そもそも論だが、竹の棒で他人を思いっきりぶっ叩くなんてことは倫理的におかしい行為なんじゃないか?もっと言えば剣道における「ぶっ叩く」というのは表層であって、根にあるのは「斬る」行為つまり殺人の手段だ。他人を斬っていいわけなくない?
ちょんまげと共に消滅した殺人術が斬る行為から叩く行為にダウングレードして残存したのが剣道であり、そこについて①なぜ生き残っているのか?②どうやって生き残っているのか?ということを「知らんけど」という語を準備してから考えると、①は形がなくなっても動物として消えない本能としての暴力欲求(現代的には狂気だろう)に因るのであり、②は武道の"道"の部分、要は行為を通して自己を研鑽する為に様式に重点を置いたことに因るんじゃないか。知らんけど。
2人の主人公の設定・環境は物語におけるキャラクター作りの手本のように鏡合わせになっているが、2人に共通しているのは「なぜか剣道がめちゃくちゃ好き」ということである。
"なぜか"なもんだから、当たり前のように2人ともその言葉にぶち当たって悩むことになるけど、それぞれの理由はともあれ、2人の剣道への姿勢・というか態度は、それぞれ先程述べた剣道が現代で残存している①と②をそれぞれ担っている。西荻が①で礒山が②だ。①と②は共存してはじめて成立するので、ひとつずつしか持たない2人は、同じものを好きでありながらお互いの態度に畏怖を覚える。
それでもお互いがお互いの態度に敬意や羨望を抱いて視線を外さないことこそ、剣道が現代まで生き残っている証明のように思う。
制服のまま対峙する終盤のシーン、あれは完全に死合であり("防具"をつけないわけだし)、それでいて単なる喧嘩・叩き合いにならないのは剣道の様式に則っているからだ。この作品のタイトルに冠されているのが剣道ではなく武士道なのは、こういった相反するような"在り方"が剣道にのみならず武士道に通じているからなんだろう。
剣道を通じて武士道を見つめる二人の姿を、画面を通じて見つめる観客。
この映画が教科書のように視線を強調し(セリフまでも)ているのは、映画の内であろうが外であろうが、見つめるという行為はおんなじことなんですよと、そういう風に作られているからなのかもしれませんね。
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