2021/04/30

配信企画「ゴテンバサノバザール」第2回出演者募集


昨年に続き、緊急事態宣言による自粛期間が始まりました。
私の周りでも演劇公演の中止や延期など、悔しいニュースを多く耳にします。
気づけば途方に暮れてしまいがちな虚無がいつでも部屋のサイズで口を開けている、そんな状況の中で、それでもなにかできることはないかと模索を続けている俳優や作家の皆様は多くおられると思います。
めのんは、この度昨年末に催しました、応募者全員朗読配信企画「ゴテンバサノバザール」の第2回を行うことにしました。この企画は、文字通り、どなたでもご応募いただけ、選考などなく全ての応募作品を発表するプログラムになります。資格・条件はございませんので、ご興味ございましたら以下手順からどしどしご応募いただければとおもいます。
予断を許さぬ状況が続いておりますが、創作そして創作行為の”すてきさ””楽しさ”が失われぬこと、そしてなにより皆様の健康と日常の中のサイズを問わぬわくわくや幸福を祈って。
めのん 志水あみ


「ゴテンバサノバザール」♯1はこちらから視聴できます。


【企画概要】

・こちらのページに載っているテキストから出演者に一本選んでいただき、その音源をポッドキャストWEBにてすべて発表する。

・私からの演出はありませんので、ご自由に読んでください。ご自身で編集をしたりSEをつけていただいてもかまいません。




【参加手順】

①こちらへのメールもしくは、TwitterのこちらのアカウントへのDMで参加希望の旨をお伝えください。♯2の応募〆切は2021年5月11日とします。

↓

②「ありがとうございます」的な挨拶返信を致しますので、その返信から《1ヶ月以内》に、録音を行い、音声ファイルをメール添付やGigaFile等ファイル共有サイトURLという形で①と同じくメールもしくはDMにてお送りください。その際、出演者のお名前を明記してください。複数で参加する場合は全ての参加者のお名前をお書きください。

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③頂いたファイルを順次Podcastにアップロードし、完了次第お知らせいたします。




【注意事項】

・作品の著作権は作者である「志水あみ」と出演者様のどちらも有するものと致します。よって、アップロードされた作品をご自身のホームページなどにアップロードする場合は、志水あみによる執筆である旨をお書き添え下さい。

・双方ノーギャランティーとなります。それに伴い、テキストを使っての商業公演や音源の販売はお控え下さい。(ただし無料上演であれば、ご連絡くだされば許可いたします)

・テキストの文言の改変、構成の変更は禁止とします。




たくさんのご応募お待ちしております!!!!!!!!!!!!!

2021/04/19

夏の娘たち〜ひめごと〜

 空間というより時間、が文字通り切り取られてそれによって空間の方が歪む、しかしながら映画体験はあくまで「時間」の中にしかないという整理してみると誰でも分かるけど気にしてないことに監督が意識的であるが故にうまれる効果が、気持ち悪さ、「えっ?」という動揺(それでも「なんで?」とは思わない)によって観客の意識を釘付けにして、映画は非常に繊細で微妙な波打ち際を足を濡らさず全力で推進する。


 この映画の特徴である歪なズームアップも、小学生にカメラ持たせても同じことをやりそうなものだが、ちょっと調べたところその技にまばたきという名前までつけてやっていたようだし、川の整音も「真似しちゃダメですよ」とインタビューで言いながらもすべてわざとやっていたらしい。


 つまり、テキトーにやってもそうなることすらその方が面白いっしょ意識つまり"あえて"ではなく(この"あえてではない"ということが本当に大切なのだけど)、「そうするべき」という強い順当性のもと丁寧にやる点こそ堀禎一が私にとって唯一無二の大切な監督である一番の理由と、観る前から思っていたことをさらに思わされた。


──と書いてみたものの監督への個人的な想いを作品レビューに書くのは忍ばれる。それは監督の仕事に対して観客が過度な感傷を持つということで、別に他の監督にならともかく俺は、堀禎一だけにはそういうことをしたくないから。

 すべての作品は観客と作家の丁度まんなかの位置に置いてあって、観客はそれをはじめて体験するみじかい時間、作品を通して一度だけ作家と話すことができる。


 「映画は歳を取らない」という言葉が上映後のトークショーであったが、申し訳ないけど私はそれを希望の言葉とは思えない。

私が未熟である証拠だ。

いつかこの映画に対して、その言葉を希望的に思える日が来るといい。

それは絶対叶わないことじゃない。

手段がまだあることを私は知っている。

あなたにいつかまた会えたなら、それはどんなに嬉しいことだろう。


https://filmarks.com/movies/74393

2021/04/18

ターン

 事情あってタイムリープモノを観ることにし、タイムリープモノといえば「ターン」かなと思って観た。「ターン」しか思いつかなかった。


 前半のピークとなるレストランデートシーンで、ベタではあろうに不覚にもグッ…!ときてしまった。それは単純にベタな感動ではあるけどそれだけではない。

 しらける危険大の説明台詞をキャラクターにさせて客に情報を共有させる手として、なるほどその手があったかというか、まぁアレが端的なのかはわからんけど、あぁいいですね…と思ったのも確か。


 俺なんかどうしようもないので俺だったらレストランデートをクライマックスに持ってきてしまいそうだけど、確かにそれだと何も解決しない。

 そこからカキザキによって物語が展開するわけだけどなるほどカキザキていうアイデアは見事、お上手という感じだしカキザキが出てくるシーンが全部良い。良いというのは上手いという意味。展開としては設定に対してベタなのかもしれないが。わからんが。俺だったらしてやったりの顔をしてしまいそう。職人が作った映画なのだ。たぶん。


 なんにせよアイデアや設定に終始せずそこから展開をさせるというのは大切なことだよねという中学生みたいなことを思った。いわゆる文芸邦画エモエンタメ映画のかなりオーソドックスな型なのであろう。職人が作った映画なのだ。たぶん。


 ラストの展開はやや強引な気もする。ちょっとひっかかってる自分がいないわけでもない。でもまぁ、いいかとも思う。なんかエモいし。そんなことするなよってのもない。とくにラストだけど編集も普通に良い。べつに過剰にしてなくてそこも良い。職人が作った映画なのだ。たぶん。


https://filmarks.com/movies/33058

2021/03/18

トキワ荘の青春

 私が今暮らしている部屋を借りたとき、「トキワ荘の青春」を思い出していた。


 すべての若者がそうであるように私もまた「まんが道」をはじめとするトキワ荘にまつわる作品を読んで胸打たれた一人であり、そしてまたすべてのそういう人たちが其々のトキワ荘を借家の候補に探すようにして私は不動産屋さんに「トキワ荘の青春」って観たことありますか?ああいう部屋に暮らしたいんですが、と訊いた。

 不動産屋のお兄さんは「見たことありませんね」と言った。「だけど探してみます。」


 私は結局、トキワ荘に比べれば交通の便が良く、駅近で、少し広い部屋を借りることになった。それでもそのアパートは木造で、畳の部屋で、風呂がなかった。

 はじめての夜、家具がほとんど何もない部屋で、DVDの「トキワ荘の青春」をひとり観た。作品の中で入居してくる若者のようなきらきらした気持ちには何故かならなかった。やってやるぞという気持ちにはならなかった。トキワ荘の青春その時代より地球は温暖していて夏が暑く、そしてエアコンがあった。

 私は結局、トキワ荘に比べれば交通の便が良く、駅近で、少し広い部屋を借りたのだと思った。映画の中のことは映画の外には無く、そもそも私は漫画家を目指していなかった。

 そんな夜からしばらくの時間が経って、私にも少しだけども友達ができたりして、家でちゃぶ台を囲んで酒を飲む夜があったりもした。その頃に比べれば集まる頻度が少なくなった友達と映画館で「トキワ荘の青春」を観た。やっぱり、別に、自分たちと作中の彼らを重ねたりはしなかった。それでももちろん素晴らしい映画だと思ったけど。また別のことなのだ。悲しいことではない。

 劇場が明るくなると友達のひとりがむせぶほど泣いていた。

 私たちはとんかつ屋で定食を食べて、昼からビールをわけわけして飲んだ。帰り道の電車の中で、私は部屋でひとりDVDを観た日のことを思い出した。


https://filmarks.com/movies/33058

2021/03/01

ライアー×ライアー

 老害の告解として申し上げるが私は森七菜も松村北斗もタイプの顔ではない。ルックスに惹かれない。
 そんな老害である私ですら、しかし透と湊にはきゅんきゅんしっぱなしの2時間で満足でした!!!!!!
 大好きな女の子の後ろ姿に手を振りつづける透、悲しくなってノーモーションで突然ぽろぽろ泣いちゃう透、忘れてたことを思い出す呆けた顔の湊、不意を突かれて呆けた顔の湊、エクアドルの本を持ってる透……ラヴぃ。

 設定を読んだ時から絶対おもしろいだろこんなんと思っていて、予告を何度も観ながら「どうなっちゃうの〜〜!?」と思っていた私は、本編が始まって2時間のあいだ、やはりずっと「どうなっちゃうの〜〜!?」と口に手を当てていた。
 期待しすぎて予測を立てすぎてオチの選択肢を全部用意してしまった私だったけど、それでもある程度はびっくりできて良かった。しかしあのラスト、客観的に見るとけっこうえげつないというか、悪夢みたいだと思っちゃったけどそれは良く言えば重層的になってるということなのか。

 必要以上に何度も反復され強調される"手を繋ぐ"というアクションと「迷子にならないよう手を繋ごう」という、耳慣れた常套句に新しい意味を付与する、これこそが創作においては肝心なことだと老害は思います。
迷子にならないよう手を繋ごう。
そうなのだ。それがテーマなのだ。

2021/02/27

亀田梨紗写真集

 被写体の力、というものは、あって、しかもそれは一定量撮影者の個性に左右されない。
どんな人がどんなカメラで撮ってもどんな演出しても、揺らがないものがあるということだ。
撮影者を否定しているわけではない。撮影者の個性とはその先に枝分かれするものだ。
 
 かめりささんの写真集を買った。
 なんか最近SNSのタイムラインでかめりささんの写真を目にすることが多くて、そのどれもに、写真の良し悪しとはまた別の、一言では言いづらいエネルギーを感じていた。都度、これはなんだろう?と思っていた。それらを撮影した人は一人ではなかったのに、受像したエネルギーはどれも同様だったからだ。
 エネルギーは渦を巻いていた。ちょうど絵の具を水の入ったコップに垂らしたときのようなイメージをしていた。
 そして写真集を買った。知り合いの写真集を購入するなんて初めてだった。照れ屋のおれは本来そういうおれではない。
掲載されていた写真はおれがSNSで見ていたのとはまた違うタッチだったし、SNSで見ていたのとは少し趣が異なっていた。
しかしながら、おれはまた同様の渦を感じた。
 少し調べてみたところ、この写真集は一日や二日でエイヤッと撮影されたものではないっぽかった。
雰囲気の異なる幾つかの、大まかに言えば章があるのはそういうわけかと納得した。
 しかしながら、おれはどれもに同様の渦を感じた。
 これはなんなのだろうと、あまり真剣になりすぎないよう気をつけながら、たとえば木耳とご飯を出汁で炊き込んだやつを食べたり、木耳と卵とキャベツを炒めたやつを食べたり、セブンイレブンの見慣れない飲み物をタバドリにして喫煙したり、シン・ウルトラマンのソフビを買ったり、シン・ウルトラマンのソフビを窓から射し込む夕日に照らしてDP2sで写真に撮ったり、隣町の図書館でアンゲラ・ゾンマー・ボーデンブルグの「ちびっこ吸血鬼」の本を三冊借りたり、それを読みながらドトールで昼寝したり、「くるぐる使い」を読み終えたり、「花束みたいな恋をした」を観たり、穂波さんに駅前でばったり会って彼の家で朝まで酒を呑みながらなぞなぞをしたり、穂波さんに駅前でばったり会っておれの家で朝まで酒を呑みながらトランプをしたり、澁谷ツタヤで「ウルトラセブン」を借りてきて観たり、スパルタローカルズ「セコンドファンファーレ」「悲しい耳鳴り」を聴いたり、スパルタローカルズの解散ライブの映像を観たり、LIGHTERS「Don’t worry」を聴いたり、Jack Stauder「Pop Food」を聴いたり、Workshopを聴いたり、木村カエラ「TREE CLIMBERS」を聴いたり、志ん朝の「茶釜」「高田馬場」「化け物使い」「百年目」「そば清」を聴いたり、The Marias「I Don’t Know You」を聴いたところで、“この感じだ“と思った。そこで捉えた感じがあった。
 英語なので歌詞は読んでみても虫食いのようにしかわからなかった。翻訳をする気にはならなかった。意味が分かってしまうとしらけることもある。その予感が働いた。
 “情報“なんかどうでもいいことがある。正体を説明できない方がいいこともある。マリアズのこともあんまりおれは良く知らない。ボーカルが女の子ということしかわからない。どこの国のバンドなのかも知らない。英語圏なんだろうけど。もろもろをすっ飛ばして、これが俺が写真集から感じたムードでは、あった。
 そして、エネルギーの正体を考えることに終止符を打つために、この文章冒頭のことを書いた。あんなことは元から誰もが知っていて、そしてかめりささんという被写体を撮影したことがある人なら誰でも感じているであろう要素の一つに過ぎない。敗北だ。
 だから書いてみたところでエネルギーの正体のことは依然おれの中で、イメージの域を出ない。出なくていい。なんだかこんな風に書いていること何もかも野暮に思えてきた。敗北だ。だけどそれでいいのかもしれない。
おれもかめりささんの写真撮ってみたいです。俯き白旗を振りながら申し上げます。
 
There’s weight in my bed
Where you laid and you said
I don’t know you
I don’t know you
If we tried to retrace
Would it show on my face
And remind you
I don’t mind you
But babe this isn’t right
But if you’d rather dry your eyes then honestly I’m fine
With keeping my trust in you
And making up if we tried
I’m hardly unsatisfied



2021/02/25

花束みたいな恋をした

中央線の各駅にあるぼろぼろのアパートには必ず鍵がかかっていない部屋があって、なぜかといえば盗まれるようなものがないからだ。
夜になるとそれぞれの部屋の小さな窓辺で峯田和伸と麻生久美子が夜光雪を眺めている。
映画に出てくる中央線のアパートには、ベランダがない。外階段もない。一軒もない。
そしてそんな映画のなかで峯田が言っていたのはこんなセリフではない。
“みんなの中にも、きっと福満しげゆきは住んでる。
その福満はきっと言うだろう。「死なせてくれ!殺してくれ!」“
 
ともあれ「花束みたいな〜」前半を観ながら私は以上のセンテンスを思い出していた。
不思議なのは、そんなセンテンスはないし、私には別に麦くん絹ちゃんのような出会いも思い出も彼らのような青春への憧れもないのに胸が苦しかったということだ。
まるで呪術高専の東堂先輩だけど、カルチャーに恥ずかしい気持ちよりも息苦しさが優先されていた。理由はわからない。
 
物語が進むにつれ胸の苦しさは消えていった。召喚された福満は丸くなって眠った。
後半の方がずっと微笑ましく思った。素敵なカップルだという感想。
なぜか?
彼らが(最初から)最後までずっと両思いだったから。
終始口に出さずとも全く同じタイミングで全く同じことを感じていたから。
相手のことを素敵に思うことも、相手に不満を持つことも、相手に別れを決心することも、すべて全く同じタイミングである。
それは「恋」ではないしかといって「愛」ということではない。
ただお互いの自分の魂の片割れに出逢ったということだ。鏡みたいに。
安らぐにせよにせよ悲しむにせよ“そういう相手を持つ“ことは、奇跡的だし、素晴らしいことだと私は思う。
そう思うことに私はロマンを感じたいと思っている。
「奇跡は(映画の中では)起きる」と教えてくれている。
 
別れた二人が過ごした三ヶ月を、私は何より悲しくそして美しい日々のように思った。
飼い猫をどちらが引き取るかのジャンケン、他のどんな描写より二人が大人になってしまった切なさがある。
彼らのおしまいの三ヶ月こそ“あり得るはずだった/あり得たかもしれない/しかしもうあり得ないであろう“二人の日々だからだ。
 
ラストシーンで、一年位前に読んだ本の文章を思い出した。
それは悲しい運命を辿ることになるひと組の夫婦がまだ幸せだった頃に撮影された、彼らの肖像写真についての文章だ。
「この二人が悲劇的に運命づけられていながらも、なおそれとは違った未来への可能性のなかにおいても同時に捉えられているからこそ、彼はこの写真の二人に感動したに違いないのだ。人生の様々な可能性に向かって開かれたままの状態で結晶化している二人の姿に……。」
「この写真から、未来の出来事との連関によって意味づけられてしまうこと(運命としての悲劇)からも、当事者たちの現状認識によって意味付けられていたこと(婚約という幸福)からもこぼれ落ちてしまうような、あり得たかもしれない別の歴史の可能性(「未来における別の幸福」とでも言うべきか)を感じ取ったと思われる。実は彼の言う「想起としての歴史」とは、そのもう一つの別の未来の可能性、つまり果たされなかった革命の可能性を、過去の出来事の片隅に見出し、それを現在へともたらすことと言えよう。」
(引用:長谷正人「「想起」としての映像文化史」)
あの“画像“を発見した麦くんは笑っていた。
さよならだけがバッドエンドではない。
ふたりの心が人生が通うことはもうないとしても、奇跡は起こる。少なくとも映画の中では。