紹介文に「その情熱はロマンチシズムにはほど遠い、激しく単純で肉体的なものだった」とあって、さぞエロいんだろうと思ったが別にエロくなく──いや……!今「別にエロくなく」と書いた途端に「いやエロいな?」と思い直した。そしてこの感じ直したエロさというは何かというのを考えた時に、冒頭の紹介文への違和感が立ち上がる。筆致に即してべつだん過激な性描写があるわけではないこの小説に私が感じるエロさというのはおそらくロマンチシズムに由来しているからだ。そこでロマンチシズムとは何かということを考えてみるが、この「ロマンチシズムとは何か?」というのを考えることこそがおそらく私の「シンプルな情熱」という小説自体への感想文に代替すると予感する。
ロマンチシズムもしくはロマンティックとはいかなるものか。まず安直に浮かぶのはそれが目に見えないということで、しかしそれこそがおおよそ正解であるようにも思う。ここでいう目に見えないというのはたとえば客観を排してるとか物質的な質量をもたないとかに言い換えることが可能ということだが、しかし"存在しない"とか"肉体的でない"というのとは違う。
いかにとっぴな妄想であれ、夢想であれ、(この小説にある)回想であれ、それらが頭に浮かんでいる状態には肉体性が伴うと私は思う。だからたとえば性欲にかられた妄想によって自慰行為ひいては現象としてのオルガスムは起きるし、楽しい夢想で頬が緩み、悲しみの想起で落涙する。私が定義するロマンチシズムというのは直截な意味での"甘美"のムードを必要としない。どんな種類の妄想夢想回想であれ、その想像行為自体によって身体に引き起こされるのは陶酔であって、また陶酔はえてして甘美なるものだからだ。つまり想像とはそもそもが甘美なのだから、"妄想夢想回想のうち甘美なものをロマンティックとする"という前提を私は無意味に感じる。
「シンプルな情熱」が"激しく単純で肉体的である"というのはその通りだと思うが、しかしロマンティックでないというのには以上の点から懐疑的なのである。"激しく単純で肉体的でかつロマンティック"なのである。そしてその、直截的ではなくあくまで"現在そうではない肉体"が、恋情にまつわる回想を意識に巡らせているという、二重のレイヤーを一つの身体に宿らせている複雑な状態(a)は、単純な性描写(それは肉体と意識が同時性を持っている)が続くポルノ(b)よりもずっと、グッと匂い立ってエロい、と私は思う。なぜグッと匂い立ってエロいのかについての説明は野暮というか、(a)の方が(b)よりエロいことを語ることは遅かれ早かれ嗜好の問題になってしまうから割愛する。わかんなきゃわかんないしわかるならわかる。嗜好はいつも言葉を超越する。
そしてグッと嗅ぎつけエロがりつつ、「いまここに無い時間/いまここに在る時間」が重なることも交わることもなくしかしひとつの制限領域の中で同時に存在しているというのが、この小説に私が最も惹かれた点だった。
この小説には以下の四つの時間のレイヤーの存在を私たちに知らしめる。
① 「私」がAと逢瀬を重ねた、"書いている「私」が回想する時間"。
② "①を想起しこのテクストを書いている「私」の現在時間"。
③ ②から数年後の、"②を読み返して①を想起している「私」の現在時間"。
そして、
④ 小説の出版から時を経て今まさに「シンプルな情熱」を読みながら、"①〜③を追体験的に想像している読者の現在時間"。
④というのはそもそもすべての文章を読む時に発生するのだが、この小説に於いては他の読書体験よりも強くこの④の時間が意識にのぼってくる。それは〈①←②←③〉というそれぞれの時間からの視線によってこの小説が構造されているからで、作品内でもうっすら言及されているが小説が読者によって初めて成立するものである以上、①〜③へ我々読者が矢印を向けるという自覚は必然の浮上である。
こうした逆流の視線構造はそもそも想起の構造であるのだが、アニー・エルノーが「シンプルな情熱」で描いているのは想起構造の具体例に終わらない。むしろ、かつてあった時間が失われないために書き留めた頁群を読み返すことが、皮肉にも現在という時間が経年によって過去と分断されてしまったという苦痛を実感させる要因になるところに本質がある。この苦痛は苦痛と言いながら痛みを伴わず、文字にすれば矛盾するようだが、だからこそ逆説的な苦痛になるのだ。露骨に提示された想起構造はこの苦痛によって反転し、結局時の流れというのは不可逆であって、あんなに痛んだ傷も知らず知らずのうちに回復するというような当たり前の時間構造こそがゆるぎなく出現する。撮影された傷の写真を見返すことは、瘡蓋のとれたつるつるの肌にもうその傷がないことだけを思い知らすのである。
こういった自罰叶わぬゆえに感傷的になり得ない苦しみが文体の簡潔さに表象されていると私は思うが、それを以って「ロマンチシズムにはほど遠い」とするのは、前述にさんざ書いた理由から、私は違うのではと思うのである。
私たちには明日を生きるために過去を思い出せなくなっていく機能が備わっている。しかしどれだけ思い出せることの解像度が低下しても、過去はなかったことにはならずまた忘れ尽くすこともできない。
「感傷的になり得ない」という感傷は存在する。
昔の恋とはその代表で、「シンプルな情熱」が昔の恋についての小説であるいじょう、ロマンティックでないわけがない。