・鶴見俊輔による解説の中の以下のセンテンスがこの連作短篇における大江健三郎の祈りの核と思う。
詩は定義する。読者にとって、そのように詩をうけとる時がある。詩の定義の仕方は、数学が定義する、自然科学が定義する、社会科学が定義するのとは、ちがうはたらきで、この言葉をもってこれから生きてゆけば、この領域での経験に関するかぎり、これでやってゆけるという予感をあたえる。
・「怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって」の中に、今まで小説を読んでいてあまり感じたことのない類の感動があった。それは動揺と言ったほうが正しいかもしれないほどになじみのない心の揺れだった。当該シーンは、いつか来たる自分たちの死について長兄のイーヨーに咎めた言い方をした両親に対し、イーヨーの弟妹が反撥するという箇所で、弟が次のように言う。
「──イーヨーは、人指ゆびで、まっすぐ横に、眼を切るように涙をふいていたよ。 ……イーヨーの涙のふき方は、正しい。誰もあのようにはしないけど……」
このセリフの良さ、いやセリフじゃなくて、この切実な想いとイーヨーの泣き方を見て「正しい」と弟が看做すに至る根拠というのは、おそらく「言葉」とか「論理」の外側にある。言い換えれば私たちの外側にある世界の理のようなものに感応したということかもしれない。いやこんなふうに分析というか言及すること自体があまり良くない。この良さ。言葉にできない良さが強烈にある。私はここに、かなり興味がある。
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