2023/12/23
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2023/11/14
ラジオ「uniの映画、言わせてくれ!」
2023/09/29
排気口×山河図コラボTシャツ
排気口と山河図のコラボTシャツが、排気口「時に想像しあった人たち」劇場物販にて販売されます。白/水色の2色展開、各10着ずつで限定20着です。限定20着なのは、プレミア感を出したいとかではなく、山河図の予算限界が“20“だったからです。売れないとやばい。どうかひとつ、よろしくお願いします!!!
「排気口×山河図コラボTシャツ」
⭐︎color:白/水色
⭐︎size:Lのみ(unisex)
⭐︎price:¥2,500-
⭐︎排気口「時に想像しあった人たち」劇場物販にて20着販売。
2023/08/11
静谷静一「点滅症〜そのメカニズムについて〜」より抜粋
「点滅症」という奇病について
1.前提
1-1.明在系と暗在系
「明在系」および「暗在系」は、物理学者デヴィッド・ボーム(David Borm)によって『全体性と内部秩序』("Wholeness and Implicate Order")の中で提唱された考え方である。
ボームは同著の中で以下のように述べている。
「われわれが五感を通じて知る世界は、いろいろな事物に分割され、部分化されているが、それらのものは暗在系に対する、明在系であり、明在系においては、外的に個別化され無関係に存在しているような事物は、実は暗在系においては、全き存在として、全一的に、しかも動きをもって存在している。」(訳:河合隼雄)
この世界は「明在系」と「暗在系」つまり視覚・聴覚といった五感で認識することのできる”視える世界”と、紫外線や超音波などに代表される”視えない世界”の二つに分けられる、ということである。(便宜的に”視える”という表現をしたが、”聞こえる”でも同様。感覚で認識できないという意味)
視覚的なイメージで説明するならば、庭にチューリップの花が咲いているとき、その根元、土の下には視認できなくともチューリップの球根が存在する。このとき、我々が認識できるチューリップの茎や花弁は「明在系」に、球根は「暗在系」に属するとイメージするとわかりやすいかもしれない。(しかしこれはあくまでも構造をイメージしやすくする例であり、根元を掘り返せば球根は視認できるため、実際には明在系に属する。)
1-2.因果性と共時性
河合隼雄は『宗教と科学の接点』の中で以下のように述べている。
「自然現象は、その背景において、共時性の発生に関与する霊的(心の発生源的)な領域(ボームの言葉を借りれば「暗在系」)を共有していると考えられます。そして、とくに科学的な論理・法則によって割り切れる物理的な領域が因果性であり、科学的な論理・法則だけでは全貌をつかみきれない領域が共時性ではないかと考えます。」
共時性(共時性現象=シンクロニシティー=偶然の一致)は、心の深層部(「無意識層(潜在意識)」や魂と言われるもの)において発生し、スイスの精神科医・ユングなどによって研究された現象である。
ユングは『自然現象と心の構造』の中で、以下の様に述べている。
「ある同一あるいは同様の意味をもっている二つあるいはそれ以上の因果的には関係のない事象の、時間における偶然の一致という特別な意味において、共時性という一般的概念を用いているのである。したがって、共時性は、ある一定の心の状態がそのときの主体の状態に意味深く対応するように見える一つあるいはそれ以上の外的事象と同時的に生起することを意味する。」
つまり、ある心の状態、それと意味が一致する物的事象が同時的におきるということである。次に、同書から具体例を挙げた部分を抜粋する。
「私が治療していたある若い婦人は、決定的な時期に、自分が黄金の神聖甲虫を与えられる夢を見た。彼女が私にこの夢を話している間、私は閉じた窓に背を向けて坐っていた。突然、私の後ろで、やさしくトントンとたたく音が聞こえた。振り返ると、飛んでいる一匹の虫が、外から窓ガラスをノックしているのである。私は窓を開けて、その虫が入ってくるのを宙でつかまえた。それは、私たちの緯度帯で見つかるもののうちで、神聖甲虫に最も相似している虫で、神聖甲虫状の甲虫であり、どこにでもいるハナムグリの類の黄金虫であったが、通常の習性とは打って変わって、明らかにこの特別の時点では、暗い部屋に入りたがっていたのである。」
”ある女性”が見た”自分が黄金の神聖甲虫を与えられる夢”は心的事象である。
また 「彼女が私にこの夢を話している間、・・・明らかにこの特別の時点では、暗い部屋に入りたがっていたのである。」の一説で述べられた事象は、女性が夢の話をしている間に起きた物的事象である。
この例を見てもわかるように、ユングが定義した「二つあるいはそれ以上の因果的には関係のない事象」は、(物的事象が二つ以上同時におきることもあるが)まず前提として、常に心的事象と物的事象が対になっていることを指している。さきほどの定義にあるように、ユングは、この例の場合、心的事象(夢)と物的事象(昆虫の出現)が、因果的に関係ないと述べているのだ。
この章の冒頭で引用した河合隼雄の文章は、ことばの上では対立的もしくは並列的な印象のある因果性(ある原因がそれに対する結果としてあらわれるような性質)と共時性の関係について、ユングの考えに反した姿勢を示している。科学が一般的に「因果性がある」と認めているものごとの性質は、先の例で言えば「チューリップの茎や花弁」のようなものであり、私たちが認識していないところに、あらゆる現象の背景があるのではないか、というものである。つまり、因果性と共時性は併立するということだ。
2.点滅症
点滅症(Half Ghost syndrome)は自己の身体が他者の五感で認識できなくなる疾患、またはその疾が発症する症状の総称であり、本間血腫、先天性R型脳梁変成症などと並び世界三大奇病とよばれる。(三大奇病については諸説ある)
点滅症が世界ではじめて報告された症例は1870年のことであり、現在までに2万人程度の症例があるとされるが、遺伝もせず症因も判明しないことに加え、その特異な症状ゆえ治療法が見つかっておらず、また、点滅症を発症しても本人が症状に気づかないまま自然治癒することがある。
2-1.症状
点滅症最大の特徴は「他者が患者を認識できなくなる」という点にある。しかしその症状の持続時間は症例によりまちまちであり、またそれは”消滅”とは異なるとされ、他者が認識できない(=消えている)間も、患者が物理的に消えて無くなっているわけではない。
点滅症による身体への肉体的苦痛・状態異常はほぼないとされている。このため、点滅症を”病症”ではなく”現象”にカテゴライズするべきではないかという声もあるが、点滅症は伝染することがあると言われており、明確な根拠は認められていないものの、この点を”病症”の論拠とする医師は多い。しかしながら、伝染の媒介も発見されてはいない。
点滅症が奇病であり、また、明確な治療方法が発見できない大きな理由は、患者の症状が自己認識ではなく、他者に影響することで確認される点であろう。
つまり、たとえば無人島で点滅症を発症したとしても、患者自身は症状に気づかないことがある。
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昼くらいに下北沢の駅で待ち合わせして、ヴィレッジヴァンガードに行って、値段だけ高い変な椅子とか見て、ディスクユニオンで好きなレコードを安く買って、カフェでメシを食って駅の周りを一時間くらいぶらぶらしたんだけどもうそれで吉田は飽きたみたいだった。俺は序盤から飽きていた。ヴィレッジヴァンガードは俺たちがあと十年も若ければ目を輝かせていたのかもしれないけど来るのが十年遅かった。楽しいって気持ちも齢をとる。それは恋する気持ちもおんなじで、俺は吉田のことが好きだし吉田も俺のことが好きなんだろうけどガキの時分に彼女が俺に向けてた眼差しに比べて今の視線には皺が刻まれているのを俺も知っているし吉田自身も多分自覚している。それでも俺たちはわざわざそういうのを確認するようなことはしない。皮肉なのはそれこそが齢をとった証明であることだ。
もう帰ろうかなんて言わなくても俺たちは駅の方に向かって歩いた。だけど吉田も、もっと言えば俺が「ちょっとあまりにも無味かもしれねー」という気分で、しかしどうしようかというときに「楽園」という劇場が目に入って、そこでこれからお芝居が始まるということが書いてあって、だから俺は吉田に「ちょっと観ていかない」と言ったのだ。齢とったとはいえ俺たちも実のところまだ若いのかもしれないと思いながら、吉田と一緒に地下の会場へ続く階段を降りる。
お芝居は、校舎の地下で誰にも内緒で友情を育む若者と清掃員のおじさんが、数年後に再会し、謎の男も巻き込んで街に突如現れた不思議な屋敷を探訪する、というようなすじだった。文学的な語り口になるのかなと思っていたが後半なんかは映画でいうところの活劇のジャンルで、しかし文学的な着地をする。ここでいう“文学“というのは、さっき書いた語り口としての“文学的”とは少しニュアンスが違う。小説でなくともいいが、何かを読むという行為は、それ自体が、かつてあってしかし今ここにはない過去というひとくさりの時間を現在の中に出現させることで、紙に書き付けられた文字はそれひとつひとつでは意味をなさないが連なることで大きなものに変貌する。今書いたことが文脈というより構造として物語の中におさまっているようなお芝居だった。そしてその“大きなもの”は、だからその性質上必然的に物語の中で帰結するのではなくて見ている観客っていうかたとえば俺の中に染みこんできて共振し変容した。変容したのは、俺がである。
ここだけの話俺は少し泣いてしまったんだけどもそれはなんていうか感動したというのともちょっと違う。俺がお芝居を見ながら考えていたのは、お芝居の中の登場人物たちではなくて俺が吉田と出会った頃、つまりは小学生の頃のあいつらのことだったのだ。
今となっては思い出すことはもうほとんどなくなった。吉田は、俺に比べればまだそんなことないとは思うが。吉田を含めて五人の小学生の俺たちは幼稚な冒険を何度もしたし、夜中の学校に忍び込んだりもした。ずっと一緒にいた気もするけど、それでも鳥瞰すれば小学生という限られた期間の短い付き合いだった。今頃どうしているんだろうかと思わなくもないが、会いたいわけではない。同窓会は開くことも開かれることもない。本当ならお芝居から想起するのは大学生の時分であって然るべきだが、隣に座る吉田が俺に小学生の時代を選ばせたのだ。
劇場を出て吉田が伸びをして「面白かったねえ」と笑ってから、すぐに俺の様子に気づいてどうしたのと顔を覗き込んできた。俺がわかりやすいのかとも思うけど、吉田が俺をよくわかってるんだろう。大概のことには気づけないと自認する彼女がそれでもこれだけは誰にも負けないと矜持を持つのが、俺の表情の機微なのだから。俺は観念して観劇中に考えたことを白状した。吉田はひとしきり「スゴーイ」だの「私普通に面白く観てただけ〜」だの言ってから、ちょっと黙って、口を開いた。
「それじゃあさ、あなたもあのお芝居みたいに、昔のことを書いてみたら?」
「そんなの書けねえよ、俺は小説家じゃねんだし」
「別に小説家になれってわけじゃないよ。私が読みたいだけなんだから私に向けた長い手紙だと思って書けば」
「長い手紙ねえ……」
ぶつくさ言いつつ、俺はそれもいいかもなと思う。俺たちは齢をとる。あんなに必死だった冒険を、俺は“幼稚”と形容するようになった。こうしてふたりしてダラダラ過ごした今日のことも、十年後の俺たちが思い出してくれるとは限らない。思い出せなくなるのならまだいい。思い出してもそれが他人事のように感じる距離のひらきが恐ろしいのだ。
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それからというもの、彼は自分の部屋で何事か懸命に書くようになった。小学生の頃のことを書くんだと言っていたけど、私はまだ読ませてもらっていない。読んだら私も色々思い出すだろうか。彼はどこまで憶えているんだろうか。そう考えると少し笑ってしまうけど、そのあといつも寂しい気持ちが私に残る。振り返れば思い出はいつもきらきらかしら。
小学生の頃、私はずっと体半分たのしかったけど、もう半分は苦しかった。彼にはずっと好きな人がいたのを知っていて、それは私じゃなかったから。今はどうかわからない。だけどそうじゃないとも言い切れない。あなたの気持ちを量るのが得意だなんてさんざ言ってきた私だけど、深いところは私、本当は分からないんだよ。
彼が出かけているときに部屋の掃除のはずみで、机の上に散らばった書きさしの文章をチラリと盗み見てしまった。ちゃんと完成するまで読むつもりはなかったから、表紙?のところだけ。題名はなかったけど、なぜか署名があった。何の気恥ずかしさなのか、本名じゃなくてペンネームだった。【江戸川乱歩】と書いてある。江戸川乱歩って、あの日私たちが観たお芝居に出てきた名前と思ったけど、すぐにそうじゃないと私は気づいてしまった。「江戸川」は彼の苗字。「歩」は私の名前から採っている。それでおしまいにすればよかったけど、知りたいことこそ分からないくせ、気付きたくないことばっかりがいつも目につくものだ。残る一字はあの女の名前じゃないの。「乱」なんて漢字だけ変えて誤魔化したつもり、本当は「蘭」としたかったんでしょう。あの頃を思い出そうと言いながら、この長い手紙は本当にぜんぶが私だけに宛てられているの。今も私は体半分たのしみだけど、もう半分は苦しい。知る必要のないこともある。思い出さなくても良いこともある。部屋の窓から白い光がさしていた。私は顔をあげて、それを無理やり凝視する。欲張らずに今のことだけただ懸命に目を向けて、決して後ろを振り返らなければこそ思い出はいつもきらきら。
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突然御手紙を差し上げますぶしつけを、幾重にもお許しくださいまし。私は日頃、先生のお作を愛読しているものでございます。別府お送りいたしましたのは、私の拙い創作でございます。御一覧の上、御批評がいただきますれば、この上の幸いはございません。或る理由のために、原稿のほうは、この手紙を書きます前に投函いたしましたから、すでにごらんずみかと拝察いたします。如何でございましたでしょうか。もし拙作がいくらかでも、先生に感銘を与え得たとしますれば、こんな嬉しいことはないのでございますが。演劇とっても面白かったです。