結局のところ、かなしいことばかり考えてしまって、がっかりしてめそめそしてどうしたんだいの権化、ミーサ、もしくはフィリフヨンカが主人公であって、ムーミン一家はほとんど端役でしかない。ミーサの悲観とフィリフヨンカの孤独は似た趣があって、彼女らのかなしみもしくは寂しさが、演劇(=劇場という場所)に、文字通り見立てとしての人生や親類を設定することで視界が晴れる。演劇というものもしくは舞台という場所が、目に見えないもののために見立てられて存在しながらも実態として肉体を伴うというのは、たちかえれば儀式的・祝祭なニュアンスを構造に内包する(この本のタイトルは「ムーミン谷の夏まつり」である)。
シャーマンの例をとるにおよばず、俳優の身体には自身とは別の人格が降霊され、自身とは別の人生を歩む。しかしそれらは、別の世界線や多層的なレイヤーを重ねることではなくて、あくまで俳優自身の人生の中の一部である。だから何かを上演することは、俳優の人生に影響を及ぼす。それで俳優が救われるというのは、演劇の効用として、正しい。
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