ライブ配信は、そのコンテンツにおける卑近さによる物理(感覚)的な距離の接近のみならず、時間的な距離においても"ライブ"の文字通りに視聴者に接近する。
ライブ配信を例にとったが、冒頭で述べたテクノロジーの発展に伴う物理的/時間的な距離の接近は映画にもその影響を及ぼしているだろう。何故ならばかつて映画のみを指していた"映像"というものは、テレビやらインターネット動画やらへと枝分かれし、そこでそれぞれの媒体に併せた印象や意味合いを持ち、そしてそれら印象や意味合いが全ての形態に還元するからだ。
これは現代を生きる市井の若者を描いた(それはつまり"今を描いた")映画を観ればなんとなく分かることだろう。ムードとして。
とにかく現代の映像は、"今ここ"であることこそが重要とみなされてるのだ。
しかし皮肉なことだが技術によって"今"を描くことは、現世の複製でしかない映画(映像)の本質から遠のくこととなっている。
映画を俺たちが観ているとき、画面に映っている人も、風景も、出来事も、すべては「かつてあった」ものであり裏を返せば「今ここにはない」ものである。もっと言えば、映画は虚像だ。実際に撮影されたものであれど、たとえば星野真里はヨウコではない。星野真里だ。画面の外にこそ、そこに映されているものの本当の姿があって、俺たちは画面に没入するふりをして、本当は画面の外を認識し続けている。それが映画を観る俺たちの姿だ。
「さよならみどりちゃん」で全てのシーンにおいて画面に映っているモノは、映っていないモノを示唆している。それは場所とも時間とも、そして人とも言える。キャラクーたちはその場にいながらして常に、「ここではない場所」のことや「今ではない時間」のことや「今ここ にいない者」を夢想する。ここではない場所も今ではない時間も今ここにいない者も、世界にはたしかに存在するはずなのに、同時にそこには絶対的な"到達の不可能"がある。ヨウコが"みどりちゃんとユタカ"(場であって時間であって人)についに遭遇し全速力で追いかけてるもたどり着けないというシーンにそれは象徴される。
その次のシーンで到達の不可能を身をもって知ったヨウコがアテもなく(アテは闇に消えたのだから)彷徨い歩き続けた果てにゆたかに出会う。みどりちゃんの影は残像として俺たちの中にだけはあるが、ヨウコとゆたかは、ここで遂に対峙をする。
そこで行われるセックスを、"今・ここ・今ここにいる相手"と描くために、まんをじしての長回し撮影が採用されているというのは本当に見事で的確なこったろう。
そしてこのシーンを以て、映画はそこに映されていないことを描くことに決着し、準じてキャラクターも今・ここ・今ここにいる相手を見つめることになる。しかし映画は終わらない。今度はマゾヒステリックかつサディスティックな問いを投げかける。
今・ここ・今ここにいる相手、ならば、手を伸ばせば手が届くのか?と。
ヨウコが恋の結末、つまり彼女がゆたかのヘラヘラに合わせてヘラヘラと避けていた今・ここ・今ここにいる相手に向き合うその一方で、未だ"到達の不可能"ゾーンに囚われている者がいる。
それは誰であろう、俺たち観客である。
同時性を拒絶するこの映画が築き上げたシステムに、映画およびキャラクターは決着するも、観客は依然として過去かつ虚像を観続けているのだ。
俺たちは思う。
映画とは結局そういうものか。俺たちだけは手を伸ばすことができない。いやそれでいいんだけどさ。
俺たち無力な観客はそんなよるべなき諦めを、こちらに背を向けたままのゆたかに向けたヨウコの視線に重ねる。だけどヨウコは"今"を生きてるじゃん!とも思いつつ。
どうすりゃいいんだよ!
映画を観続ければいいのだ。
果たして哀れな俺たちが目にするこの映画のラストシーンは恋の顛末ではない。
ヨウコが避け続けていたもう一つのことで終わる。そしてこれも、長回しで。
映画が終わる。
エンドロールで流れるのはユーミンの「14番目の月」である。この歌の歌詞は、歌がヨウコに向けられているようでいて、映画が観客に向けて歌っていることでもある。
「14番目の月」は"予感"についての歌だ。
予感とは常に未来に向いている。
映画の本質である過去性に絶望して、テクノロジーで同時性を希求する必要はないのだ。
映画は時として俺たちが伸ばすことを諦めた手をあちらから伸ばしている。
そして俺たちが映画を観終えたあとに目にする画面の外側とは映画鑑賞という時間を踏まえた未来だ。「映画とは結局」とはここで口にするべきだった。
映画とは結局そういうものか。
いいもんですねぇ!とおれは思った。