序盤で、ブレイクの預言詩(プロフェシー)からの引用「なさぬ望みを胸に抱えているより、みどりごはその揺籠で殺めよ」があり、最近大江健三郎読んでた身としては──というか『個人的な体験』の主題というのはこの詩この箇所であったから、まるで読書という行為によって別の本が引き寄せられたかのような錯覚をおぼえた。そうでなくともこの小説にある"犬"および"犬殺し"というモチーフは大江のデビュー作『奇妙な仕事』に通じているわけで……なんというか……南アフリカの作家が書いた小説を読みながら日本作家を感じるというか……つまり……こう……ジュディ・オングが歌うところの"Wind is blowing from Aegean"というか……"好きな男の腕の中でも違う男の夢を見る"というか……"Uh Ah, Uh Ah"っていう言語外の気分になった。
原理として気分というのは言葉にならない。"気分"でなくともいい。"感覚"でもいい。 言葉というツールは人間が利便性と効率のために創造したにすぎず、気分だとか感覚だとかいうのは犬にだってある。山羊にだって羊にだってある。それでは"恥辱"というのはどうか。これも人間特有ではなく、おそらく動物にもあるだろう。本当にそうか?
主人公のデヴィッド・ラウリーは都会で暮らし、年齢を鑑みれば過分な性生活をしている。大学教授の職にありながら、甲斐を感じず、オペラの執筆を夢想している。読み始めた当初はシンプルに胸糞悪いジジィめとだけ思っていたが、スキャンダルで査問会にかけられるシーンでのデヴィッドの行動はそれまでの読者の抱く認知と外れたしらこい態度になっている。それは老成や達観もしくは諦念というよりは無関心であり、とにかく更生をしないというその一点の執着によって支えられている。しろよ。と思うし、田舎の娘を訪ねた彼がかの査問を「恥辱」と看做したことには違和感がある。恥辱とは査問会のメンバーが彼に強い、しかし成せなかったことだ。
それをして恥辱とは、文字通り厚顔無恥であると私なんかは思う。ある種の倫理的欠落によって恥辱を免れたデヴィッドは、しかし彼の(おそらく)教養に立脚した社会性への無関心よりもさらに厳格な「田舎の現実主義」に敗北する。田舎における現実主義とは、自然およびそこに生きる動物たちの摂理である。弱肉強食があり、食物連鎖がある。生きるために屠殺があり、存続のために搾取がある。そこには理想や希望ないし絶望という目に見えないものの介在する余地はなく、ただただ生命がその原始的な本能に因って活動するひとくさりの時間と事象だけが連続する。
デヴィッドは娘宅への襲撃に端を発する田舎の現実主義に対して、今度こそ"恥辱"を味わうことになる。SNSなどで小説の感想を眺めていたら彼の怒りはお門違いであるなぜなら彼もまたレイプまがいの性的搾取を行使していたんだから!というのがあったが、娘宅への襲撃における強姦と、デヴィッドが都会で行なっていた性生活は前提の俎上が異なっている。デヴィッドが行っていた買春や教え子との姦通は、そのどちらもが資本主義的もしくは権威主義的な立場の上下関係において行われている。だから端的にセクハラであり性暴力である。田舎において行われる襲撃と強姦は、田舎の現実主義のもと"厳格に"行われており、だから襲撃者たちは被害者に対して"怒りをおぼえながら"暴力を振るったとされている。つまり田舎の現実主義の前に倫理や法律という都会の視点を持ち込んだところで無意味なのであり(逆に都会ではそれが絶対のものとしてあるのでデヴィッドは裁かれるわけで)、その、都会の倫理観が田舎の人々たちの意に介されないことこそがデヴィッドの恥辱の本質なのだと思う。都会と反りが合わずに半ば意識的に離脱した彼が田舎に排斥される。宙ぶらりんな状態で不満と怒りは募っていくだろう。
小説の裏書に「没落する男の再生」というようなことが書いてあったが、この小説における"再生"とは何か。
人間性を取り戻すことが再生なのだとしたら、ある意味ではそれは叶っているのかもしれない。上述の「田舎の現実主義」の前に、カッコつけた無頼のそぶりが打ち砕かれて、自分はどこまでも資本主義的ないし権威主義的であったと無意識であれ打ちのめされるということか。しかしながら、「再生」がこの小説の着地点に据えられていると前提すれば、彼の消極的な都会的倫理観のめばえというのは結末ではない。ゆえに再生とはおそらくこのことではない。小説の結論としての再生とは、都会的倫理的から本格的に脱され、つまりもう二度と、都会で通用する"人間の心"みたいなものを取り戻せなくなるまで自然に回帰することだろう。愛着をもった三本足の犬を、愛着を持ちながらにしてなんの感慨なしに屠殺する。「犬たちに分からないのはあの部屋の奥で何が行われているか」と書いてあるが、本質においてデヴィッドも分からなくなっている。生命を奪うことや暴力を振るうこととは、そこに大いなる意志が介在するものではなく、もっとあっけないただの事象である。この小説では自然回帰を「犬(のよう)になる」と表現している。犬が動物の象徴というのはおもしろいと思う。犬とはそもそも太古、人間によって、人間にあわせて改造された動物だからだ。人間のためにつくりあげられた犬をして、人間の対極に比喩されている。ここにはねじくれた冷笑がある。私はそう思う。それゆえに、まだ私は都会的倫理観のしもべたる人間であると自分で思うが、クッツェーからすれば未熟と看做される状態なのだろうか?
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