2023/06/16

トーベ・ヤンソン「ムーミン谷の彗星」感想

・調べたところによるとこの小説は1946年に書かれた初版を1956年に改訂し、さらに1968年に三訂されようやく完成したらしい。私がこれまでもこれからもそして今まさに書かんとしている文章も、パブリックな力を持ったりや作者の意図への正確な責任を考慮しない つまりはただの「いち読者の感想文にすぎない」という前置きをするために、この1968年版(三訂版)についての不思議な感慨を先に書く。
 この小説は彗星に比喩される“世界の終わり“がモチーフとなっているが、そのモチーフを思ったときに安直に私の心に浮かび、読書後に真っ先に聴いた音楽がある。なんであろう、ミッシェルガンエレファントのデビューシングル「世界の終わり」である。安直というのは既に告解している。
歌詞を一節引く。

 世界の終わりがそこで見てるよと
 紅茶飲み干して君は静かに待つ
 パンを焼きながら待ち焦がれている
 やってくる時を待ち焦がれている
 世界の終わりはそこで待ってると
 思い出したように君は笑いだす
 赤みのかかった月が昇るとき
 それで最後だと僕は聞かされる
 世界の終わりはそこで見てるよと
 紅茶飲み干して君は静かに待つ
 パンを焼きながら待ち焦がれている
 やってくる時を待ち焦がれている

「ムーミン谷の彗星」を読まれた方は、なんというか奇妙な、そして微妙な類似性を感じるのではないでしょうか。私にはこの曲の歌詞と小説とを関連させて感想文を展開させるほどの思惑も技量もないのだが、なんか似ているというか、私が「ムーミン谷の彗星」を読みながらこの曲を思ったというのが確信を欠きながらも、しかし提出せずにはいられない感慨なのである。“セカイノオワリ“という音だけならば、「Dragon Night」でもいいものなのに。不思議だね。
またこのミッシェルの歌詞は冒頭に「悪いのは全部 君だと思ってた」とあるが、これは小説の中でスニフが何度も口にするぼやきでもある。不思議だね。
 こじつけと言われればそれまでで、申し上げた通りこれ以上の展開はないが、私の感慨を担保する余計なトリビアをもう一つだけ。
ミッシェルガンエレファントのボーカル・「世界の終わり」作詞者であるチバユウスケの生まれた年というのは、完成版の書かれた1968年なのである。不思議だね。前置き終わり。



・「ムーミン谷の彗星」は、題の通りムーミン谷に彗星が落ちてくる、それまでの数日間の物語である。ムーミントロールとスニフは、宇宙の広大さと自分達の存在の軽さを哲学者に吹き込まれ、宇宙の広さを知るために天文台へ向かう。その道中で出逢ったスナフキン、スノーク、スノークのおじょうさんらと、彗星が地球に衝突する日までに家へと戻ろうと冒険する、というのが大体の筋であるが、感想文で筋を説明したところで意味なんかない。これは私が今、自分で自分に改めて小説を確認させるために書いた。

 彗星が衝突するとどうなるのかというと、地球は壊れ、自分達はぐちゃぐちゃになって死ぬ。アニメやなんかに因るパブリックイメージとしての「ムーミン一家」の物語とは随分毛色の違う印象があり、常に差し迫っていく制限時間とそれへの不安やぼんやりした恐怖が小説には通奏している。
 しかしながら、私がこの小説に最も感動したのは、冒険物語としての面白さだったりや、スナフキンの言う「冒険物語じゃ、必ず助かるんだ」というメタチックな予言および希望が前面ではなかった。そういったストーリー全体が言わんとしていることよりもむしろ、世界が段々と終末に向かって不穏さを増していく状況にあって、初恋に直面し浮かれまくる主人公ムーミンとスノークのおじょうさんら二人のイチャイチャこそが、私の胸を揺さぶったのだ。
ひたすらに浮かれつづけるのは二人だけである。スノークのおじょうさんの兄であるスノークやスニフ、スナフキンら旅の一行メンバーは、とぼけてはいてもそれぞれ彗星に現実的に恐怖し、また避難を志向している。その避難先として無根拠ながらムーミン谷を目指している。しかし、ムーミンというのはそれとは違って、一発で大好きになっちゃったスノークのおじょうさんを単純に自分の家に招くために家路を急いでいるのだ。ママにケーキを作ってもらうぜとか言っているのだ。どう考えてもそんな場合ではない。世界の終わりはもう目の前で、世界が終われば二人にだって未来はないはずなのだから、二人の未来のためにも勇敢にならなければいけないはずではないか。と、あまりにも見せつけてくれるカップルを見て、ないし疲弊と苛々を募らせていく他のメンバーの背中を省み、私は考えたが、「本当にそうだろうか?」という思いが湧き上がってきた。

 私たちはいつか必ず死ぬ。世界はいつか必ず終わる。
 生まれてくるということ、今ここに存在することは、“いつか必ず終わりが来たる”という、世界との約束をしているからこそ成り立っている。私たちは有限な時間の中で、ときに死に怯えながらもほとんどは約束の期日を意識せずに過ごしている。明日突然死ぬかもしれない。いつかやってくる約束の日の“いつか”は、私たちの都合を考慮してはくれない。
 であるならば、私たちもまた、世界の都合を考慮することなんかないとも言える。来年、来月、来週、明日に死ぬとしても、今日誰かを好きになってもいい。好きになったコとダンスを踊ったっていいのだ。私は恐怖や不安の克服・回避に反対しているわけではない。恋に代表される人生の歓びとは、TPOに関係しないのだと言いたいのだ。なぜか? 私たちは人生を楽しみ、歓び、幸せになるために生まれてきているからだ。そのことだって、世界との約束に含まれているのだ。

 私が感じた上記のことは、私の志向であり、そして私の出逢ってきたすべての人への祈りでもある。
トーベ・ヤンソンは、女性の社会地位の不安定さや当時のソ連との長い戦争からの敗戦の痛み残るフィンランドでこの児童文学を書いた。
児童文学の本懐とは、明暗の点滅する未来をこれから歩みだす子どもたちに対して人生の豊かさを保証するところにあるはずだ。

2023/06/15

J.M.クッツェー「恥辱」感想

 序盤で、ブレイクの預言詩(プロフェシー)からの引用「なさぬ望みを胸に抱えているより、みどりごはその揺籠で殺めよ」があり、最近大江健三郎読んでた身としては──というか『個人的な体験』の主題というのはこの詩この箇所であったから、まるで読書という行為によって別の本が引き寄せられたかのような錯覚をおぼえた。そうでなくともこの小説にある"犬"および"犬殺し"というモチーフは大江のデビュー作『奇妙な仕事』に通じているわけで……なんというか……南アフリカの作家が書いた小説を読みながら日本作家を感じるというか……つまり……こう……ジュディ・オングが歌うところの"Wind is blowing from Aegean"というか……"好きな男の腕の中でも違う男の夢を見る"というか……"Uh Ah, Uh Ah"っていう言語外の気分になった。

 原理として気分というのは言葉にならない。"気分"でなくともいい。"感覚"でもいい。 言葉というツールは人間が利便性と効率のために創造したにすぎず、気分だとか感覚だとかいうのは犬にだってある。山羊にだって羊にだってある。それでは"恥辱"というのはどうか。これも人間特有ではなく、おそらく動物にもあるだろう。本当にそうか?

 主人公のデヴィッド・ラウリーは都会で暮らし、年齢を鑑みれば過分な性生活をしている。大学教授の職にありながら、甲斐を感じず、オペラの執筆を夢想している。読み始めた当初はシンプルに胸糞悪いジジィめとだけ思っていたが、スキャンダルで査問会にかけられるシーンでのデヴィッドの行動はそれまでの読者の抱く認知と外れたしらこい態度になっている。それは老成や達観もしくは諦念というよりは無関心であり、とにかく更生をしないというその一点の執着によって支えられている。しろよ。と思うし、田舎の娘を訪ねた彼がかの査問を「恥辱」と看做したことには違和感がある。恥辱とは査問会のメンバーが彼に強い、しかし成せなかったことだ。
それをして恥辱とは、文字通り厚顔無恥であると私なんかは思う。ある種の倫理的欠落によって恥辱を免れたデヴィッドは、しかし彼の(おそらく)教養に立脚した社会性への無関心よりもさらに厳格な「田舎の現実主義」に敗北する。田舎における現実主義とは、自然およびそこに生きる動物たちの摂理である。弱肉強食があり、食物連鎖がある。生きるために屠殺があり、存続のために搾取がある。そこには理想や希望ないし絶望という目に見えないものの介在する余地はなく、ただただ生命がその原始的な本能に因って活動するひとくさりの時間と事象だけが連続する。
 デヴィッドは娘宅への襲撃に端を発する田舎の現実主義に対して、今度こそ"恥辱"を味わうことになる。SNSなどで小説の感想を眺めていたら彼の怒りはお門違いであるなぜなら彼もまたレイプまがいの性的搾取を行使していたんだから!というのがあったが、娘宅への襲撃における強姦と、デヴィッドが都会で行なっていた性生活は前提の俎上が異なっている。デヴィッドが行っていた買春や教え子との姦通は、そのどちらもが資本主義的もしくは権威主義的な立場の上下関係において行われている。だから端的にセクハラであり性暴力である。田舎において行われる襲撃と強姦は、田舎の現実主義のもと"厳格に"行われており、だから襲撃者たちは被害者に対して"怒りをおぼえながら"暴力を振るったとされている。つまり田舎の現実主義の前に倫理や法律という都会の視点を持ち込んだところで無意味なのであり(逆に都会ではそれが絶対のものとしてあるのでデヴィッドは裁かれるわけで)、その、都会の倫理観が田舎の人々たちの意に介されないことこそがデヴィッドの恥辱の本質なのだと思う。都会と反りが合わずに半ば意識的に離脱した彼が田舎に排斥される。宙ぶらりんな状態で不満と怒りは募っていくだろう。

 小説の裏書に「没落する男の再生」というようなことが書いてあったが、この小説における"再生"とは何か。
人間性を取り戻すことが再生なのだとしたら、ある意味ではそれは叶っているのかもしれない。上述の「田舎の現実主義」の前に、カッコつけた無頼のそぶりが打ち砕かれて、自分はどこまでも資本主義的ないし権威主義的であったと無意識であれ打ちのめされるということか。しかしながら、「再生」がこの小説の着地点に据えられていると前提すれば、彼の消極的な都会的倫理観のめばえというのは結末ではない。ゆえに再生とはおそらくこのことではない。小説の結論としての再生とは、都会的倫理的から本格的に脱され、つまりもう二度と、都会で通用する"人間の心"みたいなものを取り戻せなくなるまで自然に回帰することだろう。愛着をもった三本足の犬を、愛着を持ちながらにしてなんの感慨なしに屠殺する。「犬たちに分からないのはあの部屋の奥で何が行われているか」と書いてあるが、本質においてデヴィッドも分からなくなっている。生命を奪うことや暴力を振るうこととは、そこに大いなる意志が介在するものではなく、もっとあっけないただの事象である。この小説では自然回帰を「犬(のよう)になる」と表現している。犬が動物の象徴というのはおもしろいと思う。犬とはそもそも太古、人間によって、人間にあわせて改造された動物だからだ。人間のためにつくりあげられた犬をして、人間の対極に比喩されている。ここにはねじくれた冷笑がある。私はそう思う。それゆえに、まだ私は都会的倫理観のしもべたる人間であると自分で思うが、クッツェーからすれば未熟と看做される状態なのだろうか?

2023/06/04

大江健三郎「新しい人よ目覚めよ」感想

・鶴見俊輔による解説の中の以下のセンテンスがこの連作短篇における大江健三郎の祈りの核と思う。

 詩は定義する。読者にとって、そのように詩をうけとる時がある。詩の定義の仕方は、数学が定義する、自然科学が定義する、社会科学が定義するのとは、ちがうはたらきで、この言葉をもってこれから生きてゆけば、この領域での経験に関するかぎり、これでやってゆけるという予感をあたえる。



・「怒りの大気に冷たい嬰児が立ちあがって」の中に、今まで小説を読んでいてあまり感じたことのない類の感動があった。それは動揺と言ったほうが正しいかもしれないほどになじみのない心の揺れだった。当該シーンは、いつか来たる自分たちの死について長兄のイーヨーに咎めた言い方をした両親に対し、イーヨーの弟妹が反撥するという箇所で、弟が次のように言う。

「──イーヨーは、人指ゆびで、まっすぐ横に、眼を切るように涙をふいていたよ。 ……イーヨーの涙のふき方は、正しい。誰もあのようにはしないけど……」

このセリフの良さ、いやセリフじゃなくて、この切実な想いとイーヨーの泣き方を見て「正しい」と弟が看做すに至る根拠というのは、おそらく「言葉」とか「論理」の外側にある。言い換えれば私たちの外側にある世界の理のようなものに感応したということかもしれない。いやこんなふうに分析というか言及すること自体があまり良くない。この良さ。言葉にできない良さが強烈にある。私はここに、かなり興味がある。