他人に言うと驚かれるし、自分で思い直してみても意外なことだが、『呼ぶにはとおく振りむくにはちかい』でわたしは初めて排気口の演劇作品を客席で観た。
排気口という劇団および主宰の菊地穂波と出逢ってわたしの中では久しい時間が経ったが、厳密なことは忘れてしまった。それでもその久しい時間の中で、排気口の公演に“観客”という立場で干渉したことはなかった。伴って、出逢って初めて、事前に台本を読むでもなく解説を受けるでもなく観劇した。つまり繰り返しになるが、観客として鑑賞をしたのだ。
さて、それを踏まえてこれから排気口に対して感想文なるものを書こうとせんとすなのだが、これも考えみれば初めてだ。わたしは感想文というものにおいて身内がしゃしゃるのが好きではないから。台本を事前に読んでいたり稽古に何度も通っていたりゲネを撮影していたらそれはわたしの考える感想文ではない。感想文というのは個人の雑感に所属する。わたしがいかに、まるで解説のようなことや作者の想いの代弁めいたことを書いたとしても、それらは演劇に対してわたしが眼球を媒介に脳みそで受像した電気の点滅の域を出ない。ここには正解も不正解もない。また、上下左右もない。だから、これから書くことがあなたの抱いた感想と異なるとしてもそれは自然なのであって、また「お前は菊地穂波や排気口と親密なんだろう、だからそういう見方をするんだ」という固定概念をこの時点で抱いている人は今すぐ読むのをやめてくれよな。あなた、いや“お前“、お前に届く言葉はおそらくこれから一行もない。
ところで現在、鑑賞から何十時間という時間の経過がある。その中でわたしはYouTubeで「【けやかけ・そこさく】あかねんありがとう!守屋茜のけやかけ・そこさく名場面まとめ【守屋茜】」という2時間58分の動画をフルで観てしまったので、書く前から感想文にあたっては自分に大いなる負荷をかけてしまっている。だけど、わたしはマジで守屋茜を応援しているから。
近年の排気口作品というのは概ね大絶賛を受けていたが、今作は満足度の意味で賛否が分かれるのもまた自然だと思った。というのは、わたしの知る限りの排気口の演劇作品において、今作は最高難易度に当たるだろうと思ったからだ。ここでいう難易度というのは、難解という意味ではない。むしろみもふたもないほどに読解のための情報は提示されている。わたしがここで思う“難易度“というのは、作品鑑賞に対しての姿勢が前提とされているという意味である。つまり、「この演劇が何を言わんとしているのか」ということはセリフやエピソードよりもむしろ演劇全体の形態によって示されているので、出来事のうつろいを台詞を頼りに把握するというのでは、ピンとこないことが多いのではないか?ということだ。そしてそれはオーソドックスな鑑賞姿勢だともまた思う。
あっているかはわからないけれど、有名なフォーマットでたとえてみよう。
『呼ぶにはとおく〜』という題の手紙があなたの手元に届いたとする。あなたは広げてみる。するとそこには意味不明の文字列が並んでいる。こんなだ。
「たたもたたりたやあたかたねたたたがたんたたたたばたたたれ〜た!」 そして手紙の文末には狸のイラストがある。
たとえば狸のイラストが添えられていない作品をわたしは「難解」とする。フォーマットをそもそも知らなければ解読ができない。それはフェアじゃないと思うからだ。
そして、「た」を抜かずにそのまま読んで首を傾げる人のことをわたしは糾弾しない。しかし、この文章を読み解こうとせんとすことを「そんなのは穿った見方だ誰もできないだろ!」と非難されることは、狸のイラストを指差すその動作のみで抵抗する。
前述した「近年の排気口」というのを一旦“2021年の長編作品“とまとめる。『午睡荘園』、『金曜日から』である。2021年の排気口のテーマは「集団と個人」であると菊地穂波が宣言していたが、それでは『午睡荘園』と『金曜日から』はそれぞれどのようなアプローチで「集団と個人」を描いていたか。
『午睡荘園』は悪の組織であるショッカーの杉並支部における内部分裂を描いていた。そこには、集団が個人を抑圧し破局・決裂していく様が描かれていた。
『金曜日から』は企業の超能力研究部署において、未来を展望する予定とそれへの予約が否応のない現在に阻まれ解散することで、個人の夢が集団の興亡から逃れられない様を描いていた。
これら2つの作品は、一幕でありながら暗転と休憩によって分断された複数の場面(=時間)に時系列が逆配置されることで、観客が「大きな悲しみや離苦」の後に「そうなる前の時間」を鑑賞する。この構造は観客に強制的な(登場人物たちはまだ知らないけれど私たちは知っている)運命づけられた未来への不安と、「あんな悲しいことが起きたけど、それよりずっと前にはこんなに楽しい時間もあったんだ」という郷愁を与え、文字通り“エモ”の効果を生み出している。歪な形であるが観劇を通して観客は作品内に流れる時間を“思い出す“のである。記憶喪失者が記憶を取り戻すのと(違うんだけどそれでも)似ているかもしれない。知らなかったことを思い出す。そこには感動がある。
また、上記の作劇に伴って菊地穂波テキストに顕著な技である「意味の変容」というのも、観客の感動を生む機能がある。作品の序盤で出てきたあまりにもくだらない台詞や事物が、クライマックスにおいて異なる意味をもって登場する。そしてこれらの作品は、先ほどの手紙のたとえで言うならば、「守屋茜がんばれ〜!」と書いてあったのだ。ドラマという名前のインクで以って。
さて、「2022年の排気口作品」はどうか。2022年作品のテーマは「戦争」であるらしい。2022年作品の色の予兆は2021年晩秋の短篇『これは走り出さないほうの両足』からあった。『走り出さない〜』は自殺サイトで出会った男女が、訪れた樹海でムーミンとミィに遭遇する二〇分間の演劇。この作品をわたしが観たときにまず感じたそれまでの作品との差異は、こんなシーンである。
未解決事件サイト閲覧を趣味にもつ自殺志願者の女が、ムーミンとミィの関係性について、二〇年前の女児誘拐事件の被害者と誘拐犯じゃないかと詰め寄る。一度ミィがムーミンを“お父さん”と呼んだことを指摘して、誘拐した女の子にお父さんと呼ばせるムーミンを非難し、ムーミンは「すみませんでした」と土下座をする。
しかしその直後、実はその事件は解決済みの全く関係のないものであると判明するのだ。
この短いやり取りは、それまでの排気口のパターンの逆をいく展開であるし、またオーソドックスな作劇と照らし合わせても「そうはしないだろ!」というものじゃないかしら。また、この演劇は結局、自殺志願者たちとムーミン、ミィの心は交流せず、自殺志願者たちの自殺意思も変わらないまま終わる。
続く2022年『後ろに近づく淋しさ以外は』においても「意味変容」と「想起」の演出はなかった。そしてドラマのインクもほとんど使われていない。では、そういった武器または道具を手放すことで菊地穂波は何をしようとしていたのだろうか。ここからはいよいよすべての文頭に省略された「知らんけども」があると思って欲しい。
ここまで書いた時点でわたしはパソコンを閉じている。休憩時間に「【けやかけ・そこさく】たまに怖い&ドSな理佐まとめ【渡邉理佐】」と「【そこさく】真骨頂な松田里奈」と「【そこさく】最高の友達松田里奈」と「【そこさく】松田里奈 やってるシーン集Part3」と「【けやかけ・そこさく】大沼の最恐にぶっ飛んでる名場面まとめ【大沼晶保】」を観た。閑話休題。
『走り出さない〜』は笑いに溢れた小作品で、笑いどころの一つとしてムーミンが繰り返す「勸玄くんみたいな土下座」というのがある。菊地穂波が仕掛けたテーマというのはこの「土下座」にある。ムーミンとミィは人間たちに排斥された被差別者であり、その恨みから地球滅亡を目論んでいるのだが、この被差別者の悲しみが繰り返される土下座に表象されている。ムーミンにとって、土下座することだけが異物たる自分達の処世の術なのだ。そして過去から現在まで続くトラウマは、たとえば自殺志願者の男女にもそれぞれ違う形ながらにして同じように抱える傷として存在し、また、癒えない。二〇分間、すべてのキャラクターが他者と分かり合えないままだ。
『後ろに近づく〜』はコンビニのバックヤードで従業員たちがメリーさんの怪談に怯えるという作品だが、この作品のキャラクターたちもまた過去から現在まで受けた傷というものと、その対象を忘れないし許さない。『走り出さない〜』と異なるのは、その傷と事実は解消されないけれども、それでも楽しい未来のことを考えようという点だった。ここには短編と長編の作品尺の差が関係するのだろうが、今書いていて「お〜」などと思うのは、『呼ぶにはとおく振りむくにはちかい』は、『走り出さない〜』と『後ろに近づく〜』を合わせたような、いや、踏まえたような作品だなということだ。
2022年の排気口は「戦争」をテーマとすると書いたが、『後ろに近づく〜』ではストーカーの正体がタイムスリップしてやってきた青年兵という設定でそれを匂わせていた。そしてタイムスリップおよび出自をめぐる問題でもって描かれていたのは広義での「歴史性」つまり蓄積されている過去、のようなものだった、気がする。気がするというのは正直何ヶ月も経っちゃってあんまり覚えてないからなのだが、確かそのようなことを感じ取った気がする。現在まで消えない過去性(それはたとえば歴史的な事件を背景とする国同士の対立とも相似でしょう)と、安易な解決ではなく無関係な「未来」を。そんな……。いやちょっとあんまり滅多なことはかけないね。排気口に問い合わせてほしい。
排気口の劇のことを思い出そうとすると欅坂46の顔が浮かぶようになっている。彼女たちは可愛くて面白くて、わたしは誰にも見せられないような歪な笑顔をしている。そしてその顔が、真っ暗な部屋の中でピンスポットの如きスマホの画面によって照らされている。
枕が長くなってしまったが『呼ぶにはとおく〜』の話に入る。
修学旅行初日の夜、職員たちが明日に控える平和学習のための戦争演劇の打ち合わせをする。というのが一言で済ませればあらすじとなる。
戦争をテーマとしながら菊地穂波が描いたのは「戦争の悲惨さ」ではない。「戦争のメカニズム」である。戦争はこのようにして起きるということを提示し、そこに「だからやめよう」とか「恐ろしいよね」などとは言っていない。
戦争はなぜ起きるか? それは、他者に非寛容だからだ。他人の事情より自分の事情を優先させるからだ。政治的、宗教的、経済的という内実ではない。共通する構造の話だ。
劇中において教師をはじめ、劇団「平和」の両親も、つまりはすべての大人たちが全員事情を抱えていて、その事情に基づく「こういうふうにしたい」という現在の欲望を他の全員に押し付けていく。そこには当たり前だが対立が生まれるだろう。しかし、全員が全員、相手の話に聞く耳を持たない。口をひらけば非難と愚痴である。
LGBTやいじめや就職難民といったテーマ性が雑多に挿入されているため主題が分かりづらいという感想をSNSで見かけたが、わたしはそれをテーマとは思わないしまた雑多とも思わない。LGBT問題やいじめ問題や就業問題を悪戯に扱っているわけではなくあくまで“非寛容の具体例“としてキャラクターに設定しているに過ぎない。具体例とは何か。テーマの換言でありそれは分かりやすさのための装置だ。
だからか、排気口の演劇において珍しく思ったのだが、それぞれのキャラクターが自身の暗い心情を吐露する台詞にわたしは表面的な説明以上のものを感じず、つまり各々の個人に対して心が動かなかった。彼らはそれぞれが悲痛な訴えをしていても、次の瞬間には同じく生きづらさを抱える別の存在に対して無礼で非情な言葉を浴びせるのだから。『シャーマンキング』でいうところの「やったらやり返される」ではなく「やられたらやり返す」でしかない。いや、それすらもないのか。
誰も相手の話を聞いてない。劇序盤の信じられないボリュームでのナンセンスな台詞の応酬は、当人にとっては切実でも他者(それは観客のことでもある)には無意味であるし、チョビタ先生のいうように「静かにして!」「うるさい!」なのである。
序盤の台詞のボリュームとスピードと量に関してもう一つわたしの見解を述べると、あれは「空襲」の比喩だろう。単に俳優もしくは演出家の失敗とは思えない。その根拠の一つに劇団「平和」の母親が戦争演劇のナレーションをするにあたり語られる被害がすべて空襲についてだったからというのがある。戦禍は空襲だけではないはずなのに。飛び交う怒号と激しい出ハケはさながら爆破である。観客は擬似的な絨毯爆撃に対しストレスを感じて然るべきであって、戦争を描く作品においてそれは一概に「よくない」とは、わたしの意見としては言い難い。(ちなみにわたしは覚悟していたほどストレスではなかったが、まあそれはわたしの感じ方だ)
こうして書いている間にも少しずつ作品のことを忘れ続けている自分がいる。果たしてあとどのくらい言い及べられるだろうか。
さて、非寛容を象徴する大人たちの対極には子供たちがあるわけだが、その他にも大人/子供には明確に表される比喩がある。それは過去性と未来性である。「人生」という有限の時間を生きる人間を二分したときに「過去」の蓄積が大きいものを「大人」、「未来」の余白の大きいものが「子供」である。大人たちはその蓄積によって苦しめられ、子供は不確定な未来に不安を感じるのである。ちょうど中間に置かれているのが教育実習生のユカちゃんであり、また猿田でもある。ユカちゃんは「これから始まる恋」を思いながらも、「恋に絶望する」ドロミ先生を非難する。あれは激励のようでいて激励ではない。ドロミ先生の抱える悩みを考慮していないからだ。だから「恋を諦めんな!」的なセリフはすべて、非寛容の属性に入る言動だ。一方の猿田は子供でありながら幽霊つまりは未来を剥奪されている存在である。
この作品は大人がたくさん出てくるが、主人公──というか作者によって祈りを託されているのはおそらく「子供」で、唯一救済のようなものがあるとすればセレセちゃんの人生にしかない。いじめられているから学校に行きたくない、というのは厳密には母親のトラウマであり、作者がセレセちゃんに施す救済は「このままずっと八歳のままでいい」という彼女の台詞の解呪にある。つまり、未来を志向させるという点だ。
上記、過去/未来 と人生の時間を二分したが大人も子供も、生きているのは「現在」という一点である。大人たちは現在に居ながらにして過去を振りむき続ける。
セレセちゃんは、この一点のまま繰り返され続ける時間つまりは「戦争演劇の時間」に留まろうとする。修学旅行の初日という“現在“にしか留まれない猿田がそれを解呪するわけだが、ではいかにして?
魔法使いを希望するワンコ先生が魔法の杖を持っている。小さな頃、夜に欲しいものを書いたら朝に現実になっていたというエピソードが語られ、たとえばそこに「魔法」という力を置くと、「欲しいものが手に入る」→「ゆえに自分は魔法使い」→「ゆえに持つ杖は魔法の杖」というように、作者は魔法能力の所在をさりげなくスライドさせている。そこには二つの狙いがあって、一つは大人になったワンコ先生から彼女の自認識で持って特権性を奪うこと。もう一つが、魔法の杖に能力を持たせるということである。
ワンコ先生の語るエピソードと、他の大人たちのセリフにもある「夜だけ見られる夢は朝になったら忘れるんだ」(でしたっけ、まあなんかそのような)という“夜/朝”のモチーフは、夜に夢を、朝に現実を喩えているのだろうが、魔法の杖その能力だけが、現実を超越できるのだ。(たとえ誰かの恣意だとしても)
(作者が)猿田にワンコ先生から魔法の杖を奪わせたのには、猿田を魔法使いにする狙いがある。魔法使いは自分のためではなく、他者のために魔法をかける。チチンプイプイなど唱えなくても、杖を持っているものが魔法使いであり、魔法使いの言葉は“祈り“という形で魔法をかける。
しかしながら猿田はその祈りを「ウソ」と言う。祈りは魔法、魔法はウソであると。でも、それでも、現実にならないようなことでも、あとから振りむけばウソに終わるかもしれなくても、過去と違って未確定の未来には「絶対」は無いから。このねじれがお分かりになるか。ウソと言わなくていいことをウソとわざわざ規定し、それでいながら遠い未来を呼べという。もしもそれだけで終わっていたなら、わたしはこのクライマックスを詐術的に感じていただろう。魔法って言い切ってくれればいいのになんでわざわざウソと見なすんだろうと。しかしなのだ。ここからがこの作品で最も重要で、おそらく菊地穂波が最も伝えたいメッセージが込められたシーンが到来する。
大事なことなので改行しちゃう。さらに行あけてみるか。それ!
四十度の熱を出しトイレのサンポールを飲み干し四肢を骨折し一家が破産した生徒であるクニエダが、突然全回復するのである。
これなのだ!!!!!!!大真面目にこれがこの演劇の上演時間である九五分において最も感動的なシーンなのであり、菊地穂波のメッセージなのだ。
上演時、実際には姿を現さないクニエダの全回復が伝えられるセリフで客席には笑いが起きていた。それはいわゆるコメディに笑うのと同じ音をしていた。しかしマジで絶対これが重要なのである。なぜか? “ありえないことだって実際に起きる”という具体例が示されるからだ。いくらでも出まかせを並べられる“言葉“によってではなく、ゆるぎなき現象としての奇跡/魔法なのだ。ありえないなんてことはありえない。あらゆる理を転覆させて、文脈もリアリティも脈絡なく破壊する、そんな「もしそうなったらいいな」は“実際に”起きるのだということを菊地穂波は示している。それが素晴らしいじゃないですかとわたしは思う。「そんなわけない」「現実には起きない」というのはおかしい。なぜならそもそも“実際に奇跡が起きている”のは「フィクションの中において」なのだから。菊地穂波はたとえば「戦争は起きなかったことにしよう」などとは言っていない。戦争演劇の中で戦争が終わっちゃったことにしようぜという提案が結局実現しなかったことでそれは強調される。戦争とは現実世界で過去実際に起きた大いなる悲しみであって、その転覆をフィクションが図ることはおそらく菊地穂波の誠実さに背くのだろう。では悲しみにどう立ち向かうか?この世界において、現実や過去の揺るがなさに対抗できるのは、フィクションのフィクション性と、そして未確定の未来に夢をみることなのだ。どちらも、起きながらにして。
さて、ちょっと前に「戦争のメカニズム=他者への非寛容」と書いたが、この演劇において菊地穂波は「だから寛容であれ」とはしない。なぜなら言うまでもなく私たちは他人だからである。これは他の排気口作品にも共通する姿勢なのだが「手を繋ぐのではなく手を離すことを祈る」というのが他者関係性の健全に対する菊地穂波のスタンスである。
育ってきた環境が違うから好き嫌いを否めないはずなのに、分かり合えるはずだと盲信して他者に接することよりも、どんなにそばにいる人でも他人とは分かり合えないことだけが絶対で、だから、辛いかもだけどさ、この手を離してみよう。 こう言うのだ。この書き方でわからない人は増村保造『青空娘』なり古沢良太『リーガルハイ』子役の回なりをご覧いただければお分かりかと思う。あれらとおんなじである。多分ね。
だからこそ、全員が当初「一緒に演劇をやろう!」としていたのに、一緒に演劇をしないという結論に達するのだ。それは全員が同じように志向できるはずだという盲信からの解放だ。連帯の手を離すという連帯をする。サンは森で、わたしはたたら場で暮らそう。修学旅行は先生たちのためのものではないのだから。誰のためか?未来を表象する、子供たちのためのものだ。
──はぁ。もうそろそろ書くことが浮かばなくなった。そもそもこの文束はしょせんそこにパブリックな責任を伴わない感想文なのだ。終わりのところで終わりでいいのだ。だからわたしは現在、以下のことを考えている。
「まつりちゃん(松田里奈さん)と自分の関係性において、最適なものはどんなであろうか?」
思いめぐらしたどり着いたのは“まつりちゃんが妹”だった。
あんな妹いたらめっちゃいいよなあ。小学生の時は一緒に夏祭りとか行くよね。だけどさ、中学に上がって、やっぱ「今年からは友達と行くから」とか言われちゃうんだろうな。「そっちも友達と行けばいいじゃん、恥ずかしいよもう」とか言われて、うっさいわとか返すわけだけど、意外にも「(無言)」みたいな気持ちで、それでしらこい顔してリビングでテレビとか観てるんだけど、ママが「あんたも夏祭り行かないの?」とか話しかけてきて、「カネねーし」とか呟くんだけど、「小遣いあげるから、行ってきなさいよ、里奈の様子もみてきてよ心配だし」つって千円札を握らされるわけ。
それで、しょうがないなあみたいな態度決めてから、サンダルで、ぶらぶら神社までの道を歩くんだ。夏祭りは神社で行われているからね。喧騒ともんわりした熱気が遠く聞こえてきて、湿気に希釈されたオレンジ色の光がグラデーションみたいに一歩一歩濃くなってくる。
着いたはいいもののやることなくて、焼きそばと、りんご飴買って、里奈はりんご飴好きだったからね、もし会ったらカッコつけちゃおうかなみたいな。恥ずいか。でもまあいいやって思って一応買って、振り返ったら人ごみの中に浴衣姿の里奈が見えるわけ。声かけようと手を伸ばした瞬間、りなの傍らに半袖シャツ姿の男の子がいるんだ。
二人の手にはさ、りんご飴が揃いであって、笑い合うっていうよりはこの時間を大切にしているみたいにお互い歩調に気を遣いあってる。お前「部活の友達」って言ってたじゃん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。ふーん。
気づくと神社から出ていて、焼きそばは手元になくなってて、でもりんご飴はあるから、りんご飴が「見間違いなんかじゃないんだぜ」って言ってるみたいで、「先ほどの時間は実際に起きてしまったのだぜ」と囁いてるみたいで。捨てちまおうとするんだけど、捨てたらなんか、全部ダメな感じがして、どうしようと立ち尽くしてしまう。
「何してんの?」そんな声に顔を上げるとそこには同じクラスの守屋さん。全然浴衣じゃなくて、普通に部活帰りみたいな夏用ジャージ着ていて、普通に部活帰りみたいにテニスラケットの入ってるバッグを肩に提げている。
「お祭り?一人で?哀れすぎない?」守屋さんは容赦がない。そもそもあんまり話したことないのに。
「りんご飴じゃん!いいな」
「え、要る?」
「え、いいの?」
「いいんだ」
「ありがと」守屋さんはすぐに齧り付いて「硬って」と笑った。
なんだか笑ってしまって「守屋さんは部活帰り?」と訊いてみたら「そうだよ。わたしもこれからお祭り行くの。みんなを待ってんだ」だってさ。
「もうすぐ花火始まっちゃうよ」と困り顔の守屋さんの横顔は美しくもやはり畏れ多さを感じさせて、でもその横顔が綻んだ。
「あっ!」
視線の先には学年の女子たち。
「一緒にいく?」って守屋さんが言ってくれるんだけど、「いやあ、帰ります」と首を振って、そんじゃあーとポケットに手をつっこんだ。
下を向いて歩いていると、離れたところで「おーい!」と声がした。
振り返ると守屋さんが手を振っている。合流した女子たちは「え?誰?」とか「どうしたの?」というようなことを言って、笑いながらもちょっと訝しげだ。
「りんご飴ありがとね!!また学校でね!!」
その時、夜なのに一瞬昼間みたいに明るくなった。遅れて大きな音。花火。
そっちを見ていたら、「ねえ」と至近距離で声がして、驚いて振りむくと守屋さんがいた。
「聞こえた? りんご飴、ありがとね」
「え、うん、聞こえたよ笑」
「あのさ、絶対誰にも言わないで欲しいんだけど」
「え?」
「教えてあげる」
「な、何?」
「わたし、アイドルんなるんだ。秋になったら」
「えっ、まじ?ウソ、すご」
「受かったんだ。でも誰にも言わないでよ」
「まじ…やばっ。え、ファンレターとか書くよ!地元のやつってバレないようにするわ笑」
「なんでよ笑」
わたしは興奮していたんだろう。
「まじ、まじ書く。楽しみにしててよ。まじ暗号使うから。まじ絶対バレないやつ笑」
「まじ笑 楽しみにしてるわ」
「え、てか、なんで教えてくれたの」
「りんご飴くれたから、お礼。それに、やっぱりちょっと、誰かに自慢したいって思っちゃったんだ。かっこ悪いかもだけど、やっぱ聞いてほしいって」
そこで一度守屋さんは言葉を切って。
「すっごくうれしいんだ。夢が叶ったって感じなんだ」