2023/07/01

ロバート・A.ハインライン「夏への扉」感想

 あらかじめ申し上げておかなければならないのだが、私はSF小説を全然読んだことがない。読んだことがあると言ってもせいぜい──「読んだことがあると言ってもせいぜい」と書いたものの、何一つ思いつかない。ゼロってこともないのだろうが今この時点で「あれはSF小説であろう」と看做せるタイトルが一つも浮かんでこないし、わざわざ遍歴を紐解いて検証するに見合う成果が得られないのはわかりきっているので、やめる。何かを思い出すまで、「夏への扉」が私の初めて読んだSF小説ということで、もう、いい。
 私がSF小説に疎いのもべつだん苦手意識があるとか忌避してきたということではなくて、単純に他人から薦められた本の中にSFジャンルがなかったであるとか、図書館でてきとうに棚から引き抜いた本のジャンルがSFではなかった、程度の意味しかない。苦手と思うにも素地が要る。チビだった時分に読んだたくさんの絵本や児童向けの物語の中には、きっとSFだってあったろうと思う。小説に限らなくても今マジで「ドラえもん」しか思いついていない。SF(すこし・不思議)でも良いのならばであるが。
むしろというか、だから私にとって「夏への扉」は非常に幸福な出逢いで、今まで誰からも薦められなかったSF小説を人に薦めてもらったことに私は大きな意味を感じる。出逢いがなかったことは「その程度の意味しかない」という言葉で済ませられるが、出逢えたことにその言葉を使うことはできない。アンフェアであろうと私は私の嬉しく思うことを贔屓していく。

 ちょっと調べたところによれば「夏への扉」は世界中の読者に支持されながらも評論家だとかSF専門家にはそこまで支持されていないとのことだが、私はいち読者であるし前述の通りSF初心者でもあるから、「夏への扉」についてSFとしていかがなものなのかという分析はできないし、また興味もない。私はとにかく「おもちおーい」と、ピノコか未就学児みたいな語彙で、つまりフレッシュ!フレッシュ!フレッシュ!な気分で小説を読んだ。以下にだらだらつづける文章は、だから全文それを踏まえている。実際に松田聖子も聴いている。いま。
 資料によると「夏への扉」は1957年に発表された。舞台は1970年であり、また2000〜2001年ということになるが、つまり(2000年はともかく)1957年から展望する“1970年“というのは、フィクションでありながらもある程度こうなる可能性のリアリティを読者に違和感なく感じさせたということか。私がそれを面白いと感じるのは、コールドスリープもハイヤードガールもダン製図機もタイムマシンも発明されなかった1970年や2000年を経過した2023年に生きているがゆえではあるのだろう。私はその“結局小説のような未来にはならなかった”ことを、好意的に思う。そこにはニヒリスティックや冷笑を伴わない。小説は(そうなるかどうかはともかくとして)予言書ではない。ハインラインだってそんなつもりはないはずだ。いかに描写にリアリティを伴っているとしても、作者は「こんなこといいなできたらいいなあんなゆめこんなゆめいっぱいあるけど」の精神で未来を小説にしているのだと思う。これは「夏への扉」が図書館のY.Aコーナーにあったことから、「ドラえもん」の引用にいささかの後ろめたさもなく言える。1957年のアメリカは冷戦下であり、世界大戦直後から始まった核爆弾をめぐる国際的緊張の中にあった。国内の暮らしは(作品内の“1970年“にもあるように)家庭用電化製品や自動車の普及で中産階級にとっての利便が安定したとも言えるが、それは裏を返せば格差の拡大が如実であったということだ。そういう、おだやかさと殺伐さが表裏一体となっていた時代のムードにあって、社会的な小説を発表していたハインラインが情勢を度外視して「夏への扉」を書いたとは、私は思えない。それは小説の冒頭と結末を読めば自然に感じられることだ。ハインラインが「夏への扉」で描いていることは、清濁混じるかりそめの安寧の中にあって時代に流されずに明るい未来を想像し行動するということだろう。表題されている“扉“というのは、この小説においては(後半の展開も鑑みるに)“可能性“とかそういうものを表しているのだろうが、11+1つもある扉のどれかが夏に通じていて、尚且つどれか一つしか開けられないわけではなくて、あくまで“どれか一つが夏に通じている”と言うにとどめるというのが、グッとくるじゃあないですか。主人公は会社を仲良しの男と設立したけれども、嵌められて失敗するわけで、しかしながらもう一度会社を設立するに至る。嵌められた時と同じように、仲良くなった男を信用する形で。もしくは結婚に至らず終わった恋を、今度は結婚の形で。この形式上の反復がすごく大切で、たとえば「痛い目を見たから今度は一人で」などと主人公が思ってしまうのでは、“失ったものを取り戻すために過去に戻ってやり直す“という、タイムトラベル形式の構造をなぞるにすぎなくなるし、もっと言えば、「一度失敗してしまったら、それは結局繰り返されてしまうんだ」という厭世観みたいなものを読者の無意識に教育することになってしまう。そうではなくて、違った状況でありながらも同じ形式で反復させることこそが、「過去の失敗は取り戻せる」ことに通じる。タイムマシンもコールドスリープも存在しない現実を生きるY.A読者層が11+1の扉を、一つ二つがダメだとしても、それでも夏に通じるまで何度でも開け続けるために。何度だってやり直せる。そんなのって現実的じゃないぜと誰かが嘯いても、私は私の嬉しく思うことを贔屓していく。クーラーで冷やされた部屋の扉を開ければ、ついこないだまでは寒かったのに、今度は夏に通じている。

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