2023/06/04

大江健三郎「新しい人よ目覚めよ」感想

・鶴見俊輔による解説の中の以下のセンテンスがこの連作短篇における大江健三郎の祈りの核と思う。

 詩は定義する。読者にとって、そのように詩をうけとる時がある。詩の定義の仕方は、数学が定義する、自然科学が定義する、社会科学が定義するのとは、ちがうはたらきで、この言葉をもってこれから生きてゆけば、この領域での経験に関するかぎり、これでやってゆけるという予感をあたえる。



・「怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって」の中に、今まで小説を読んでいてあまり感じたことのない類の感動があった。それは動揺と言ったほうが正しいかもしれないほどになじみのない心の揺れだった。当該シーンは、いつか来たる自分たちの死について長兄のイーヨーに咎めた言い方をした両親に対し、イーヨーの弟妹が反撥するという箇所で、弟が次のように言う。

「──イーヨーは、人指ゆびで、まっすぐ横に、眼を切るように涙をふいていたよ。 ……イーヨーの涙のふき方は、正しい。誰もあのようにはしないけど……」

このセリフの良さ、いやセリフじゃなくて、この切実な想いとイーヨーの泣き方を見て「正しい」と弟が看做すに至る根拠というのは、おそらく「言葉」とか「論理」の外側にある。言い換えれば私たちの外側にある世界の理のようなものに感応したということかもしれない。いやこんなふうに分析というか言及すること自体があまり良くない。この良さ。言葉にできない良さが強烈にある。私はここに、かなり興味がある。

2023/05/12

アニー・エルノー「シンプルな情熱」感想

 紹介文に「その情熱はロマンチシズムにはほど遠い、激しく単純で肉体的なものだった」とあって、さぞエロいんだろうと思ったが別にエロくなく──いや……!今「別にエロくなく」と書いた途端に「いやエロいな?」と思い直した。そしてこの感じ直したエロさというは何かというのを考えた時に、冒頭の紹介文への違和感が立ち上がる。筆致に即してべつだん過激な性描写があるわけではないこの小説に私が感じるエロさというのはおそらくロマンチシズムに由来しているからだ。そこでロマンチシズムとは何かということを考えてみるが、この「ロマンチシズムとは何か?」というのを考えることこそがおそらく私の「シンプルな情熱」という小説自体への感想文に代替すると予感する。
 ロマンチシズムもしくはロマンティックとはいかなるものか。まず安直に浮かぶのはそれが目に見えないということで、しかしそれこそがおおよそ正解であるようにも思う。ここでいう目に見えないというのはたとえば客観を排してるとか物質的な質量をもたないとかに言い換えることが可能ということだが、しかし"存在しない"とか"肉体的でない"というのとは違う。
 いかにとっぴな妄想であれ、夢想であれ、(この小説にある)回想であれ、それらが頭に浮かんでいる状態には肉体性が伴うと私は思う。だからたとえば性欲にかられた妄想によって自慰行為ひいては現象としてのオルガスムは起きるし、楽しい夢想で頬が緩み、悲しみの想起で落涙する。私が定義するロマンチシズムというのは直截な意味での"甘美"のムードを必要としない。どんな種類の妄想夢想回想であれ、その想像行為自体によって身体に引き起こされるのは陶酔であって、また陶酔はえてして甘美なるものだからだ。つまり想像とはそもそもが甘美なのだから、"妄想夢想回想のうち甘美なものをロマンティックとする"という前提を私は無意味に感じる。

 「シンプルな情熱」が"激しく単純で肉体的である"というのはその通りだと思うが、しかしロマンティックでないというのには以上の点から懐疑的なのである。"激しく単純で肉体的でかつロマンティック"なのである。そしてその、直截的ではなくあくまで"現在そうではない肉体"が、恋情にまつわる回想を意識に巡らせているという、二重のレイヤーを一つの身体に宿らせている複雑な状態(a)は、単純な性描写(それは肉体と意識が同時性を持っている)が続くポルノ(b)よりもずっと、グッと匂い立ってエロい、と私は思う。なぜグッと匂い立ってエロいのかについての説明は野暮というか、(a)の方が(b)よりエロいことを語ることは遅かれ早かれ嗜好の問題になってしまうから割愛する。わかんなきゃわかんないしわかるならわかる。嗜好はいつも言葉を超越する。
そしてグッと嗅ぎつけエロがりつつ、「いまここに無い時間/いまここに在る時間」が重なることも交わることもなくしかしひとつの制限領域の中で同時に存在しているというのが、この小説に私が最も惹かれた点だった。

 この小説には以下の四つの時間のレイヤーの存在を私たちに知らしめる。
① 「私」がAと逢瀬を重ねた、"書いている「私」が回想する時間"。
② "①を想起しこのテクストを書いている「私」の現在時間"。
③ ②から数年後の、"②を読み返して①を想起している「私」の現在時間"。
 そして、
④ 小説の出版から時を経て今まさに「シンプルな情熱」を読みながら、"①〜③を追体験的に想像している読者の現在時間"。

④というのはそもそもすべての文章を読む時に発生するのだが、この小説に於いては他の読書体験よりも強くこの④の時間が意識にのぼってくる。それは〈①←②←③〉というそれぞれの時間からの視線によってこの小説が構造されているからで、作品内でもうっすら言及されているが小説が読者によって初めて成立するものである以上、①〜③へ我々読者が矢印を向けるという自覚は必然の浮上である。

 こうした逆流の視線構造はそもそも想起の構造であるのだが、アニー・エルノーが「シンプルな情熱」で描いているのは想起構造の具体例に終わらない。むしろ、かつてあった時間が失われないために書き留めた頁群を読み返すことが、皮肉にも現在という時間が経年によって過去と分断されてしまったという苦痛を実感させる要因になるところに本質がある。この苦痛は苦痛と言いながら痛みを伴わず、文字にすれば矛盾するようだが、だからこそ逆説的な苦痛になるのだ。露骨に提示された想起構造はこの苦痛によって反転し、結局時の流れというのは不可逆であって、あんなに痛んだ傷も知らず知らずのうちに回復するというような当たり前の時間構造こそがゆるぎなく出現する。撮影された傷の写真を見返すことは、瘡蓋のとれたつるつるの肌にもうその傷がないことだけを思い知らすのである。
こういった自罰叶わぬゆえに感傷的になり得ない苦しみが文体の簡潔さに表象されていると私は思うが、それを以って「ロマンチシズムにはほど遠い」とするのは、前述にさんざ書いた理由から、私は違うのではと思うのである。
私たちには明日を生きるために過去を思い出せなくなっていく機能が備わっている。しかしどれだけ思い出せることの解像度が低下しても、過去はなかったことにはならずまた忘れ尽くすこともできない。

「感傷的になり得ない」という感傷は存在する。
昔の恋とはその代表で、「シンプルな情熱」が昔の恋についての小説であるいじょう、ロマンティックでないわけがない。

2023/03/06

木村美月の企画『幽霊塔と私と乱歩の話』感想

 昼くらいに下北沢の駅で待ち合わせして、ヴィレッジヴァンガードに行って、値段だけ高い変な椅子とか見て、ディスクユニオンで好きなレコードを安く買って、カフェでメシを食って駅の周りを一時間くらいぶらぶらしたんだけどもうそれで吉田は飽きたみたいだった。俺は序盤から飽きていた。ヴィレッジヴァンガードは俺たちがあと十年も若ければ目を輝かせていたのかもしれないけど来るのが十年遅かった。楽しいって気持ちも齢をとる。それは恋する気持ちもおんなじで、俺は吉田のことが好きだし吉田も俺のことが好きなんだろうけどガキの時分に彼女が俺に向けてた眼差しに比べて今の視線には皺が刻まれているのを俺も知っているし吉田自身も多分自覚している。それでも俺たちはわざわざそういうのを確認するようなことはしない。皮肉なのはそれこそが齢をとった証明であることだ。

 もう帰ろうかなんて言わなくても俺たちは駅の方に向かって歩いた。だけど吉田も、もっと言えば俺が「ちょっとあまりにも無味かもしれねー」という気分で、しかしどうしようかというときに「楽園」という劇場が目に入って、そこでこれからお芝居が始まるということが書いてあって、だから俺は吉田に「ちょっと観ていかない」と言ったのだ。齢とったとはいえ俺たちも実のところまだ若いのかもしれないと思いながら、吉田と一緒に地下の会場へ続く階段を降りる。

 お芝居は、校舎の地下で誰にも内緒で友情を育む若者と清掃員のおじさんが、数年後に再会し、謎の男も巻き込んで街に突如現れた不思議な屋敷を探訪する、というようなすじだった。文学的な語り口になるのかなと思っていたが後半なんかは映画でいうところの活劇のジャンルで、しかし文学的な着地をする。ここでいう文学というのは、さっき書いた語り口としての文学的とは少しニュアンスが違う。小説でなくともいいが、何かを読むという行為は、それ自体が、かつてあってしかし今ここにはない過去というひとくさりの時間を現在の中に出現させることで、紙に書き付けられた文字はそれひとつひとつでは意味をなさないが連なることで大きなものに変貌する。今書いたことが文脈というより構造として物語の中におさまっているようなお芝居だった。そしてその大きなものは、だからその性質上必然的に物語の中で帰結するのではなくて見ている観客っていうかたとえば俺の中に染みこんできて共振し変容した。変容したのは、俺がである。

 ここだけの話俺は少し泣いてしまったんだけどもそれはなんていうか感動したというのともちょっと違う。俺がお芝居を見ながら考えていたのは、お芝居の中の登場人物たちではなくて俺が吉田と出会った頃、つまりは小学生の頃のあいつらのことだったのだ。

 今となっては思い出すことはもうほとんどなくなった。吉田は、俺に比べればまだそんなことないとは思うが。吉田を含めて五人の小学生の俺たちは幼稚な冒険を何度もしたし、夜中の学校に忍び込んだりもした。ずっと一緒にいた気もするけど、それでも鳥瞰すれば小学生という限られた期間の短い付き合いだった。今頃どうしているんだろうかと思わなくもないが、会いたいわけではない。同窓会は開くことも開かれることもない。本当ならお芝居から想起するのは大学生の時分であって然るべきだが、隣に座る吉田が俺に小学生の時代を選ばせたのだ。

 劇場を出て吉田が伸びをして「面白かったねえ」と笑ってから、すぐに俺の様子に気づいてどうしたのと顔を覗き込んできた。俺がわかりやすいのかとも思うけど、吉田が俺をよくわかってるんだろう。大概のことには気づけないと自認する彼女がそれでもこれだけは誰にも負けないと矜持を持つのが、俺の表情の機微なのだから。俺は観念して観劇中に考えたことを白状した。吉田はひとしきり「スゴーイ」だの「私普通に面白く観てただけ〜」だの言ってから、ちょっと黙って、口を開いた。

「それじゃあさ、あなたもあのお芝居みたいに、昔のことを書いてみたら?」

「そんなの書けねえよ、俺は小説家じゃねんだし」

「別に小説家になれってわけじゃないよ。私が読みたいだけなんだから私に向けた長い手紙だと思って書けば」

「長い手紙ねえ……

ぶつくさ言いつつ、俺はそれもいいかもなと思う。俺たちは齢をとる。あんなに必死だった冒険を、俺は幼稚と形容するようになった。こうしてふたりしてダラダラ過ごした今日のことも、十年後の俺たちが思い出してくれるとは限らない。思い出せなくなるのならまだいい。思い出してもそれが他人事のように感じる距離のひらきが恐ろしいのだ。


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 それからというもの、彼は自分の部屋で何事か懸命に書くようになった。小学生の頃のことを書くんだと言っていたけど、私はまだ読ませてもらっていない。読んだら私も色々思い出すだろうか。彼はどこまで憶えているんだろうか。そう考えると少し笑ってしまうけど、そのあといつも寂しい気持ちが私に残る。振り返れば思い出はいつもきらきらかしら。

 小学生の頃、私はずっと体半分たのしかったけど、もう半分は苦しかった。彼にはずっと好きな人がいたのを知っていて、それは私じゃなかったから。今はどうかわからない。だけどそうじゃないとも言い切れない。あなたの気持ちを量るのが得意だなんてさんざ言ってきた私だけど、深いところは私、本当は分からないんだよ。

 彼が出かけているときに部屋の掃除のはずみで、机の上に散らばった書きさしの文章をチラリと盗み見てしまった。ちゃんと完成するまで読むつもりはなかったから、表紙?のところだけ。題名はなかったけど、なぜか署名があった。何の気恥ずかしさなのか、本名じゃなくてペンネームだった。【江戸川乱歩】と書いてある。江戸川乱歩って、あの日私たちが観たお芝居に出てきた名前と思ったけど、すぐにそうじゃないと私は気づいてしまった。「江戸川」は彼の苗字。「歩」は私の名前から採っている。それでおしまいにすればよかったけど、知りたいことこそ分からないくせ、気付きたくないことばっかりがいつも目につくものだ。残る一字はあの女の名前じゃないの。「乱」なんて漢字だけ変えて誤魔化したつもり、本当は「蘭」としたかったんでしょう。あの頃を思い出そうと言いながら、この長い手紙は本当にぜんぶが私だけに宛てられているの。今も私は体半分たのしみだけど、もう半分は苦しい。知る必要のないこともある。思い出さなくても良いこともある。部屋の窓から白い光がさしていた。私は顔をあげて、それを無理やり凝視する。欲張らずに今のことだけただ懸命に目を向けて、決して後ろを振り返らなければこそ思い出はいつもきらきら。





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 突然御手紙を差し上げますぶしつけを、幾重にもお許しくださいまし。私は日頃、先生のお作を愛読しているものでございます。別府お送りいたしましたのは、私の拙い創作でございます。御一覧の上、御批評がいただきますれば、この上の幸いはございません。或る理由のために、原稿のほうは、この手紙を書きます前に投函いたしましたから、すでにごらんずみかと拝察いたします。如何でございましたでしょうか。もし拙作がいくらかでも、先生に感銘を与え得たとしますれば、こんな嬉しいことはないのでございますが。演劇とっても面白かったです。




2023/01/25

お茶碗ズ「シーを待つ」

お茶碗ズの「シーを待つ」という楽曲に山河図が録音協力で参加しました。
以下リンクより視聴できます。




お茶碗ズ 8th single「シーを待つ」
作詞作曲:米田豊作
協力:親愛なるQに捧ぐ 山河図

2022/10/26

肉汁サイドストーリー『あ、無情』感想

 みつきはその日とその前日に肉汁サイドストーリーという名前の団体が西新宿の平家で演劇を催していたことを知らなくて、そういう催しがあったいうのを彼女が知ったのは数日経ってからこのブログのこの記事を読んだ時だった。それで初めて知った。

とはいえ仮に事前に公演のことを知っていても自分は足を運ばなかっただろうと思った。肉汁サイドストーリーという名前の団体のことも知らないし演劇というものもよくわからないし学割を使っても二千円という値段は彼女の最近の懐事情には厳しかったということもあるが、それらを抜いても公演が催された日曜日にみつきは彼氏とファミレスに行く約束をしていたからだ。


──というようなことをたとえば私は肉汁サイドストーリー「あ、無情」の上演中にぼんやり考えていた。会場である平家のふた部屋とそれを繋ぐ廊下を観客が周遊する観劇形態の作品にあって、私は玄関の受付のあたりにずっといて、上演時間中動かなかった。私はその場所がこの演劇を鑑賞するに一番いいポジションだと思ったからだ。観客の靴が三和土に並べられていた。私はたくさんの靴や、それが並んだ三和土や、周りを囲む箪笥とか壁とか引き戸を、なんというか何か一つに注視するのではなく、固有のそれぞれは認識しながらも全体的な様子として捉えるように見ていて、つまり総体としての風景のようなものを見ていた。見ながら、この風景に含まれることのなかった靴が只今の上演時間中どこにあるのだろうかというのと、足を運ばなかった人がその時間をどのように過ごしたのかということをこれは今現在、考えている。


 私が思い描いていた女子高生である──みつきは西新宿のガストに十三時に入店して、店員に後からもう一人くるので二名ですというようなことを伝え、全面がガラス張りになっている窓側の四人がけソファ席に案内され、座った。まもなくお冷やが運ばれてきて、みつきは一口だけコップを口につけてのち、手持ち無沙汰ゆえにメニューを開いて眺めた。メニューに色とりどり配置された食べ物飲み物のそれぞれを固有で認識しながらも、みつきはメニューを「メニュー」として、つまり総体としての風景のようなものとして見ていた。それでは見ながら彼女が頭の中に像を結んでいたのはメニューに配置された品々ではなく、まだここに到着していない彼氏の顔とか、彼が学校で机に座っている姿(その時にはみつきに彼の顔は見えない)とか、一緒に帰る放課後の電車内に繋いだ彼の手のゴツゴツした感触だった。「早く来ないかな」とみつきは思った。昼食は家を出る前に済ませていた。母親が作り置きをしてくれた自家製のキムチとオムライスである。みつきはキムチを割ったオムライスに混ぜて手早く食べた。


 私が陣取った玄関付近のエリアからは俳優のアクティングエリアであるふた部屋のうちの一つ、掘り炬燵のある和室が見えていた。もう一つの部屋であるリビングでの様子は会話が切れ切れに聞こえてきてもたとえば俳優たちの配置や動きや表情は目には見えなかった。リビングから楽しそうな声が聞こえてきている。もちろんそれらは演技で、十分な稽古のもとあらかじめ決められた言葉でのみ語られていた。私は会話の切れ端を聞くでもなく聞きながら掘り炬燵のある和室を眺めた。俳優がギターを練習していた。私は楽器に詳しくないから、その練習が初心者の段階のものなのか上級者の段階のものかはわからないが、ともかくポロンポロンとギター弦は弾かれ、ビロン、ビローンとメロディ未満の音が鳴っている。俳優はじっと黙ってそれを続けた。私はとても良いと思った。後でもまた何度か思うことだが、この時も良いと思った。私が何をどのように良いと思ったかは先送りするが、ともかく今私の感覚器官が受像しているもろもろが混ざった総体を食べた私の脳みそが「良い」と言ったということだ。


 みつきはアイフォンを操作してaikoの「三国駅」を再生して、すぐに「ストロー」に変えた。それは単純に今の自分の気分に適した曲に変更したという意味しかない。イヤフォンからaikoの声がするのをぼーっと聞いているうちに、みつきはなんだかパフェーが食べたいような気持ちになってきた。メニューを今度はさっきとは違う手つきでめくり、苺パフェーのページで手を止めて、値段と写真を何度か往復してのち、呼び出しベルを押した。店員はすぐにやってきたので、幾許かのみつきのためらい(それは彼女の懐事情とお腹の満たされ具合に拠る)は育つ暇がなかった。みつきは苺パフェーを注文し、ためらいの残滓を追い払って(この時、イチゴを頼んだというのもあってか、みつきはBLEACHの最終話の黒崎一勇がユーハバッハの残滓を消したコマを想起した、だから残滓という言葉が出た)、また彼氏のことを考えた。「ストロー」はまだ終わっていない。


 私はいまだ掘り炬燵のある和室の風景を見ていた。そこに何人かの俳優(ギターを弾いている俳優とは異なる)が入れ替わり入室してきて、ギターを弾いている俳優と何事かを話したりした。その会話はリビングの会話よりは音量としては大きく聞こえていたが、リビングで行われる会話というのは掘り炬燵のある和室でなされる会話より高いテンションだったから、私が掘り炬燵のある和室での会話をリビングでの会話より大きな音量で聞こえたと言ったのは、目に視える分カサ増しされた情報の総量が多かったということに過ぎないのかもしれないとこれは今、考えたことだ。若い女優がTikTokのアプリを開いて動画を撮影している。TikTokの音楽が聞こえてくるのでわかった。TikTokの音楽は、平家の二つの部屋から聞こえてきた声やギターの音のどれとも異なる音質──音質という言葉が適当かはわからないが、空間に拡散する音の響き方として他とは異質だったから、際立って聞こえた。ふと玄関の方を見やると、開け放たれた玄関からは建物の門へとつながる石道を臨むことができ、門の奥にはやや傾斜のついたアスファルトの道が左右に伸びており、その先つまり私が現在その中にいる建物の向かいにはマンションが建っている。マンション一階の部屋のガラスが昼間の光を受けて鏡のように風景を反射していた。それで私は玄関の影の部分に俳優が一人、スタンバイをしている姿を見ることができた。俳優は地面を眺めたり、伸びをしたりして、これから彼が登場するであろう場面に向けて気持ちを作っているようだった。私はまたしても「良い」と思った。視線がまるで矢印のように屋外へ建物の外の風景へとのび、光と共にガラスに反射して直接見えないはずの風景を捉えている。そして直接視認できないはずの風景の中にいる俳優にも、私にも、私がそちらを見たことで背を向けている背後の掘り炬燵のある和室にも、どうしたって見えないリビングにも、時間が等速で流れている。それらはロケーションという概念で分断されているようで、扉で遮蔽されることなく一つづきになっているのだから、理性や観念的なのではなく物理的な空間として同じ時間が流れていることを立証しているように感じられた。


 苺パフェーは十分ほどで運ばれてきたが、約束の時間を三十分も過ぎたのに彼氏はまだファミレスに来ていなかった。みつきは何度かLINEをしたが、既読がついていない。みつきは携帯を開くたび立ち込めようとする不安を携帯を閉じる都度振り払った。彼は普段からぼーっとしているところがあって、こういう形でデートをすっぽかされることは、そりゃあ何度もあるわけではなかったが、全くあり得ないことでもなかった。そのことを思い出すと共に、みつきは自分が彼氏のことを彼氏と規定しまたおそらくは彼が自分のことを彼女と見做しているであろうその契約みたいなもののことを強く意識することで不安を表情や体の震えといった自覚せざるを得ない領域に表出することから逃れていた。だから彼の安否はもちろん気に留めながらも、不思議なことだがさっきメニューを眺めながら思い描いた彼そのものの顔や記憶の中の姿ではなくもっと記号的な、「彼氏」という自分に対しての立場とか「彼氏」という文字とかを考えることがみつきを支えていて、しかしそれを不思議なこととまではこの時のみつきは考えていない。不思議なこと、としているのは現在これを書いている私であり、また日曜日から数日経ってこのブログの記事を読んでいる時間にみつきの想起に伴い発生した感慨でもある。


 さっき玄関の外に立っていた俳優は平家の中に入ってきて、洗面所に行ってから掘り炬燵のある和室でギターを弾いていた俳優と話した。その中でさっき玄関の外に立っていた俳優は駅前でもらってきたという演劇のチラシを取り出し、ギターを弾いていた俳優に観劇を勧めた。ギターを弾いていた俳優は行くとも行かないとも答えないままその話題はたち消え、リビングから聞こえたインディアンポーカーの誘いに応じるようにしてさっき玄関の外に立っていた俳優はそちらへ向かった。ここで思い出したが前述したTikTokを撮影する女優の登場およびその女優のTikTokを撮影するくだりはこれより少し後に行われる。私は思い出した順に公演を振り返っているが、上演中はそのほとんどの時間で靴とか三和土とか壁とか玄関とかを見ていて、掘り炬燵のある和室を見ていた時間がまるでそういうまとまった時間の後にずっと続いていたかのように思わせたかもしれないが、私が目にしたいくつかの風景に流れた時間というのはもっと複雑かつ混然と入り混じっている。便宜的にというよりも今申し上げたように私は思い出した順に公演を振り返っているというそのことが混乱に起因しているのかもしれない。しかし思い出すという行為によって思い出されるいくつかの時間というのは必ずしも実際の時系列に沿わないのが当たり前であることは、仮に混乱をきたした方がいたとしてもきっと了解して納得してくれるだろうと私は無責任に思っている。



 口をつけられていない苺パフェーはどろどろに溶けて、苺アイスとバニラアイスと苺ソースとクリームと天かすみたいなスナックは複雑に混じってしまった。ところどころははっきりした赤とか白の色を持っているが、大部分はそれらの色が混じりだらしないピンク色のシェイクみたいになっている。みつきは苺アイスやバニラアイスや苺ソースやクリームや天かすみたいなスナックが時間の経過と共にそのような姿に溶け合って変色していく様の一部始終を見ていた。溶けるという現象は0から100に一気に変化するわけではないのだと彼女は思った。思って、彼氏が自分へ向けていた/向けている気持ちとか自分と彼氏との関係とかになぞらえ、なんだか悲しくなった。悲しみは暇から生まれるということをみつきはその時思わなかったが、今これを読んでいる時点では理解している。パフェーが変貌していく時間は音楽も聴いていなくて、LINEも見ていなかった。溶け切ってからLINEは一度見たが、彼氏からの連絡は依然として来ていなかった。既読もついていなかった。覚悟していたが(みつきはこの時も具体的に覚悟という言葉を思ったが、LINEを確認する程度のことに覚悟という言葉を意識するのは少し大袈裟だと、この時点ですら考えた)、やっぱり肩を落とす気分になって、それから今日はもうこのまま彼と会えないんじゃないかというようなことを予感すると、せっかくの日曜日に約束を反故にされたことで無駄な時間を過ごした怒りよりも、もっと単純な悲しみをおぼえた。明日学校で彼が今日のことを謝ってくれるだろうかというのを考えるのは、それがどうであれ、今のこの悲しい気分をもう一度味わうことになるとみつきは憂鬱になった。彼が謝ればまた今のこの時間を思い出すだろうし、忘れたまま謝らないのであればそのことで自分の孤独は強調される。嫌だな、漠然とみつきは思った。明日学校行くの嫌だな。明日彼氏と会うの嫌だな。そう考えると一層みつきは悲しかった。入学した日から、ずっと好きだった人だから。一年かかってようやく付き合えることになった日のことをみつきは今でも憶えている。その時に見た風景や聞こえていた周りの音も思い出せる。そういう自分にとってずっと大切にしている記憶まで、こんなたった一回の出来事によって悲しい未来とどろどろに混じってしまう気がしたからだ。



 さっき玄関の外に立っていた俳優がインディアンポーカーをしにリビングへ去って、ギターを弾いていた俳優は掘り炬燵の上に残された演劇のチラシを手に取って、少し眺めて、その後また炬燵の上に置いた。それからTikTokのくだりがあったりして、ギターを弾いていた俳優もまた、ギターを携えたままリビングへと向かった。しばらくリビングでなんやかやと俳優たちの会話が聞こえてきたが、ある時点から彼らの声色は困惑や怒気を孕み始め、そのうねりのようなものはどんどん大きくなっていった。彼らはあらかじめ決められた動作や表情をしていたのだろうが、リビングで行われていたので私にはそれがあらかじめ決められていたどのような動作や表情だったのかはわからない。彼らのうねりが拡大されていく時間にも、私は靴や三和土や玄関を見ていた。それらは、それまでと何も変わらず、その変わらなさはなんというか静謐さとか厳粛さというような雰囲気さえ思わせたが、それは加熱していくリビングでのやりとりから感じる作品の物語に流れているフィクショナルな変動によって対比され浮き彫りになっただけなのかもしれない。それでも私は、リビングでの物語に流れている時間と靴や三和土や玄関という風景に流れる時間が同時かつ等速であることによって、地続きである空間が多層化している感覚を覚えてやはり「良い」と思った。リビングの風景と玄関周りの空間の二つのレイヤーが拮抗していると思った。そして目をなんとなく掘り炬燵のある和室に向けると、そこにはもう誰もいなかったのだが、私はまた新たな層を見つける。炬燵の上には先ほど置かれた演劇のチラシが先ほど置かれた状態で存在していて、炬燵の傍らには俳優たちによって都度移動させられた熊のぬいぐるみが座らされていた。私が掘り炬燵のある和室に発見したのは、チラシやぬいぐるみの配置が俳優たち、もっと厳密に言えばそこで先ほどまで流れていた時間の痕跡になっているということだ。今はもう俳優は誰もいないその空間において、しかし痕跡が残されていることで、先ほどまでの時間が空間ごと固定されている。そして過去が固定された空間に隣室であるリビングの声が時間となって流れ込んでいる。それを私が玄関で見ている。これらの位置関係によって私は時間と空間の複雑な混ざり合いをその時間/空間の経過に見たのである。



 みつきが時計を見ると店に入ってから一時間が経過しようとしているところだった。みつきの中にはもう現在の自分を対象化してそこに何かを思ったり発見したりする気持ちはほとんど残っておらず、彼女はだから自分に対しての無情の残滓すら意識しないままに、なんとなく店内を見回した。入店した時と斜光の角度は変わっていたが、みつきには気付けなかった。店内にはテーブルごとに幾つかのまとまったグループが座っていて、それらは同時に会話をしていたので、みつきには一つ一つの固有の会話を認識することはできずに店内という空間の中にある全体的なざわめきとしてそれらを耳にしていた。ざわめきは音だけでなく客たちの動作や表情もそうで、だから空間自体が漠然としているようにみつきには思われた。みつきはかつてパフェーだったパフェーのようなものをスプーンを使って手早く口に流し込んだ。パフェー(だったもの)を構成する全ての味がしたが、それは漠然としていて、口の中にまるで自分が過ごした時間が流れ込んでくるような感覚が不愉快だった。

みつきは伝票を持ってレジへと向かった。会計を済ませて店を出る前に、みつきは一度自分が先ほどまで座っていた四人掛けのソファー席を見た。みつきが広げたメニューはみつきが広げた形のままテーブルに残された。みつきが飲み干したパフェーの容器も、みつきが置いたテーブルの上に残されていた。たしかに一時間があのソファー席で経過したということが感ぜられ、みつきは惨めな気持ちになった。



 口論が続いていたリビングの方から、ギターの音が聞こえた。ギターを練習していた俳優の声も聞こえた。歌声だった。曲はSMAPの「Best Friend」だった。私はSMAPに特別明るいわけではないが、その曲は知っていた。他の俳優が何事かをボソボソとしゃべっている声が歌の背後にしたが、玄関にいる私には内容まではわからない。ボソボソとしゃべっていた他の俳優たちも次第に歌に参加し、「Best Friend」はギターの音に合わせて合唱となった。その音楽の流れているおそらく四分ほどの時間が、私にはなんというか独立した時間のように感じた。分断とか断絶ではなくあくまで独立という言葉を使っているのは、リビングにも、玄関にも、掘り炬燵のある和室にも同じくその音楽は聞こえていたから、分断とか断絶とかいう言葉に含まれる「断」という漢字が私の感じたあの感慨とはあまりにも趣の異なる強い意味を示しているように思えたからかもしれない。とにかく、歌が終わると、これにて演劇が終幕であるというアナウンスがなされ、俳優たちはリビングから廊下を経由し玄関から野外へと出ていった。程なく平家を周遊していた観客たちもまた、同じように玄関から出て行ったので、さっきまで静謐が保たれていた玄関周りはしばらく賑やかになり、また静かになった。



 家までのバスの中でみつきは再び明日のことを考えて、「学校休んじゃおうかな」と口に出して言ってみた。それが彼女にとって遅かれ早かれ到来する悲しい気分を先送りにしているだけとは、彼女自身ももちろんわかっていた。ふとポケットに振動を感じ、携帯を開くと彼氏からのLINE通知が来ていた。そこには彼も今、西新宿にいるのだが、ファミレスまで向かう道すがらで見かけた平家で催された演劇に惹かれて、みつきに悪いとは思いつつついつい当日チケットで観劇していたということと、彼がそこで感じた「時間が流れる」ということについての感慨が文字だけでも伝わってくる興奮と共に綴られていた。みつきはもちろんある程度安堵したが、それは連絡のつかない彼氏に何かあったのかもしれないという一般的な心配が払拭されたということにすぎなくて、むしろ一番大きな問題である惨めさは強まることになった。だからみつきは彼氏からのLINEに既読はつけたものの、返事を書く気にはなれず、そのまま家に帰った。帰って、録画しておいたジャニーズのドラマを三週分観た。今期一番話題のドラマということもあり、クラスでも考察が飛び交っているのを知ってはいた。しかし彼氏のことを考える方がフィクショナルな恋愛ドラマを見ることよりもみつきにとっては重要だったから、観ていなかったのだ。みつきはそのジャニーズのドラマに感動し、彼女なりに考察なんかも考えて、明日学校でクラスの子たちと盛り上がるといういくらか希望めいた予感をもって布団に入った。


 演劇が終わった後、私は他の観客がみんな帰ってしまった後もしばらく会場に残ったが、いつまでもいられるわけでもないので平家を後にした。家に帰った後も今日観た演劇のことを考えて興奮していたが、翌日になればそれもいくらかおさまってはいて、しかしあれほど興奮した気持ちや上演の間に感じた「時間が流れる」ということについてなどがおさまり続けていることには寂しさだったり不安のような頼りなさを覚えた。そこで友達のりっちゃんに昨日のことを話そうと考えたが、りっちゃんはりっちゃんで何やら興奮していて、聞いてみると今放送されている「silent」というドラマがマジで今期とかじゃなくてドラマ全体の中でもトップレベルに傑作であるということだった。私も「silent」というドラマが今やっていることだけは知っていたが、元々ドラマを毎週観る習慣がないのもあって、観るには至っていなかった。惜しいことをしたのかと思っていたがりっちゃんに話を聞いた日の翌日にTVerというテレビ番組配信アプリで全話見逃し配信できると知り、その日のうちに現在までに放映された三話分を一気に観た。


 肉汁サイドストーリーの「あ、無情」は私がたまたま観劇した日曜日が終演日で、その日のうちに撤収作業は行われ、私がりっちゃんに「silent」を薦められている翌日の時間には、もう肉汁サイドストーリーが小屋入りをする前の簡素な平家の状態に復元されていた。


 みつきが一時間を過ごした西新宿のファミレスでは、みつきが退店した十分後に来店した家族連れが先ほどまでみつきが座っていた四人掛けのソファ席に案内され、再びメニューが広げられた。


 私の観劇の翌々日、私が「silent」をTVerで一気見している時間に平家にはその管理人が二十分ほど点検のために滞在し、彼が出ていくとまた誰もいない時間が流れた。


 観劇の翌々々日というのが、私が今このブログのこの記事を書いている現在である。そして今日のうちにみつきはこのブログを読む。

 私もみつきも「silent」三話を観て、全ての回で号泣している。今期いやドラマ全体の中でもトップクラスと呼び声の高いことにも納得だ。ツイッターで#silentと打ち込めばさまざまな考察も読むことができるがそこから知る作品の細部へのこだわりには驚かされてばかりだし、なんといっても主演の目黒蓮くん(Snow Man)の演技には胸打たれる。次回もどうなってしまうのか気になって仕方がない。まだ観ていないという方も、TVerという無料アプリで全話見逃し配信されているので是非是非!!Official髭男dismの主題歌もめっちゃいいよ!

↓とりまMVのリンク貼っときマス!!!


2022/10/01

カナザワ映画祭2022 観客賞受賞

『ミラキュラスウィークエンド・エセ』がカナザワ映画祭「期待の新人監督」2022にて観客賞を受賞いたしました。
観客賞の名の通り、映画をご覧いただいた皆様の想いの結晶です。ありがとうございました。





カナザワ映画祭のWEBサイトにて、「期待新人賞2022」授賞式の受賞者コメントおよび審査講評が掲載されております。
「ミラキュラスウィークエンド・エセ」についても、監督澁谷の受賞コメントと審査員の方々からの作品評を頂きました。以下リンクよりぜひご覧ください。

2022/09/01

円庭鈴子「花束のうた」配信

2015年にCD-Rのみで販売されておりました円庭鈴子さんの「花束のうた-映画『幽霊たち』オリジナルサウンドトラック-」の音源配信が9月2日よりはじまるそうです。配信にあたり、新たにジャケット用イラストを山河図が担当しました。

映画『幽霊たち』(監督・脚本 澁谷桂一)のオリジナルサウンドトラックとして制作されたこのアルバムには、映画挿入曲のほかアウトテイクや主題歌のフルバージョンも収録されております。主題歌「花束のうた」は脚本から着想を得て作曲されました。
Bandcampでリリース後他サブスク等配信サイトからも配信開始予定です。




円庭鈴子「花束のうた-映画『幽霊たち』オリジナルサウンドトラック-」
作詞・作曲:円庭鈴子
ジャケットイラスト:山河図

「花束のうた」MV (監督:澁谷桂一)