2020/12/24

配信企画「ゴテンバサノバザール」第1回出演者募集

メリークリスマス!

このたび、noteにて志水あみが書き溜めていた"めのん"のテキストを、リーディング配信形式で発表しようと思います。

さっき決めましたが番組名は「ゴテンバサノバザール」にします。

そこで、朗読という形で出演してくださる方を募集します。


参加の仕方を説明します。

こちらにアップロードされている台本から一本選んでいただき、参加希望の旨を後述の手段でお伝えいただいてから、ご自身で録音してください。第1回の応募〆切は2020年12月31日とします。

②録音した音源ファイルをメール添付やgiga fileなどにアップロードしていただき、後述する①と同じ手段で送ってください。

③送っていただいた音声ファイルをこちらで、アンカーというポッドキャストWEBにアップロードいたします。


以上です。簡単ですね。

それでは、ことのおこりを説明します。


 ふと、自分が書いたテキストを誰かが読む際に自分の指示なく読まれてみたらどうなるのだろうか?という興味が湧きました。

その「ふと」の経緯を申し上げます。

 今から少し前、ひみつのボイス投稿サイトみたいなWEBサイトに足繁くアクセスしていた時期がありました。

そこでは本当にいろいろな人が、短い作品を発表していました。

そんな中で私はひとりのうp主に出逢います。

もちろん仮名ですがたとえばその方の名前を「佐野☆ごてんば娘」としますと、私は佐野☆ごてんば娘さんの作品にイッパツで魅せられ、3年余分のアーカイブをすべて拝聴し、入眠のお供にしていました。

 しかし、私が聴き始めてからほどなくして、佐野☆ごてんば娘さんは投稿をやめてしまいました。

そして遂にSNSで「もう引退します」と宣言したのです。

ひみつボイス投稿サイトは葬式のようなムードに包まれました。コメント欄には佐野☆ごてんば娘さんの引退への労いと惜しむ声が昼夜を問わず寄せられていました。

 私も、ひみつボイス投稿サイトには疎遠になり、時々覗きに行く時も、日暮を好んで参るようになりました。

私は考えました。なぜ私(たち)は魅せられていたのでしょう。

声質?ストーリー?いえ、その正体とはおそらく、佐野☆ごてんば娘さんという全くの他人が、テキストを読むその行為自体に魅力を感じていたのです。佐野☆ごてんば娘さんはそのパイオニアであったのです。

そしてそう考えたとき、佐野☆ごてんば娘さんが作品の中で言っていたこんな言葉が私の中で何度も響きました。

「声に出した方がいいんだよ。声に出すとすごく気持ち良いんだから」


私は映画の脚本以外のテキストにおいては書くことそれ自体を目的とした寝小便のように作ってきました。しかし、佐野☆ごてんば娘さんの上記文言が私の中でもはやハウって聞こえてきて、今回の企画の発起に至ったというわけです。


はじめは、私が応募してくださった方に演出をつけようかなとも思っていたのですが、私も一個体であるというのと、ともかく皆さんが「どのようにテキストを読み解き」、それを「どのように発声するのか」(この2つの作業がつまり演出ということです)ということに強い関心を寄せている現状なので、一旦応募者の方にお任せしようと思っています。とはいえそのうち自分でも演出したい欲がむらむらと湧き出る予感もしていますが。


長くなってしまいました。すいません。

あらためて要項を記載します。


【企画概要】

こちらのページに載っているテキストから出演者に一本選んでいただき、その音源をポッドキャストWEBにてすべて発表する。

・私からの演出はありませんので、ご自由に読んでください。ご自身で編集やSEをつけていただいてもかまいません。


【手順】

こちらへのメールもしくは、TwitterこちらのアカウントへのDMで参加希望の旨をお伝えください。第1回の応募〆切は2020年12月31日とします。

②「ありがとうございます」的な挨拶返信を致しますので、その返信から1ヶ月以内》に、録音を行い、音声ファイルをメール添付やファイル共有サイトURLという形で①と同じくメールもしくはDMにてお送りください。その際、出演者のお名前を明記してください。複数で参加する場合は全ての参加者のお名前をお書きください。

③頂いたファイルを順次WEBサイトにアップロードし、完了次第お知らせいたします。


【注意事項

・作品の著作権は作者である「志水あみ」と出演者様のどちらも有するものと致します。よって、アップロードされた作品をご自身のホームページなどにアップロードする場合は、志水あみによる執筆である旨をお書き添え下さい。

双方ノーギャランティーとなります。それに伴い、テキストを使っての商業公演や音源の販売はお控え下さい。(ただし無償であれば、ご連絡くだされば許可いたします)

テキストの文言の改変、構成の変更は禁止とします。


たくさんのご応募お待ちしております!!!!!!!!!!!!!



2020/12/05

GekidanU家公演『With Home』「転がって若草」

  震える膝で最初に申し上げますと、感想とはつまり、対象を自分がどのように見えたか/どのように思ったか?なので、作者の意図を汲んでいるかどうかは分かりません。
 わざわざこんなことを前置きするのは、作者の木村美月さん、演出のヒガシナオキさんの描きたい(伝えたい)テーマをわたしがどのくらい"読み解いたか"という点にわたしはわたしが心許なく、尚且つ「まぁそんなんどうでもいいと思う、弁論じゃないし」という、創作を鑑賞することそのものへの基本姿勢があるからです。
 
 かなり冒頭から「これはシャレにならんのでは?」と思っていたがいやいやすごすぎる!!!!!!!!!!!!!!!!面白すぎる!!!!!!!!
 記憶力が少なく、文章をまとめる力も少ないので、以下、羅列の形式をとらせていただきます。力不足と根気の無さが情けないです。

・食事当番の若草さんが食事当番を忘れ、やれやれと呆れながら残る三人は「昨日の鍋」にちょい足ししたものを食べるわけだが、わたしはその弛緩した光景を見ながらかなり感動していた。端的だったから。
 彼らは、「望んでない昨日の鍋をやれやれと食べて腹を満たす」というキャラクターなのだ。その、「満たされないものを(無意識的に)甘受してむりやり満たす」という行為が、共同体を示すアクションを超えて、彼らの現状を、環境を、現状と環境の原因たる人間性を表している。ズバリな光景だ。
 
・若草さんを除く三人のうち、さつきとさえはテーブルで食事をするが、ゆうこは立ったままだ。
ゆうこはそうだ。ゆうこはそうだーー!!!と思った。
後ほど言及されるようにゆうこは「やなせ屋」を回しているのだ。そして彼女だけがなにがしかを執筆するのではなく、結婚に代表される「生活」を当面希求している。彼女は書生として脱落しているのだ。皆がそれぞれ食事する中、自分の執筆をする中、ゆうこはポン酢をもらいに行き、食洗をする。つまりあのテーブルは「書生」を表している。だから、若草さんもテーブルにつくものの、彼は食事の途中でたばこを吸いに隔離空間に行ってしまう。そのアクションで「やなせ屋の書生」から別の場所に行く存在であることは象徴されている。そしてあのテーブルで食事を再開しない。
 
・若草さんがしばしば向かう隔離空間というのは、彼があの家の中で異物として存在しまたそのように扱われていることの象徴だけど、それよりも梯子だ!!!!梯子がかかっていることが凄い。言い換えれば、"隔離空間に梯子があってその先に部屋がある"という舞台を物語であのように活かしていることが凄い。若草さんは執筆に際し(おそらくあの梯子の先に若草さんの部屋があるのだろう)、梯子を上る。そして時々、残りの三人のいるエリアに降りてくる。降りる若草さんはいつもおそるおそるである。そのおそるおそるさや、おどおどした態度の袂にあるのが若草さんという人間の残酷性であり、そこに他の三人が気付いているのか気付いていないのか曖昧な感じに描いているというのが作者の残虐性だ。
 
・登場人物たちは時々それぞれの理由で舞台から退室するが、さつきが退室する理由が「洗濯機を見に行く」なのが最高だった。洗濯機とは、機内にて衣類がグルグル回る。さつきってそういう人だろう。
 
・ラストシーン、部屋から出て行く若草さんはあの光さす部屋で最後にたばこを吸う。
彼がたばこを取り出した時、おれは「たばこを吸うかと思いきや吸わないで出て行く」んだと思った。しかして彼はたばこを吸う。あれ?と思ったが、彼は!二度ほど煙を吐き出して去ったのだ。おれはアッ!と感動した。彼が煙を吐き出す姿が、さながら出航する船のように見えたからです。
そのように見えたのです!!!!!!
 
 冒頭にも批判に先んじて書いたとおり、おれは"そのように見えた"ことこそが重要だと思うし、"そのように見える/思える"ことこそが創作の意義とおれはします。
そして、"そのように見える/思える"作品がいったいいくつありましょうかという話です。
感想なんで推敲もしません。なんだか情けなさも苛烈し、ヤケぱちな気持ちになってきました。とにかく、本当に面白いと思いました。

2020/11/25

ルクス・エテルナ 永遠の光

今日知ったのだけどポリゴンは20年前のあの事件でピカチュウを憎むようになってしまい(ポリゴンショックと名づけられたあの事件の該当カットは実はピカチュウのそれだったから)、その結果ピカチュウの皮をかぶってミミッキュと名乗るようになった──みたいなホントかウソかわからない逸話があるらしい。その逸話がメタ的なものであれ、ポリゴンは哀れなままである。

万全で観に行っても体調を壊してしまうのだが、映画が観客に物理的攻撃を仕掛けてくる映画がいくつあるのだろうかと考えると思いつかないしきっとこれからも出てこない。であればやっぱりこの体験は得がたいと思ってしまう。
だけどその物理攻撃を除いてもめちゃくちゃおもしろく、ギャスパーノエの「ワテはこう思いますねん」っていう所信へはその通りだなぁと思わされたし、「ふざけんなよ!」と笑うしかない帰り道までがセットだと思うし、この映画は二度と観ないだろうが次回作も絶対観たい。

ギャスパーノエは冒頭のミミッキュの逸話を受けてこの映画を作ったのであろうか?多分そんなわけないけど、絶対にそんなわけないとも言い切れない。そしてもしもそんなわけなかったとしても、ギャスパーノエいや"ギャスパー"の「すべての映画と映画人は作品を商品から芸術にするべきである」という意志とそれに基づき作られたこの映画は、すべての観客を攻撃しながら、あの、"商品"世界で非難の雨にさらされ続けたひとりぼっちのポリゴンを傘に入れてあげたことになる。

2020/11/22

femme fatale 「恥晒し(feat.ゆゆうた)」

femme fatale「恥晒し(feat.ゆゆうた)」 MVを澁谷が監督しました。




リリース、サブスクも解禁されております!

2020/11/07

バルタザールどこへ行く

バルタザールギザカワイソス( ;  ; )」というのが感想なのだがバルタザールを虐めていたのは俺たちであった。
バルタザールの正体はなんだったのかみたいな思考の逡巡や議論は豊かなことであろうけど、俺は「ロバ」と思うね!!だってロバじゃん!!!
 
ロバだからああいう風に扱われている。
ロバだからああいう風に扱われても周りが何も感じられずに"いられる"んだろう。
マジそもそも俺たちはロバを「ロバなんだから」と思っているんだなぁ。

だけどそれは決して異様なことではない。
区切ってもう一度言うけど、それは、決して、異様なこと、では、ない。
ラストシーンで俺はダメ押しのように思った「バルタザールギザカワイソス( ;  ; )」と。しょこたん語になったのはしょこたんが動物好きであるからだ。しょこたんがのりうつったにすぎない。ではしょこたんであった俺の正体とはなんだったかと問われれれば「人間」なのです。だから決して異様ではない。

劇場版 鬼滅の刃 無限列車篇

 えんむが言うところの「夢を見ながら死ねるなんて幸せだよねぇ」というセリフに俺は「確かに〜」と思ったし、少なくともこの映画においては正しいことを言っている。
というより、突き詰めていくとそれがこの映画のテーマであると思います。
劇中では夢から脱出する(=現実を生きる)ためには夢の中で自殺をしなければならないが、つまり「死」という一点を中心に現実と夢は対に位置している。そして、"現実を生きる"為には(死への)恐怖が伴う。
煉獄さんは夢の人であるところの母の姿を幻視して死ぬが、(広義で)夢を見ながらの彼の最期は笑顔であり、「やりとげた」「守り抜いた」幸せの中で死ぬのだ。
対して、生きながらえた三人は煉獄さんの死を発端として自分たちの無力さ(それはつまり自分たちの現実ということだろう)に絶望して泣く。
えんむが言っていた「夢を見ながら死ねるなんて幸せだよねぇ」は、逆に言えば「生きて現実を見るのは苦しいよね」ということだ。そういう対比になっているのだ。
ということは単なる敵キャラの戯言ではなく、この映画における世界観なのである。

 付け加えると、あかざが煉獄を鬼に誘うとき「人間は老いるから死ぬからダメなのだ」という。老いも怪我も死もない自分は幸せであるからお前もそうなってみようよという論旨であり、さっき書いた「生きて現実を見るのは苦しいよね」に対して、えんむとは異なるアプローチで提言している。
煉獄さんは「人生は限られているから美しい」という返答をする。その際彼は「おまえとは価値観が違う」という言葉を使う。
なんで鬼滅の刃ってこんなにヒットしてんの?とずっと思っていたのだが、「観てる俺らの人生もメチャ苦しいから」っていうのもあるのかもしれないですね。であるならば、この映画は無意識下で「あるある系」なのかもしれない。

※エンドロールの演出だけはマジで蛇足じゃないですか?
黒バックに白字を淡々と出すだけで、通例そのようになっているから だけではなく「喪」の意味が生まれる気もするし、あんなことしなくても観客はあの時間全員、煉獄さんの顔を思い出しているだろ。
大切な人の姿は現実に目に見えなくても心の中では視えるのだと、そういう話だったじゃないか。
 
https://filmarks.com/movies/86962/reviews/100080172

2020/09/04

「複製」

新作短編映画「複製」が、東京都「アートにエールを!」にて公開されました。

こちらから視聴できます。

 

「複製」

【出演】西村理佐/東海林陽助/工藤ちゃん/るんげ
【音楽】肉汁サイドストーリー

【監督・脚本】澁谷桂一

2020/08/21

さよならみどりちゃん

映画……というか映画にのみならず映像および映像を視聴するという行為がテクノロジーの発展に伴って急速に獲得したものは「距離(の解消)」である。それは物理的な距離のみならず時間的な隔たりのこともそうだ。

2020年8月20日21時に"女子のあこがれ"の一時代を築き上げた白石麻衣やんがYoutubeアカウントを開設しライブ配信した。ファンにとってあこがれ、言い換えれば到達できない存在でしかなかった白石麻衣が/それまでは画面の向こうのスタジオや、ステージや、握手会の行われる会場という隔たれた場所にしかいなかった白石麻衣が、YouTubeライブ配信というそこらへんの女子高生でも日常的に行なっていることをしていたのだ。

ライブ配信は、そのコンテンツにおける卑近さによる物理(感覚)的な距離の接近のみならず、時間的な距離においても"ライブ"の文字通りに視聴者に接近する。

ライブ配信を例にとったが、冒頭で述べたテクノロジーの発展に伴う物理的/時間的な距離の接近は映画にもその影響を及ぼしているだろう。何故ならばかつて映画のみを指していた"映像"というものは、テレビやらインターネット動画やらへと枝分かれし、そこでそれぞれの媒体に併せた印象や意味合いを持ち、そしてそれら印象や意味合いが全ての形態に還元するからだ。
これは現代を生きる市井の若者を描いた(それはつまり"今を描いた")映画を観ればなんとなく分かることだろう。ムードとして。
とにかく現代の映像は、"今ここ"であることこそが重要とみなされてるのだ。

しかし皮肉なことだが技術によって"今"を描くことは、現世の複製でしかない映画(映像)の本質から遠のくこととなっている。
映画を俺たちが観ているとき、画面に映っている人も、風景も、出来事も、すべては「かつてあった」ものであり裏を返せば「今ここにはない」ものである。もっと言えば、映画は虚像だ。実際に撮影されたものであれど、たとえば星野真里はヨウコではない。星野真里だ。画面の外にこそ、そこに映されているものの本当の姿があって、俺たちは画面に没入するふりをして、本当は画面の外を認識し続けている。それが映画を観る俺たちの姿だ。
「さよならみどりちゃん」で全てのシーンにおいて画面に映っているモノは、映っていないモノを示唆している。それは場所とも時間とも、そして人とも言える。キャラクーたちはその場にいながらして常に、「ここではない場所」のことや「今ではない時間」のことや「今ここ にいない者」を夢想する。ここではない場所も今ではない時間も今ここにいない者も、世界にはたしかに存在するはずなのに、同時にそこには絶対的な"到達の不可能"がある。ヨウコが"みどりちゃんとユタカ"(場であって時間であって人)についに遭遇し全速力で追いかけてるもたどり着けないというシーンにそれは象徴される。

その次のシーンで到達の不可能を身をもって知ったヨウコがアテもなく(アテは闇に消えたのだから)彷徨い歩き続けた果てにゆたかに出会う。みどりちゃんの影は残像として俺たちの中にだけはあるが、ヨウコとゆたかは、ここで遂に対峙をする。
そこで行われるセックスを、"今・ここ・今ここにいる相手"と描くために、まんをじしての長回し撮影が採用されているというのは本当に見事で的確なこったろう。
そしてこのシーンを以て、映画はそこに映されていないことを描くことに決着し、準じてキャラクターも今・ここ・今ここにいる相手を見つめることになる。しかし映画は終わらない。今度はマゾヒステリックかつサディスティックな問いを投げかける。
今・ここ・今ここにいる相手、ならば、手を伸ばせば手が届くのか?と。

ヨウコが恋の結末、つまり彼女がゆたかのヘラヘラに合わせてヘラヘラと避けていた今・ここ・今ここにいる相手に向き合うその一方で、未だ"到達の不可能"ゾーンに囚われている者がいる。
それは誰であろう、俺たち観客である。
同時性を拒絶するこの映画が築き上げたシステムに、映画およびキャラクターは決着するも、観客は依然として過去かつ虚像を観続けているのだ。
俺たちは思う。
映画とは結局そういうものか。俺たちだけは手を伸ばすことができない。いやそれでいいんだけどさ。
俺たち無力な観客はそんなよるべなき諦めを、こちらに背を向けたままのゆたかに向けたヨウコの視線に重ねる。だけどヨウコは"今"を生きてるじゃん!とも思いつつ。
どうすりゃいいんだよ!
映画を観続ければいいのだ。
果たして哀れな俺たちが目にするこの映画のラストシーンは恋の顛末ではない。
ヨウコが避け続けていたもう一つのことで終わる。そしてこれも、長回しで。

映画が終わる。
エンドロールで流れるのはユーミンの「14番目の月」である。この歌の歌詞は、歌がヨウコに向けられているようでいて、映画が観客に向けて歌っていることでもある。
「14番目の月」は"予感"についての歌だ。
予感とは常に未来に向いている。
映画の本質である過去性に絶望して、テクノロジーで同時性を希求する必要はないのだ。
映画は時として俺たちが伸ばすことを諦めた手をあちらから伸ばしている。
そして俺たちが映画を観終えたあとに目にする画面の外側とは映画鑑賞という時間を踏まえた未来だ。「映画とは結局」とはここで口にするべきだった。

映画とは結局そういうものか。
いいもんですねぇ!とおれは思った。


2020/08/15

武士道シックスティーン

そもそも論だが、竹の棒で他人を思いっきりぶっ叩くなんてことは倫理的におかしい行為なんじゃないか?もっと言えば剣道における「ぶっ叩く」というのは表層であって、根にあるのは「斬る」行為つまり殺人の手段だ。他人を斬っていいわけなくない?

ちょんまげと共に消滅した殺人術が斬る行為から叩く行為にダウングレードして残存したのが剣道であり、そこについて①なぜ生き残っているのか?②どうやって生き残っているのか?ということを「知らんけど」という語を準備してから考えると、①は形がなくなっても動物として消えない本能としての暴力欲求(現代的には狂気だろう)に因るのであり、②は武道の"道"の部分、要は行為を通して自己を研鑽する為に様式に重点を置いたことに因るんじゃないか。知らんけど。

 
2人の主人公の設定・環境は物語におけるキャラクター作りの手本のように鏡合わせになっているが、2人に共通しているのは「なぜか剣道がめちゃくちゃ好き」ということである。

"なぜか"なもんだから、当たり前のように2人ともその言葉にぶち当たって悩むことになるけど、それぞれの理由はともあれ、2人の剣道への姿勢・というか態度は、それぞれ先程述べた剣道が現代で残存している①と②をそれぞれ担っている。西荻が①で礒山が②だ。①と②は共存してはじめて成立するので、ひとつずつしか持たない2人は、同じものを好きでありながらお互いの態度に畏怖を覚える。

それでもお互いがお互いの態度に敬意や羨望を抱いて視線を外さないことこそ、剣道が現代まで生き残っている証明のように思う。

制服のまま対峙する終盤のシーン、あれは完全に死合であり("防具"をつけないわけだし)、それでいて単なる喧嘩・叩き合いにならないのは剣道の様式に則っているからだ。この作品のタイトルに冠されているのが剣道ではなく武士道なのは、こういった相反するような"在り方"が剣道にのみならず武士道に通じているからなんだろう。

 
剣道を通じて武士道を見つめる二人の姿を、画面を通じて見つめる観客。

この映画が教科書のように視線を強調し(セリフまでも)ているのは、映画の内であろうが外であろうが、見つめるという行為はおんなじことなんですよと、そういう風に作られているからなのかもしれませんね。

武士道シックスティーン - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ・動画配信 | Filmarks映画

劇場

・物語的な感想をまず言うと共依存ではなく呪縛が延々に描かれていてそれは
①「朝日って怖くない?」「わかる」

②「ずっと昼なのに俺らの体は夜になるのと、夜になっても俺らの体は昼のまんまなのとどっちがいい?」という2シーンのセリフでおそらく示唆してるんでしょう。
そういう類の呪いについての物語であってその呪いをかけたのは沙希ちゃんだ。
マジでなんなんだあの女。あんな女の子いたらそりゃ才能あっても枯れますわいな、こわ。つーかおまえも頑張れよ!いや呪いに自分もかかってるからしょうがないか!
だとしてもラストシーンのあの女のセリフはめちゃくちゃむかついたけどな、おれは。
物語への感想おわり。

・おもしろいのかおもしろくないのか最後までよくわからなかった。
おもしろいのかおもしろくないのかよくわからないというのは、良くもあり悪くもある。

これを観た人が「あるあるって感じだよ」と言っていたけど全然あるあるじゃないじゃん!むしろ「あるある」を排除していった映画のように感じた。まずあんな出会いありえねぇだろ!

というか、"あるあるが"排除されているというのはそれが意図的であれ副次的なものであるように思う。
この映画から徹底的に排除されているのは共感である。具体的には「何かが起きている時間」であり、「本来描くべき時間」を省略することで共感を排除している。
映画において省略という作業を施す場合、基本的にA→B→CというシーンがあればBを省略しA→Cを繋げば穴埋め式にBは観客に了解されるのでそのようにすると思うんだけど、この映画はなんというかBが連続するというか、かなり些末だろという断片が連続して虫食い状態が延々と続く。
でもこれはおそらくわざだと思っていて、つまりはそのように本来省略されても構わないようなシーンばっかり映すことで、共感をさせないようにしているのではないか?
(あるあるというのはつまり共感なので、共感を許さないようにつなげていけばあるあるも結果的に排除されるというのが冒頭に書いたことです)

永田の行動や性格を好意的に捉える人はいないだろうし(いないというか、意図として完全に永田は客に嫌悪感を持たせるようなキャラクターにされている)、その永田をず〜〜〜〜っと好きな沙希の心理も、だから客は理解できない。沙希が永田を好きになるきっかけも描かれなければ惚れ直すようないいところも一度も垣間見えない。

ではなぜ観客に共感を許さないのか?
その方が美しいからだ!!!!!!!!!
銀杏BOYZの「僕たちは世界を変えることができない⁇?」という曲?というか、曲?トラック?があって、そこでは峯田が当時のバンドメンバー3人に、自分が長澤まさみといかに偶然・それゆえ運命的に出会うかの妄想を延々語るのだが、飯田橋だかどっかの駅で俺と長澤まさみさんが偶然出会ってその時俺もドキドキするけど長澤まさみさんもなんか感じると思うんだよみたいなことを言った時に3人のメンバーが「???」という反応をする。その時峯田は「わかる?わかんねぇかお前らには。でもいいんだよ、お前らがわかんねぇ分だけ、俺と長澤まさみさんは地球上で2人きりになれるんだから。」と言うのである。

「劇場」で施された共感の排除の意図とはつまりそういうことだと俺は思うし、それは"愛"というものを描く際に正当な態度であるとも思う。永田にもおそらく良いところはあり、彼らにもおそらく傍目から見て幸福な時間があったのだろう。しかしそれは、彼らだけのものだと、多分そのように扱われている。

しかしながら、だからといってそれは「おもしろい」ということにはならない。
「正当な態度」であれ別に興味の持続にはつながらないしむしろ興味を持続させるような「描くべきシーン」を意図的に排除したことでずっとこいつらに全然興味が湧かない。これはもうそういう監督なのか単純にウマが合わないのかは謎ですが映画的な興奮もない。
個人的には「映画」というより「小説の映像化」でしかないと思ったし、これだけモノローグで物語を進めているのは原作への敗北でしかない。だったら小説で読めばいいじゃんこれはそもそも小説として成立しているものなんだから。映画としてだるい。

とはいえ。
一箇所だけ、完全に虚をつかれ心臓を思いっきり蹴られたところがあった。
チャリの長回しでも部屋が劇場に変貌する箇所でもない。それらは、いいけど、「なるほどね」としか思わなかった。
そうじゃなくて、なんかマジ意味わかんない、いや意味はわからなくもないんだけど明らかに雰囲気が歪む、堀禎一の映画みたいなめちゃめちゃイビツな1、2秒があった。むしろその1、2秒によって2時間観続けてしまったと言ってもいいかもそれない。別に共感して欲しいわけではないので割愛する。

 

https://filmarks.com/movies/85255/reviews/95351705

2020/08/03

牧野真莉愛 イラスト執筆現場に密着!!2

モーニング娘。'20の牧野真莉愛さんがただただメジャーの表紙を模写する映像がモーニング娘。公式ユーチューブチャンネルで発表されたのだが、前回6時間かけてルフィを描いた企画にどうして続編があるんだよおそらく映像としてははおんなじだろ!と思いながら観たが結局「凄すぎる…」と思わされてしまった。鋼の錬金術師のテーマである「全は一、一は全」というそれってつまり世界の理なのだが、理解に至った。今なら掌を合わせるだけで錬成ができるかもしれない。

"前回と画が変わらない、そして画が変わらない(その変わらなさこそ苛烈である)こと"が、視聴者に17分間という時間的な苦痛を与えつつ、牧野真莉愛自身は時間で言えばその約36倍の のべ12時間という圧倒的な長さの時間の中で行為を変えず、表情を変えず、ただ絵を描きつづける。

クソやばいのはオリジナルの絵を描くのでもなくかといってトレースするのでもなく”模写”であるという点で、つまり芸術ではなくどちらかといえば製品に近い。その意味で牧野真莉愛は芸術家ではなく職人なのだろうが(こだわりもいかにオリジナルに近づけるかという点にしかない)、イラストが模写ということは裏を返せば"模写でしかない"ということでもある。つまり完成された絵の"作品として"の価値はオリジナルを超えないし無ですらある。牧野真莉愛自身、そしてこの動画の本質とは結果としての完成イラストではなくそこに至る道程であり、だからこの映像の全ては適切であり芯をくっている。





2020/07/27

PERFECT BLUE 夢なら醒めて……

アニメ版パーフェクトブルーが大傑作なのに比べて実写のコレはなんなんだよいい加減にしろ観る価値なしみたいなレビューばかりで、そういう意見に対し別に強く反論するつもりはないのだけども、俺はこっちの方が好き。

というか「良かった〜」とか「面白かった〜」とかではなく「好き!」「ずっと観ていられる!」という"気持ち"が心の前面で暴れる映画というのは、いや映画でなくとも、滅多にあるものじゃないなぁと思う。好きという気持ちは果てしなく理性に統御されないからこの気持ちはしょうがない。よるべない。
綿密に計算され設計され表現されたアニメ版に対して、現象の理由も謎、キャラクターの行動も心理状況も謎(それは描かれないということではなく無軌道に近い)、ただそうなってるからそう撮っただけ、である実写版に対して、頭で面白がるのではなく心が惹かれてしまったのは、ある意味で自然なことで、嫌いな人とか全く面白くないと感じる人に反論するつもりもないというのも、そりゃそうだなと自分にガッテンします。

 

https://filmarks.com/movies/31757

2020/07/03

はちどり

そもそも論だけど中学生の女の子の鬱屈した生活を延々と観て、大人がなにを感じるのか?
というか、なにかを感じていいのか?
もう思い出せなさすぎて他人事のような十代を、必死な当事者に投影して懐かしむ行為は、なんか…いいのか?やっていいのか?
それがこわい。


中学生なんてそうでなくても毎日意味わかんなくてイライラしっぱなしでしょうから、そういう戦場にいる子たちには勇気になるかもしれない。
自分だけではない!と思うかもしれない。

 

https://filmarks.com/movies/84060?mark_id=92726862

2020/04/13

セブンス・コンチネント

 断捨離映画。

家族が力を合わせて家庭崩壊させる、と文字にしてみれば笑ってしまうが、共同体としての家族に通底する絆の強さというか、人間性なのか、強〜いと思わされる。仲良しなんだな。

ぶっ壊すときにまず機能(=存在の存在たる意味)が失われる、失わせるというのはとても合理的で、シャツのボタンを弾け飛ばせ→切り裂くという描写が最初に置かれるのは、家族の行為が単に破壊ではなく失効を目的としているということがわかりやすい。

終始ブレッソンやんというのは簡単だけど、失効をゴールに据えていると考えると、ブレッソンへのオマージュというよりも手元や顔へのアップによって映画自体が最初から世界の情報よりも個体の「機能」を印象づけたかったのか?と思った。わかんないけどハネケならやりそうじゃないですか。単にブレッソンのマネならすいません。

家族の動機が"絶望"というのはそうだけど、では彼らは失うような何かしらの希望をそもそも持っていたのか。昇進がフイになったから、事故現場を見たから、といって死ぬかね?そういう、なにかが奪われたから、失ったから死ぬというよりもしっくりくることがある。「やがて君になる」という漫画をおれはそれまで知りませんでしたが、アニメ化もされている人気作だそうで、そのコミックス7巻の帯にはたったひと言「いいか、もう。」と書いてある。
やがて君になる」は未だに読んでないが、「いいか、もう。」という文言はとても気に入って覚えている。
それを思ってしっくりきた。
家族は「いいか、もう。」と思ったのではないか。
「絶望」というより作中でも言及される「そうか私は死にたかったのだ」と気づいた時の人生に対するスイートサレンダー感。

いいか、もう。
散らかった部屋を見て断捨離を、実際せんとすときもみんなそんな気持ちじゃないのでしょうか。

 

https://filmarks.com/movies/41908/reviews/85423604


https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B07QL5DHYN/hatena-blog-22/