・物語的な感想をまず言うと共依存ではなく呪縛が延々に描かれていてそれは
①「朝日って怖くない?」「わかる」
↓
②「ずっと昼なのに俺らの体は夜になるのと、夜になっても俺らの体は昼のまんまなのとどっちがいい?」という2シーンのセリフでおそらく示唆してるんでしょう。
そういう類の呪いについての物語であってその呪いをかけたのは沙希ちゃんだ。
マジでなんなんだあの女。あんな女の子いたらそりゃ才能あっても枯れますわいな、こわ。つーかおまえも頑張れよ!いや呪いに自分もかかってるからしょうがないか!
だとしてもラストシーンのあの女のセリフはめちゃくちゃむかついたけどな、おれは。
物語への感想おわり。
・おもしろいのかおもしろくないのか最後までよくわからなかった。
おもしろいのかおもしろくないのかよくわからないというのは、良くもあり悪くもある。
これを観た人が「あるあるって感じだよ」と言っていたけど全然あるあるじゃないじゃん!むしろ「あるある」を排除していった映画のように感じた。まずあんな出会いありえねぇだろ!
というか、"あるあるが"排除されているというのはそれが意図的であれ副次的なものであるように思う。
この映画から徹底的に排除されているのは共感である。具体的には「何かが起きている時間」であり、「本来描くべき時間」を省略することで共感を排除している。
映画において省略という作業を施す場合、基本的にA→B→CというシーンがあればBを省略しA→Cを繋げば穴埋め式にBは観客に了解されるのでそのようにすると思うんだけど、この映画はなんというかBが連続するというか、かなり些末だろという断片が連続して虫食い状態が延々と続く。
でもこれはおそらくわざだと思っていて、つまりはそのように本来省略されても構わないようなシーンばっかり映すことで、共感をさせないようにしているのではないか?
(あるあるというのはつまり共感なので、共感を許さないようにつなげていけばあるあるも結果的に排除されるというのが冒頭に書いたことです)
永田の行動や性格を好意的に捉える人はいないだろうし(いないというか、意図として完全に永田は客に嫌悪感を持たせるようなキャラクターにされている)、その永田をず〜〜〜〜っと好きな沙希の心理も、だから客は理解できない。沙希が永田を好きになるきっかけも描かれなければ惚れ直すようないいところも一度も垣間見えない。
ではなぜ観客に共感を許さないのか?
その方が美しいからだ!!!!!!!!!
銀杏BOYZの「僕たちは世界を変えることができない⁇?」という曲?というか、曲?トラック?があって、そこでは峯田が当時のバンドメンバー3人に、自分が長澤まさみといかに偶然・それゆえ運命的に出会うかの妄想を延々語るのだが、飯田橋だかどっかの駅で俺と長澤まさみさんが偶然出会ってその時俺もドキドキするけど長澤まさみさんもなんか感じると思うんだよみたいなことを言った時に3人のメンバーが「???」という反応をする。その時峯田は「わかる?わかんねぇかお前らには。でもいいんだよ、お前らがわかんねぇ分だけ、俺と長澤まさみさんは地球上で2人きりになれるんだから。」と言うのである。
「劇場」で施された共感の排除の意図とはつまりそういうことだと俺は思うし、それは"愛"というものを描く際に正当な態度であるとも思う。永田にもおそらく良いところはあり、彼らにもおそらく傍目から見て幸福な時間があったのだろう。しかしそれは、彼らだけのものだと、多分そのように扱われている。
しかしながら、だからといってそれは「おもしろい」ということにはならない。
「正当な態度」であれ別に興味の持続にはつながらないしむしろ興味を持続させるような「描くべきシーン」を意図的に排除したことでずっとこいつらに全然興味が湧かない。これはもうそういう監督なのか単純にウマが合わないのかは謎ですが映画的な興奮もない。
個人的には「映画」というより「小説の映像化」でしかないと思ったし、これだけモノローグで物語を進めているのは原作への敗北でしかない。だったら小説で読めばいいじゃんこれはそもそも小説として成立しているものなんだから。映画としてだるい。
とはいえ。
一箇所だけ、完全に虚をつかれ心臓を思いっきり蹴られたところがあった。
チャリの長回しでも部屋が劇場に変貌する箇所でもない。それらは、いいけど、「なるほどね」としか思わなかった。
そうじゃなくて、なんかマジ意味わかんない、いや意味はわからなくもないんだけど明らかに雰囲気が歪む、堀禎一の映画みたいなめちゃめちゃイビツな1、2秒があった。むしろその1、2秒によって2時間観続けてしまったと言ってもいいかもそれない。別に共感して欲しいわけではないので割愛する。
0 件のコメント:
コメントを投稿