・調べたところによるとこの小説は1946年に書かれた初版を1956年に改訂し、さらに1968年に三訂されようやく完成したらしい。私がこれまでもこれからもそして今まさに書かんとしている文章も、パブリックな力を持ったりや作者の意図への正確な責任を考慮しない つまりはただの「いち読者の感想文にすぎない」という前置きをするために、この1968年版(三訂版)についての不思議な感慨を先に書く。
この小説は彗星に比喩される“世界の終わり“がモチーフとなっているが、そのモチーフを思ったときに安直に私の心に浮かび、読書後に真っ先に聴いた音楽がある。なんであろう、ミッシェルガンエレファントのデビューシングル「世界の終わり」である。安直というのは既に告解している。
歌詞を一節引く。
世界の終わりがそこで見てるよと
紅茶飲み干して君は静かに待つ
パンを焼きながら待ち焦がれている
やってくる時を待ち焦がれている
世界の終わりはそこで待ってると
思い出したように君は笑いだす
赤みのかかった月が昇るとき
それで最後だと僕は聞かされる
世界の終わりはそこで見てるよと
紅茶飲み干して君は静かに待つ
パンを焼きながら待ち焦がれている
やってくる時を待ち焦がれている
「ムーミン谷の彗星」を読まれた方は、なんというか奇妙な、そして微妙な類似性を感じるのではないでしょうか。私にはこの曲の歌詞と小説とを関連させて感想文を展開させるほどの思惑も技量もないのだが、なんか似ているというか、私が「ムーミン谷の彗星」を読みながらこの曲を思ったというのが確信を欠きながらも、しかし提出せずにはいられない感慨なのである。“セカイノオワリ“という音だけならば、「Dragon Night」でもいいものなのに。不思議だね。
またこのミッシェルの歌詞は冒頭に「悪いのは全部 君だと思ってた」とあるが、これは小説の中でスニフが何度も口にするぼやきでもある。不思議だね。
こじつけと言われればそれまでで、申し上げた通りこれ以上の展開はないが、私の感慨を担保する余計なトリビアをもう一つだけ。
ミッシェルガンエレファントのボーカル・「世界の終わり」作詞者であるチバユウスケの生まれた年というのは、完成版の書かれた1968年なのである。不思議だね。前置き終わり。
・「ムーミン谷の彗星」は、題の通りムーミン谷に彗星が落ちてくる、それまでの数日間の物語である。ムーミントロールとスニフは、宇宙の広大さと自分達の存在の軽さを哲学者に吹き込まれ、宇宙の広さを知るために天文台へ向かう。その道中で出逢ったスナフキン、スノーク、スノークのおじょうさんらと、彗星が地球に衝突する日までに家へと戻ろうと冒険する、というのが大体の筋であるが、感想文で筋を説明したところで意味なんかない。これは私が今、自分で自分に改めて小説を確認させるために書いた。
彗星が衝突するとどうなるのかというと、地球は壊れ、自分達はぐちゃぐちゃになって死ぬ。アニメやなんかに因るパブリックイメージとしての「ムーミン一家」の物語とは随分毛色の違う印象があり、常に差し迫っていく制限時間とそれへの不安やぼんやりした恐怖が小説には通奏している。
しかしながら、私がこの小説に最も感動したのは、冒険物語としての面白さだったりや、スナフキンの言う「冒険物語じゃ、必ず助かるんだ」というメタチックな予言および希望が前面ではなかった。そういったストーリー全体が言わんとしていることよりもむしろ、世界が段々と終末に向かって不穏さを増していく状況にあって、初恋に直面し浮かれまくる主人公ムーミンとスノークのおじょうさんら二人のイチャイチャこそが、私の胸を揺さぶったのだ。
ひたすらに浮かれつづけるのは二人だけである。スノークのおじょうさんの兄であるスノークやスニフ、スナフキンら旅の一行メンバーは、とぼけてはいてもそれぞれ彗星に現実的に恐怖し、また避難を志向している。その避難先として無根拠ながらムーミン谷を目指している。しかし、ムーミンというのはそれとは違って、一発で大好きになっちゃったスノークのおじょうさんを単純に自分の家に招くために家路を急いでいるのだ。ママにケーキを作ってもらうぜとか言っているのだ。どう考えてもそんな場合ではない。世界の終わりはもう目の前で、世界が終われば二人にだって未来はないはずなのだから、二人の未来のためにも勇敢にならなければいけないはずではないか。と、あまりにも見せつけてくれるカップルを見て、ないし疲弊と苛々を募らせていく他のメンバーの背中を省み、私は考えたが、「本当にそうだろうか?」という思いが湧き上がってきた。
私たちはいつか必ず死ぬ。世界はいつか必ず終わる。
生まれてくるということ、今ここに存在することは、“いつか必ず終わりが来たる”という、世界との約束をしているからこそ成り立っている。私たちは有限な時間の中で、ときに死に怯えながらもほとんどは約束の期日を意識せずに過ごしている。明日突然死ぬかもしれない。いつかやってくる約束の日の“いつか”は、私たちの都合を考慮してはくれない。
であるならば、私たちもまた、世界の都合を考慮することなんかないとも言える。来年、来月、来週、明日に死ぬとしても、今日誰かを好きになってもいい。好きになったコとダンスを踊ったっていいのだ。私は恐怖や不安の克服・回避に反対しているわけではない。恋に代表される人生の歓びとは、TPOに関係しないのだと言いたいのだ。なぜか? 私たちは人生を楽しみ、歓び、幸せになるために生まれてきているからだ。そのことだって、世界との約束に含まれているのだ。
私が感じた上記のことは、私の志向であり、そして私の出逢ってきたすべての人への祈りでもある。
トーベ・ヤンソンは、女性の社会地位の不安定さや当時のソ連との長い戦争からの敗戦の痛み残るフィンランドでこの児童文学を書いた。
児童文学の本懐とは、明暗の点滅する未来をこれから歩みだす子どもたちに対して人生の豊かさを保証するところにあるはずだ。