう知っている」


12月中日

わたしは物語ジャンキーPART3。。


12月高日

性懲りもなくまた猫カフェに行ってしまった。

猫の耳を触ると、この耳に穴あけパンチをしたときの感触を想像してしまう。

もちろん断じてそんなことはしない。
わたしは猫が本当に本当に大好きだし、
命よりも大切……地球よりも大切!なのだ。

(最後のは「天国の恋」で一番衝撃的だった台詞。命のあと地球!!?!?と思ってめちゃくちゃ笑ってしまった。意味が分からなすぎて大好きだった昼ドラ。そんなことは今どうでもいい!)

絶対にやらないけど、
その感触はわたしを癒やしてくれるんだろうな、
ということがやらずとも分かる。


最初に少しだけグッと入り、
むにむに刃が進み、
最後にすこっと抜ける。

バチンバチン!
とやるのではなくゆっくりやるのが肝。


もちろんあくまで"感触"のみの話。

そんな想像して!猫ちゃんが可愛そう!
この気狂い!腐れ外道!咎人!ばか!
などと思った方はロースハム2枚で代用して下さい。

ハム2枚に穴あけパンチをたくさんかけて、
ハムの丸をたくさん作り、糸を通してネックレスにする。

針を通すときの感触も、こりゃあ絶対気持ちいいに決まっている。

ハムを鋏で切ってもいい。
カッターだとちょっと違うかな。
包丁ではお話にならない。

やっぱり、穴あけパンチになってきちゃうな。


そんなことを考えていたらすっかり心が休まった。猫の癒し効果はすごい。

年末年始は実家に帰るので、最愛にゃんたちにたっぷり甘えようと思う。


12月大日

また一年が終わる。

一年の終わりになると、占いをみるのが恒例行事。
わたしの次の一年を指し示す機密文書がこぞって公開されるのだ。

だいたい、石井ゆかり、しいたけ占い、ゲッターズ飯田なんかを見る。暇すぎると四柱推命、九星気学、六星占術、宿曜占術なんかもみる。

たくさんの世界線で、来年のわたしが出会いや別れを繰り返し、調子に乗ったり落ち込んだりしている。

そのなかで、一番多くのわたしに起こっていることや、気をつけるべきことを、今ここにいるわたしは肝に銘じておこう、と思う。

そして5月くらいには忘れる。
わたしはそういう人間だ。

せっかく最近日記を更新しているので
今年はここに書いておこう。

「余計なひと言に気をつけろ」
「いつもありがとう」
「新たなフィールド、素人活動」
「患部を見せる」

2021/12/24

配信企画「ゴテンバサノバザール」第3回出演者募集




メリークリスマス・イヴ!
ゴテンバサノバザールも気付けば一周年となりました。昨年ゴテンバを始めた時は、現在まで続くコロナ禍の中で、現在よりも緊張感やなすすべのない虚脱感が濃く漂っていたと記憶しています。そして相次ぐ演劇の公演延期・中止や映画の上映延期・撮影中止の波がそれらの芸術に携わる人々を呑み込んでも、それでも何かやれることはないのか・きっとあるはずだという強い想いがさまざまな貌で発表の場を作っていった時間でもあったと思います。ゴテンバサノバザールという企画も、そういう想いによってはじめられ、そして前2回の素晴らしい参加者の皆さんの力でもって、誰よりも私自身を励ましてくれました。
テキストというものには作家すら思いもよらないそれ本来の持つ力や豊かさがあって、それは(大きな意味での)演じ手そして受け手によってこんなにも色とりどりに発揮されるのだということを、恥ずかしながらもそれを大きく上回る嬉しさで噛み締めています。
さて、はじめてこの企画を知ってこの文章を読んでいる方のために改めて説明しますが、当企画は、文字通り“どなたでも“リーディング作品をご応募いただけ、選考などなく全ての応募作品を発表するプログラムになります。繰り返しになりますが資格・条件はございませんので、ご興味ございましたら以下手順からどしどしご応募いただければとおもいます。冬休みを寝て過ごすのも勿体無いかもな、そのくらいでも十分な動機なのです。寝て過ごすのも最高ですけどね。
以前に比べれば落ち着きを伺わせつつも予断は許さぬ状況が続いておりますが、創作そして創作行為の”すてきさ””楽しさ”が失われぬこと、そしてなにより皆様の健康と日常の中のサイズを問わぬわくわくや幸福を祈って。
めのん 志水あみ


これまでの「ゴテンバサノバザール」参加作品(♯1~♯2)はこちらから視聴できます。


【企画概要】
・こちらのページ(バザール#3)に載っているテキストから一作品を選び、ご自身で収録していただき、その音源作品をポッドキャストWEBにてすべて発表する。
・私からの演出はありませんので、ご自由に読んでください。ご自身で音源を編集をしたりSEをつけていただいてもかまいません。



【参加手順】
①こちらへのメールもしくは、TwitterのこちらのアカウントへのDMで参加希望の旨をお伝えください。♯3の応募〆切は2022年1月11日とします。

↓

②「ありがとうございます」的な挨拶返信を致しますので、録音を行い、2022年2月11日までに音声ファイルをメール添付やGigaFile等ファイル共有サイトURLという形で①と同じくメールもしくはDMにて作品をお送りください。
その際、出演者のお名前を明記してください。複数で参加する場合は全ての参加者のお名前をお書きください。

↓

③送って頂いたファイルを順次Podcastにアップロードし、完了次第お知らせいたします。




【注意事項】
・作品の著作権は作者である「志水あみ」と出演者様のどちらも有するものと致します。よって、アップロードされた作品をご自身のホームページなどにアップロードする場合は、志水あみによる執筆である旨をお書き添え下さい。

・双方ノーギャランティーとなります。それに伴い、テキストを使っての商業公演や音源の販売はお控え下さい。(ただし無料上演であれば、ご連絡くだされば許可いたします)

・テキストの文言の改変、構成の変更は禁止とします。

たくさんのご応募お待ちしております!!!!!!!!!!!!!

2021/12/09

・

最近、山河図が考えていること

  • 塔矢アキラの『お水を一杯飲んでこようか』って台詞、マジ?
  • 一人なのに相手側に白石の碁笥を置いてる父を見た塔矢アキラの気持ちを考える。
  • 和谷は企画を考えるのが上手い。
  • 真中淳平がいつか撮ろうとしている映画はコンテがダサい。
  • 泉坂高校映研が作った『夏に歌う者』のラストシーンは画が繋がってないし自主映画のレベルで撮影するのは不可能ではないか。

2021/12/06

排気口「山河図コラボTee」

排気口のTシャツ「山河図コラボTee」イラストを山河図が担当しました。 せっかくなので排気口の作演出・菊地穂波さんを描きました。

排気口「金曜日から」上演の際、劇場にて物販されるそうです。

(サンプルマークは実際にはついていません)





山河図コラボTee ¥3,000-

model 西村理佐/二村仁弥

photo 山河図

2021/12/04

仮面ライダー

 夏ごろから仮面ライダーにハマっている。
4ヶ月で220話分の仮面ライダーを、84時間もの時間の仮面ライダーを見ている。
そして、週に5日間8時間わたしはごく普通な社員として働いている。

 先日見終えた「仮面ライダービルド」も、見終わるのが惜しくなるほど自分にとって大事な作品になった。仮面ライダーはどのシリーズも50話ほどで構成されていて、1話が23分程となっている。
 長い時間をかけて見終えたとしても、一編の詩を読んだだけのように通り過ぎていく感覚しかない。作品が過ぎていく、という感覚。終わらないで欲しいと思いながらも終わってしまうのはいつも切ない。

 忘れられないセリフやキャストさんたちの表情、何度も立ち上がる仮面ライダーの姿がある。わたしはただそれを受け取っているようで、自分の中で彼らの姿を特別なものに再編成しているとも言える。
 作品を見ただけではどこまでが監督の意図で、カメラマンの意図で、スタッフの意図で、キャストの意図なのかはわからない。けれど忘れられない程に尊いものの背後には人間の作為がある。創られている。
 その見えない姿をこちらが感じる行為は神様を感じ取る行為とも重なると思った。
自分は神様のことはわからないけれど、神様を信じるひとの感覚はこういうものなのではないかな、と。

 創られることと同じくらいに見出すことにも意味があるはずで、
 作品を見ている時間は労働している時間には満たない。私のことを他人が見定める時に、何で測られるのだろう。
 私が作品とやりとりしている行為や気持ちは自分自身の姿形には現れない。決してアイデンティティにはできない。
 けれどそこには自分の人生でかけがえのない、忘れられない時間が確かに存在する。そのことは作品と自分しか知らない。
 そしてまた、何事もなかったように日常は続いていく。見た時間からも離れていく。感覚が終わっていく。それでも今日もそこに在った自分と作品との関係を、それが自分を自分たらしめてくれると自分だけが信じ続けている。
 仮面ライダーを見るってそこまで大それたことであっていいとわたしは思っている。思っていたいというのもあるけれど、そう思っている。離れていってしまうようで見えない神様がわたしを見守っているような気がする。

2021/11/30

安川日記 21.11

11月mm日

「子供はわかってあげない」読んだ人とはなす。

優しいシーンはお互いぐっときていたけど、
それぞれ別のところがお気に入りだったよう。

わたしは、残す、渡す、繋げる、ところ。



「愛する者が一日で死ぬから人は苦しむ、と、そう人は思っているが、人間の本当の苦しみはそんな軽薄なものじゃない。本当の苦しみは、苦悩もまた永続しない、という事実に気づくことだ。苦悩ですら、意味を奪われている。」

「誰も同じ川に二度と入ることができない」
「万物は流転するのではなく同じように変化する」

ほんとに笑うくらい度々引用してるけど、、つまりずっとこのようなことを考えていて、今後もそうなのでしょうが、色々を経て、

なくなるから、繋げる
というところにひとまず四月頃行き着いた。

これはわたしの中で結構大きな変化だったのだけど、どうやらやっぱり大切らしい。

作品を通して、人と話して、自分の現在地を知る。


11月cm日

ムカデは切っても死なないと聞いたので
YouTubeで「ムカデ」を検索する。

サムネイル画像のおぞましさに結局動画は見なかったのだけど、検索の代償として、おすすにビジュアル強虫が出てくるようになってしまった。


11月m日

10月末から11月にかけての舞台公演の前、
美容室へ行った。

いつもお世話になっている美容師さんがいたのだけど、体調を崩されて、復帰は未定とのこと。

となると、ゆっくり療養していただいて、
こちらは新しく美容室を探さないといけないのだが
俳優をやっていること、
公演に向けてのヘアチェンジであること、
などを初対面の美容師さんに一から説明するのは中々にハードルが高い。

そもそもわたしはこう見えて(どう見えて?)人見知りの気があり、初対面の人と会う時は黙ってしまうのが怖くてエンジンをかけ、ぶん回しすぎてオーバーヒートするか、オーバーヒートするのが怖くて黙り、借りてきた猫ならまだ可愛いものの、たまに小声で突拍子もなく人の言葉のようなものを発するもんだから周りを困惑させることが少なくない。まあ要はこの歳になってもまだ、自我のバランスが取れておらんのです。

そんな状態で、初対面の美容師さんにきちんと説明することができるのか?もう稽古休みはない、失敗は許されない。考えただけでゾッとする。

ひとしきり震えたあと、仲の良い友達が、小学校の同級生に髪を切ってもらっていることを思い出す。聞くと、つい最近も髪を染めてもらったとのこと。

同級生なら初対面じゃないし!
演劇やってることも知ってるし!
いそいそと予約を取る。

久しぶりに会った彼は、一回りも二回りも大きくなっていた。

役の設定やどんなイメージでお願いしたいかを話し衣装写真を見せると、服が寒色系だから髪もそうすると顔色が悪くなってしまう、暖色系で少しだけ明るくしよう、光が当たるとほんのりピンクくらいはどうだろう?とさらりと提案してくれた。今回は床面がピンクなので、馴染むだろう。わたしにはない発想。ありがたい。

施術中の懐かしい思い出話中、
「大学生の頃、一度髪の相談をしてきてくれたことがあったでしょう」
と彼が言った。

そうだった。
その時は初めてのシェイクスピアの前で、
まだ行きつけのなかったわたしは駆け出しの美容師である彼に連絡を取ったのだった。

「あのときはまだ髪が染められなかったんだよ」
ごめんね、今回はちゃんとやれて良かったよ
と言ってくれた。

できあがりは、控えめだけどとてもいい色だった。本番中のヘアチェンジがしやすいように形も整えてもらって、セットの仕方も丁寧に教えてくれた。髪がきれいになって、とてもとても嬉しかった。

あのときまだお客さんの髪を触れなかった彼が、10年を経て、仲間たちと表参道にお店を出して、たくさんの人たちを喜ばせている。

ほんとうに素敵なことだと思った。

わたしにもできるだろうか。
だろうかじゃない、やるんだ、と思えた。

11月km日

わたしは物語ジャンキーPART2。。

生き方の問題

告解のようであくまでも独善でしかないという強烈な自覚を持ちながら(それはおためごかしとはちょっと違う)、それでいてこの小説が「手紙」というテイをとりながらもあくまで「小説」であるという前提によって結局は「生き方の問題」についての告解として成立している。
「手紙というテイ」という設定を以てメタ視線を挿入する→一度書いたことを取り返しがつかないとする/一度書いたけど4万字消したと書くことは"作家"である自分もしくは"作品"であることから逃げようとしているのか?面白がっているだけか?
いつも思うけどどうしてここまで自分というもの、というか作家であるという自分の特権を引き摺り下ろそうとするんだろうと思う。それは反転してやはり強烈な創作欲望への自覚があるように思うし、なんだか苛烈ですらある。

グラビアイメージDVDが文学に登場するのを見たのも初めてだし、グラビアイメージDVDの映像をプロの小説家が本気を出して描写するとこうなるんだとワロタ。その筆致はほとんどテクノロジーに近い。